天聖経訓読室

第2節 信仰生活の目標

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1

習慣的な信仰生活は危険です。そのような信仰生活は、絶えず活動するサタンに讒訴条件を提示する要因になります。人々が復帰路程を歩んでいくにつれて、一人も失うまいとするサタンは、あらゆる方法を通して再侵犯の機会を狙っています。サタンは、個々人が立てた蕩減条件によって一個人から離れていかなければなりませんが、また再び家庭的次元、民族的次元において、侵犯することもあり得るのです。ですから、ある意味では、厳格な戒律が信仰生活に有益です。習慣に依存した世俗的な生活は、皆さん自身を過去の生活に簡単に引き込む傾向があるので、真の生活の方法になり得ません。人間は、ただ真の愛と持続的な自己犠牲の生活をするとき、初めてサタンを克服できます。したがって、困難でも公義を実行するとき、人間の偉大な充足感も得ることができます。皆さん全員が、このような生活を営まなければならないのです。

信仰生活をする理由

2

人は良心と体があります。体が引き寄せ、体が広がり、欲望を広げれば、中心が縮みます。体が思いどおりにすれば、良心の世界は零に戻ります。引っ張って下りてくるのです。これをなくせば、縦的に高まります。縦的な基準において神様のみ前に完成基準を立てられなかったので、そこに到達するためには、世の中のどんな愛よりも最高の精誠を尽くさなければなりません。世の中の愛以上の愛を投入してこそ、長成期完成級から完成期に行き、直接主管と間接主管の一体圏を中心として、責任分担の完成圏を乗り越えるのです。それが原理観なのです。

3

純粋な宗教であるほど、体を打つのです。特にキリスト(カトリック)教徒たちが独身生活をしますが、社会と万民のために犠牲になり、奉仕しなさいというのです。キリスト教では、「城の頂上の石にならずに、隅のかしら石になりなさい」、「柱の中でも正門の柱にならずに、垣根の柱になりなさい」と教えています。聖書の教えは、すべて、体が願うことと反対です。堕落した心と体を、二つともそのまま放っておいてはいけません。ですから、体が喜ぶことの反対側に追いやるのです。そうしてこそ、体の願うことが除去されるからです。純粋で最も高次的な宗教は、体が願う方向の反対に追いやる宗教なのです。

4

信仰の道においては、自己主張や自我観念はあり得ません。絶対的な信仰は、自我観念が一つも残らない信仰を言います。絶対的に信じるというときは、「私」自体に絶対的に反対する要因が一つもあってはいけません。神様を中心として一つになろうというところに、自己主張はあり得ません。主体が求めるとおり、完全に一致しなければなりません。完全に一致するということは、自分自ら主張できる一片の心もないのです。信仰生活をしながら自分の思いどおりに主張できるところがあるとすれば、その場所は天国ではありません。自分の思いどおりに願うところでは、いくらよく信じたとしても、そこは天国ではありません。このような根本問題を中心として、皆さんは深刻に考えなければなりません。先生も、そのような問題を中心として深刻に考えるというのです。

5

個人的に解決し難いことにぶつかった人は、自分よりも信仰において立派な人、自分よりも上にいる人を訪ねて、率直に打ち明けて話さなければなりません。「私は、私ではなく、彼に従っていく人になろう」と考えなければなりません。彼が「右に行きなさい」と言えば右に行き、「左に行きなさい」と言えば左に行くのです。また「上がりなさい」と言えば上がり、「下りなさい」と言えば下りるのです。「私のために生きるのではなく、指導する人の代わりになろう」と考えれば、その環境を避けて行ける道があるのです。ですから、信仰生活において同志が必要です。同志のいない人は寂しい人です。同志がいれば、互いに補充し、保護できるというのです。そうすることによって、環境の困難を克服できる道も生まれます。もし同志がいなければ、自分ですべて解決しなければなりませんが、前後関係を一人で解決できる能力がない自分では、とても難しいのです。

6

堕落した人間は、サタンによって生命が始まったので、自分自身を否定しなければ神様の生命と連結できません。ですから、生命を投げ出す方法しかありません。それでは、生命の統一はどこで起こるのでしょうか。堕落した生命を捨てるところ、すなわち自分の生命を犠牲にする、その果てにおいて神様の新しい生命と関係が結ばれるのです。ですから、信仰の道は、み旨のために行く道であり、一つになるための道であり、命を懸けて行く道なのです。

7

先生は、皆さんが部屋の中で笑いながら話をしても、すぐにその感じが伝わってきます。この笑いが神様のみ前にプラスとなる笑いなのか、マイナスとなる笑いなのか、その感じが伝わってくるというのです。皆さんもそれができるように、習慣化して発展させていかなければなりません。ですから、自分を中心として起きる周囲のすべての要件には、無意味なものは一つもありません。すべてのことが、私を啓発させ、発展させるための一つの教材として登場するのです。そのような生活態度が必要です。一人だからといって、自分勝手にはできないのです。このような生活態度を中心として生活すれば、初めて会う人でも、面識のある人でも、誰であっても、いい加減に接することはできません。初めて会う人だから、適当に扱えばいいだろうと考えてはいけません。その人がどんな人なのか分からないではないかというのです。ですから、このようなあらゆる心情的基準を中心として、体恤する環境を開発する生活をしなければなりません。そのように、あらゆることにおいて、間違いなく効果的な価値を発見して喜びを感じたとすれば、その人の信仰生活は、観念的な信仰ではなく、実質的な信仰生活であり、神様と共に生きる信仰生活です。

