信仰生活は、必ず傍観者の立場を脱皮しなければなりません。皆さんは今、先生に従っていますが、先生を中心として信仰生活をするのではありません。皆さん自身を中心として信仰生活をするのです。ですから、信仰生活をする人には、人がどうであろうと、自分一人が守っていくべき信仰の道があるのです。そのような信仰生活は、周りの人からは学べない深い心情の世界において、天を中心として一人で感謝する生活、一人で満足する生活ができなければなりません。世の中がどんなに悪くても、天地を見つめながら、「感謝します。私は幸福です」と言える信仰生活をしなければなりません。そのようにできず、そのようなことを感じられなければ、その反対の立場、この上なく悲しい立場で、「私は罪人です。私は足りない者でございますので、勇気をお与えください」と決意して再起する、そのような期間を必ずもたなければならないのです。
第1節 信仰生活とは
真の信仰観
「信じて行えば、できないことはない」。このような信仰観をもたなければならないのです。「第一の主体は神様であり、私は対象である。完全なプラスは、完全なマイナスを創造する。自分は第二の神様、第二のイエス様、第二の父母様の立場にいるので、その立場に到達できる!」という考えをもたなければなりません。先生がどのようにして世界的な仕事を独りでしているのかということを考える時、このような哲学的背景を中心として、直接的に国を消化していっているからです。ですから、先生の前に潔く、「私たちは、これを伝授されて、間違いなくそのように生きます」と約束しなさいというのです。
先生がこの地に来て、信仰の世界に残した偉大な内容は四種類です。神様と人間の関係をはっきりさせました。責任分担と蕩減というものを、歴史上、誰も知りませんでした。人間がなぜこのような姿になったかを知らなかったのです。これをはっきりさせておきました。次に、良心的な人は貧しく、悪人が良い生活をするのはなぜかということです。蕩減法、カイン・アベル問題を知りませんでした。その次には、人間が善を望むのに、なぜますます問題が悪くなっていくのかということです。これは血統問題、サタンの汚れた血のためです。血統問題を根本的に知らないために、解決できませんでした。世界の問題がみな、この原理に引っ掛かっています。
今までの信仰生活は、「私」一人を取り戻すためのものでした。失ってしまったアダムとエバと同じ立場で、原罪のない本然の個体を取り戻すためのものでした。今、神様が最後に願うこととは何でしょうか。まずは神様の愛を中心として、個体と個体を合わせた一つの家庭を取り戻すことです。さらには、神様が愛するその家庭を中心として、そこから広がる氏族を取り戻し、民族と世界を取り戻そうというのです。これが神様の全体的なみ旨です。
天は、人間的な希望を中心として生きている人間をして、新しい希望をもって死の峠を越え、永遠の世界を欽慕しながら生きるようにするために、無限に苦労されました。ですから、信仰生活をする人たちは、地上に何かの希望を抱いて生きるのではなく、死までも越えて立ち得る希望を抱き、永遠の希望の世界を夢見て生活しなければなりません。このために、私たちも今、信仰生活をしているのです。
天の心情を体恤し、その心情圏内からもたらされる衝撃と刺激を感じる者がいるとすれば、地上のどんな迫害や苦痛や死の道がその人の行く道を塞ごうとしても、塞げません。このような心情が心を激しく動かし、その心が体を促して手足を動かすようにすることによって、いつの間にか無限の境地に向かって歩んでいくようになる、その生活を一つ一つ体恤しようと努力するのが、正に今日、俗世で暮らしている信仰者の生活なのです。
神様は、自分の教団を中心として信仰生活をするキリスト教徒を望みません。先生も統一教会という看板をつけていますが、「この看板をいつ取ってしまえるだろうか」と考えます。皆さんは統一教会の人たちだと注目を浴びているかもしれませんが、その注目が三千里半島(韓半島)でいつ消えるかというのです。世界に広がっている統一教会の食口たちは、神様の恨を解こうと歯を食いしばって努力し、神様の苦難の道を代わりに歩もうと、忠孝の心情で走っています。この仕事をして倒れるのを最高の基準として、決意して歩んでいる群れが統一教会の食口たちです。このように行く道が恵みの道なのです。
神様が見る皆さんの信仰の観念は、あまりにも気掛かりです。今、先生がこの地にいなければ、皆さんの中で、何人残るか疑問です。分かりませんが、争いが起こるでしょう。今、先生は、み旨のために死のうという人がどれほどいるかという点から、皆さんを見つめています。ですから、皆さんは深刻な立場に至らなければなりません。家庭では妻と子女たちのために、教会では食口たちのために、自分がどれほど精誠を尽くしたかということが問題なのです。
自分の信仰生活において、天の同情を受ける内容を残せない人は、それでおしまいになります。今、先生自身もそうです。先生自身はもちろん、公的な立場でどこかに行って、礼拝の時間に遅れるようになれば、出てくる前に祈ります。また、ある聖日には、礼拝の時間になっても行けないときがあります。その時にも、必ず悔い改めの祈りを捧げます。主体的責任をもった者として、食口たちが先生を仰ぎ見ながら、福を受けようと生死の問題を解決するために精誠を捧げているのですから、その時間に行けない自らを赦してほしい、と祈るのです。そのような祈りが必要なのです。
世界のために行かなければなりません。世界のために犠牲になるのです。目的を成就しようとする人が、その目的のためにどれだけ犠牲の代価を払うか、相対的圏内にそれがどれだけ流れていくようにするかによって、目的成就の期日が短縮されるのです。世界のために生きようとすれば、大韓民国のために生きなければなりません。大韓民国が世界のために生きなければ、私たちが世界のために生きなければならないというのです。自分のような信仰と思想をもつ人をっくり、あるいはそのような子孫をつくって、このような思想を千年、万年後代に残してあげる基盤が残る限り、「統一思想」は、世界に新しい文化世界を創造する思想になるでしょう。このように見るのが、先生の観点であり、神様の観点なのです。
皆さんの信仰生活に味がなければなりません。先生は、昔、皆さんを伝道しなさいと地方に送り、統一産業に毎日、一日に二度、三度行き来しました。また、清平に一日置きに行き来しました。何のためにそのようにしたのでしょうか。味があるというのです。普通の人には感じることのできない味が分かるのです。精誠を捧げて行き来するその世界において、心霊のあらゆる細胞が発展し、その発展の力が自分の内面において運動するというのです。そのような何かがなければなりません。雨が降ろうと、雪が降ろうと、味を感じなければならないのです。
主がこの地に来られる目的は、地上に天国を実現するためです。天国は、どのような所でしょうか。侍るための準備に合格した人と、侍る生活に合格した人が行く所です。侍るための準備と侍る生活を、万宇宙に、永遠に誇れる世界が天国です。天国に行って何をするのか分かりますか。ただ遊び回る所だと思っているかもしれませんが、そうではありません。遊び回ろうとすれば、そのために、過去に準備をしてきた条件と、生活的な条件がなければなりません。ところが、何もしないで、「福を下さい」と祈ってばかりいます。神霊的な人たちが途中で苦しくなる主な原因が、そこにあります。いくら恩恵を受けた人でも、七年を越えるのが大変だというのです。
無条件に福を下さいというのは、真の信仰ではありません。真の信仰をもとうとすれば、どのようにしなければならないのでしょうか。今日、この地上にいる人類は、六千年間続いてきたアダムの子孫です。ですから、人類を思って痛哭できる心の基準が確立されていなければなりません。そうでなければ、その世界と絶対に縁を結ぶことはできません。かわいそうな乞食を見て、胸が痛んで耐えることができず、服を満足に着ることのできない人を見れば、自分が服を着飾ることに耐えられず、満足に食べられない人を見れば、自分も食べることができず、自分だけがどこか安らかな所にいることはできないという心をもたなければならないのです。
世界には二種類の人がいて、宗教者の中にも二種類の人が存在します。とにかく自分は楽に、良い暮らしをして福を受けようとし、自分の教団が豊かになり、自分たちの民族は幸せに暮らそうと祈る御利益宗教は、消えていくのです。そのようなことを知ったので、統一教会は、自分の一身を犠牲にしてでも神様を助け、神様を解放しようというのです。統一して何をするのでしょうか。神様を解放しようというのです。神様の真の権威を中心として、人類始祖と共に無限の幸福をたたえながら理想郷で暮らすことができ、侍られながら過ごすべき神様が、このように悲惨になったという事実を知ったので、その神様を私たちの手で解放させようというのです。これは驚くべき提言です。そのような内容が宗教界から出てきたという事実は、神様にとってこの上なく喜ばしい知らせなのです。
信仰生活とは、生きて死の問題を解決しようというものです。皆さんは、死刑囚たちについては知らないかもしれませんが、先生は死刑囚たちと一緒に過ごしてみたので、よく知っています。その人たちは、自分の刑が執行される前、どれほど深刻か分かりません。秋夕(先祖祭祀と墓参をする旦のような日になれば、その秋夕の月を、歴史にない最後の月として鑑賞するのです。風が吹き、台風が吹きつけても、「ああ、自分の人生では、この台風が最後になるなあ」と言いながらそれを鑑賞するというのです。あらゆる万象を新たに見直す、そのような深刻な心情で過ごすのです。信仰の道を行く人の中に、このように深刻な立場で天の生命を大切に秤にかけながら、一日の生活を誓っていく者がどれほどいるのでしょうか。これは深刻な問題です。先生もそのような深刻な立場にいるので、このような道を継続して行くのです。
信仰生活は神様に侍る生活
信仰は神様に侍る生活、侍りながら共に暮らす生活です。その道を行かなければ安らかではありません。すぐに体に支障を来たします。環境に支障を来たすというのです。信仰生活は、天に侍って共に暮らす生活です。朝に日が昇り、お昼になり、夕方になって日が沈むのは変わりません。千年、万年変わらないのです。その軌道が狂うことになれば、すべてのものがずれていきます。愛の心、真の愛の道を訪ねていかなければなりません。真の生命、真の血統を受け継いだ人は、神様の眷属になって、いつも神様と共に暮らすというのです。自然と共に喜びながら生き、自分が行き来する生活を喜んですることが、神様と共に暮らすことなのです。
信仰生活には、団体の信仰生活もありますが、個人の信仰生活もあります。団体の信仰生活をすれ平均的な恩恵は受けることができますが、個人の恩恵を受けるのは困難です。個人の恩恵を受けるための生活は、天の近くで生きる生活です。深い祈りと自分自らの生活の中で、どれだけ天と近く生きるかによって、個人の信仰が高まるというのです。
皆さんが統一教会の仕事をするためには、新しく信仰者の覚悟をもたなければなりません。中心に対するはっきりとした信念をもたなければなりません。その中心を世界の理想の中心と思うまでは、世界を収拾できる信仰生活ができません。信仰による人格を分別することができないのです。ですから、皆さんは、信仰の中心に対して、はっきりとした信念をもたなければなりません。山の頂上に上ることを願うならば、夜も昼も行かなければなりません。そして、心の世界で千回、万回行ってみて、正しこだと感じたとき、初めて行動することができます。心の底からそのようにしなければ、行動ができません。心の底で千回、万回決心してから行かなければならないのです。自ら決心して立ち上がったので、途中で様々な危険が近づくとき、その危険を解決するために、材料を収拾するのが信仰生活なのです。
信仰生活は、ただするのではありません。信仰生活は、頂上なら頂上を征服するために、最高峰なら最高峰を征服するために、必要な材料を収拾するのと同じです。ですから、皆さんは困難な峠が近づけば、その峠を避けて戻るのではなく、克服して進まなければなりません。今、ぶつかっている難しいことより、もっと難しいことに遭遇するようになっても、「私はそこで滅びない」という真剣な立場で、その困難を自分のものとして消化できる、主体的な自我を発見するために努力しなければならないのです。
悪の分野を阻止し、善の分野を生涯路程に残そうとするのが、人間が信じて進む信仰生活です。人間が望む最高の希望とは何でしょうか。完全に善の存在になることです。マタイによる福音書第五章四十八節に、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」とあります。絶対にして善の主体であられる神様は、その愛の対象の位置に人間が立つことを願うでしょう。ですから、人間も、神様の相対的絶対の善の存在として立つことを、最高に願うのです。その相対的な存在が悪の立場に立って呻吟し、サタンに讒訴される位置に立つことを願わないのが善の主体です。これは言うまでもありません。ですから、完全な善の主体としていらっしゃる神様は、人間に対して、完全な対象的善の実体であることを望まれるのです。それでは、生まれる時からそれを願ったのでしょうか。もちろんそうでしょう。また、生まれて一生の間、そのように生きることを願うのでしょうか。もちろんそうでしょう。今までもそうしましたが、未来においても、善であることを願う神様だというのです。
信仰とは、信じて敬い、仕えることです。その信仰の限界とはどこでしょうか。忍耐の信仰、克服の信仰の限界がどこまでですか。神様以上の立場に上がるまでです。神様に侍ることより、神様の頭に上がって踊りを踊っても、神様が喜んで、「さあ、踊れ」と言うことができるところまでです。そこまで上がらなければなりません。ですから、信じられないことがありません。内容さえ裏づけられるならば、信じられないことはないのです。
統一教会は、生活の中で生きた神様を信仰の対象、侍る対象とし、神様の愛から結束と統一を主張していこうというのです。これが統一教会の出発の動機です。最も理論的な基盤の上で出発した宗教です。妄想ではありません。具体的な内容を提示して出発したというのです。
侍る生活は、千年たっても自分を考えてはいけません。「私は統一教会で数十年間、先生に侍った」と考えてはいけません。そのような人を先生は好みません。先生は、今までしてきたことをみな忘れてしまいました。忘れていくようになるとき、より大きな侍る生活が待っています。神様もそうなのです。
信じて希望を訪ねていく生活
信仰者は、より大きなことのために、公的な祈りを捧げなければなりません。そうして、これを横的に、どのように展開させるのでしょうか。それを空想することで終わるのではなく、行動の結実として表すために、創造的な冒険をしなさいというのです。ですから、信仰者は、現実の環境と不断に闘争して、理想を現実化させるための冒険の生活をしなければなりません。したがって、信仰生活は、最高の開拓者の生活であり、最高の闘争者の生活であり、最高の伝道者の生活です。そのような結果として現れてこそ、最高の勝利者になることができます。皆さんは、そのような信仰生活をしなければならないのです。
永遠に自分が自分を信じ、自分が自分自身を望みとして、自分が自分自身を愛しながら、「神様、私の愛をお受けください。神様、私の希望を御覧になってお喜びください。神様、私の信仰を御覧になってお喜びください」という時、神様が「分かった!」と言うことができなければなりません。信仰を立てた目的がそれであり、希望を探す目的がそれであり、愛を慕わしく思う目的がそれなので、そのようになれば、そこで主に相まみえるようになります。そうして、その主と共に暮らすのです。
皆さんの善し悪しが問題ではなく、皆さん自身が神様のみ前に順応できる絶対的な信仰をもっていけるのか、ということが問題です。実績をもてずにいれば、希望だけでももちなさいというのです。希望をもつためには、絶対信仰をもつことはもちろん、実践的過程を築いていかなければなりません。先生は、この地上の男性を代表し、誰よりも厳しい闘争の歴史を経ていかなければなりません。先生は、霊界と肉界から公認される権限をもって現れましたが、皆さんはそうではありません。実績がなければ、信仰で越えればいいのです。その信仰は、どんな信仰でなければならないのでしょうか。自分が好む信仰ではいけません。そのような信仰では、志を成就したとしても自分だけが喜ぶ志なので、神様が喜びません。自分の思いどおりにしたことは、やればやるほど神様からも、先生からも遠ざかるのです。「自分が好きだからやるのであって、嫌ならしない」と言ってはいけません。神様がお喜びにならなければなりません。問題はここにあります。先生自身もそうです。ですから、自分が実践的な生活ができなくても、絶対に信じなさいというのです。信じればよいのです。
統一教会の教会員たちは、先生の話を絶対的に信じなければなりません。希望を求めて昔のように信じなければなりません。昔、み旨が分からない時にも、希望を抱き、愛を慕いながら進みました。皆さんが求めた道を歩みながら、そのような立場に立っていないのなら、先生のみ言を信じ、神様の愛を信じ、その命令によって動かなければなりません。それしか方法がありません。このような道を経ていかなければならないのです。もし、皆さんが個人的な勝利の位置で神様の祝福を受け、家庭的な位置で祝福を受けたとしても、家庭を越えて氏族、民族、国家、世界、天宙にまで進まなければなりません。七段階が残っています。神様のみ前にまで行こうとすれば、七段階を経なければなりません。七つの峠があるというのです。その位置まで進むためには、神様を絶対に信じなければなりません。神様がどういう命令をしようと、そこに絶対服従しなければならないのです。
悔い改めて新しい生命を得る生活
ある人は、「信仰生活は年を取ってからしよう、死ぬ時になって、信じて天国に行こう」と考えます。しかし、とんでもないことです。それでは天国に行くことはできません。いつ神様を中心として出発するかということが重要です。死ぬ時になって出発したとすれば、全生涯の大部分は神様に背反する立場にいたということになります。ですから、それに比例して、それ以上の悔い改めをしなければなりません。それにもかかわらず、年を取ってから信じて天国に行こうと考える人は、愚かな人なのです。
信仰生活は、み旨を知ったその日から今までの生活が、ある人は一年になり、ある人は十年になり、あるいは半生をみ旨と共に生きてきた人もいるはずですが、これまでの生活が停止した立場だったのか、あるいは前進する立場だったのか、そうでなければ後退する立場だったのか、ということが問題になります。皆さんは、これらのどこに属するかを必ず明示して、越えていかなければなりません。いくら過去は前進したとしても、きょう停止していれば、そこに神様の生命力が存在できません。神様の愛が存在できません。過去には前進しながら無限の価値と無限の生命力と無限の愛の力をもって生きたとしても、現在が停止した立場にあるとすれば、神様と離別したということなのです。
堕落した私たちが神様の生命圏と愛の圏内に入るためには、必ず悔い改めが必要です。先祖から今まで、百の罪を犯したのなら、それ以上の努力をして悔い改めなければなりません。ですから、信仰生活において悔い改めは欠かすことができません。私たちは、千代、万代の先祖たちを通して生まれました。その先祖たちが善の先祖たちなら、「私」は自動的に神様の生命圏内に接することができる、近い距離にいるのです。しかし、悪の先祖たちならば、神様の生命圏と遠い距離にいます。遠い距離にいる人が神様の生命圏と関係を結ぼうとすれば、先祖たちの悪をすべて乗り越えることのできる悔い改めの期間が、絶対に必要だというのです。これを満たさなければ、自分以上の生命力の世界に接触することはできません。ですから、信仰の道には必ず悔い改めの涙が必要なのです。
み言を成就する生活
信仰生活を十年すれば、その十年の信仰生活が神様の心情と一つになるために闘ったものでなければなりません。そして、皆さんが何かと向き合ったとき、とても大きな喜びを感じたなら、その刺激を中心として必ずそれを成就できる日が未なければなりません。そのような思いが、いつも絶えず皆さんの心の中の深い所に残っていなければならないのです。皆さんが難しい環境に囲まれた立場に立ったなら、「春が来れば、私がこの思いをもう一度発揮して、天の果てまで伸びていく。いつか見ていなさい。その時が来れば、私はこのように行く」という信念をもたなければならないのです。
信仰は、あくまでも実践のための動機を備えるのに必要なものです。ですから、聖書は、天国がどこにあるのかというとき、天国は信じるところにあるとは教えませんでした。天国は私にあるといいました。「私にある」という言葉は、主体的立場が相対的世界にかかっているという意味ではありません。主体的な内容を自分が決めなければならないということです。それを決定できる動機が人間にある、という事実を表したのです。
皆さんは、霊的に先生を通して体恤した信仰を実践舞台に適用させなければなりません。そうすれば、そこから必ず天国が広がります。神様を中心として見るとき、私が二番目なら、実践環境は三番目です。蘇生、長成、完成です。私は中心の位置に立っているので、私が天も完成させることができ、世の中も完成させることができます。ですから、聖書を見ても、いつも二番目が問題になっています。その二番目の位置は、どのような位置でしょうか。神様と宇宙を見るとき、人は二番目の位置にいるのです。
人は、一つの線を中心として見れば、三点を連結するのです。ですから、人間が完成することによって神様が完成することができ、人間が完成することによって宇宙が完成することができます。そのような自分が今、開拓の途上で絶対に必要なことは、この二つの世界を調整するための体恤と実践です。体恤が霊的な面を言うとすれば、実践は真理的な面を言い、体恤が右側ならば実践は左側です。これが一致して平衡を保ち、私の人格基準の前に完結させることによって、宇宙を代表した神様の息子として登場することができるのです。
実績がなければなりません。戦場に出ていき、一人だけであっても、勝利の戦果をもつことが問題です。実践は、いい加減な実践ではありません。神様の代身者として、一家を代表し、一国を代表して、感服させ得る実践過程を経るには、血のにじむ闘争がなければなりません。笑いながら歩んではいけません。死ぬか生きるかという深刻な立場で実践することによって、そこに比例した実績が自然に現れるのです。ですから、最高の実力を発揮して実績を残すべき時なのです。