8

信仰生活は切実でなければなりません。おなかのすいた人が御飯を恋しく思うこと、母を失った子女が母を探すのと同様に、そのような切実な心が先に立たなければなりません。信仰の道や信仰の目的というのは、見えるものではないからです。神様のみ旨が見えますか。神様のみ旨は、人を通して成就されるまでは見えないのです。世の中では、すべて計画し、設計し、予算を編成して広げていきますが、神様のみ旨は、目で見ることもできず、触ることもできません。ですから、その見えない世界を追求し、それに対する目的を現実として成就していくことは、とても難しい課題です。皆さんの目は、見えないものを見るようになっているのではなく、見えるものを見るようになっています。また感じるのも、見えないものを見聞きして感じるようになっているのではなく、見えるものを見て感じるようになっています。必ず五官の作用は、見える世界を見て、聞いて、触って、感じるようになっているのです。

9

信仰の道とは何でしょうか。見える世界で感じる感覚よりも、見えない世界で一層強い感覚を感じるようになれば、その人は絶対に疲れることがないというのです。外的な世の中のことは、すべて見えるものによって動きますが、信仰の道は、見えないものを追求していくので、その目的が漠然とするときには力が出ないのです。

神様との父子関係回復

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統一教会の人たちは、何を信仰生活の目標にして生きなければならないのでしょうか。父母の心情をもち、僕の体をまとい、十字架の道を行くことを目標にして生きるべきでしょう。僕の体というのも、ふさわしくない言葉です。父の命を奪った殺人者の体です。ですから、これを蕩減するための道を行かなければなりません。イエス様は、罪がなくてもその道を行きましたが、父の命を奪った罪人である私たちは、百回、千回でもこの道を行かなければならないのです。

11

人間が神様に対して切ない心情で深刻に訴えても、神様を探し出すことができなかったのは、人間が堕落によって神様と父子関係が結ばれなかったからであり、天倫にかなう愛の関係が結ばれなかったからです。ですから、人間がこのような立場に落ちるようになった原因と内容を知らなければならず、サタンの真相をはっきりと明かして、本来の立場を回復しなければなりません。言葉によって結ばれる父子の関係、約束だけで結ばれる父子の関係は必要ありません。心を尽くし、力を尽くして父のみ旨のために生き、骨肉が溶け出す苦痛の中でも耐えて勝利するようになるとき、私たちは、神様と父子の関係を回復できるのです。

12

神様のみ手によって造られた万物、神様のみ言によって実現された万物、その栄光を想像してみてください。今日の天と地は、そのようにはなっていません。それは、恨めしく、悔しいことです。創造の動機と目的もこのようなものではありませんでしたが、思ってもいない人間の堕落によって、創造の動機と目的を蹂躙した結果になってしまいました。堕落は、苦痛と悲しみと不幸の源泉になり、人間が嫌うあらゆることの原因になりました。怨讐とは、刃物を持った人だけではありません。堕落、これこそが人類の怨讐であり、万物の怨讐であり、創造主の怨讐です。この怨讐は、どこから始まったのでしょうか。人間の先祖から始まりました。ですから、命懸けの闘争ももちろん必要ですが、この罪悪の根を抜いてしまうためには、堕落の本拠地を抜本的に取り除き、爆破して切ってしまわなければなりません。そうしてこそ、地上の人間と関係を結ぶことができなくなります。それがまだ残っているので、世の中に罪悪が蔓延するのです。信仰者は、結果的なものを中心として闘争するのではなく、堕落の本拠地を探すところに第一の目標を置かなければなりません。怨讐の根拠地、堕落の源泉を求めて、神様と人間とサタンの三者間で、その問題を解決しなければなりません。そうでなければ、不幸の端緒は解けないのです。

13

人間が真の息子、娘の立場で神様を「父」と呼ぶことが人類の希望であり、すべての万物の願いであり、神様の願いです。ですから、私たちは、この地上で神様の真の息子、娘として復帰の運命を打開していかなければなりませんが、ここで私たちがただ一つ望むものがあるとすれば、真の愛を中心として神様と父子の関係を回復することです。

14

喜びと悲しみは、天国と地獄という言葉で代わりに表されます。先生は、この道に初めて立ち上がった時、宇宙の根本とは何かを考え、掘り下げていきました。それは父と息子の関係です。したがって、復帰の根本内容は、父子の関係なのです。歴史は、この関係を復帰させておかなければなりません。ですから、復帰歴史は、本然の父と息子、娘の関係を回復するものです。

15

私たちは、絶対的な父の前に、真の息子、娘として立つために、新しい信仰によってあらゆる疑いの世界、死亡の世界、罪悪の世界、恐怖の世界を越えなければなりません。私たちは、天が求める信仰の内容が分かれば、それを立証させる基準を立て、天のみ前に出なければなりません。それができなければ、神様の真の息子、娘になることができません。このような信仰をもって立ち上がるとき、皆さんは神様と永遠の関係を結ぶことができ、永遠の善と永遠の生命を享受することができ、苦痛から永遠の解放を受けることができ、永遠の天国圏内で暮らしていけることを肝に銘じなければなりません。

16

人間は、父母がいなければ寂しく思い、夫婦がいなければ寂しく思い、自分と自分の家庭を保護してくれる国家がなければ寂しく思います。これが人間の相互の情として現れています。このように変わる関係でも寂しく思うのに、永遠の理念を中心とした関係を結べないことを寂しく思わないでしょうか。このように人間は、地上ですべての条件を備えても、そこに加えて天倫の永遠の関係を、また望むようになっているのです。

17

信仰者たちは、変わる理念的な条件をもって生きてはいけません。変わらない不変の関係を回復するのですが、その関係は別々に分かれたものではなく、自分が生きる生活圏内で全体が一つに連結されているという事実を知り、自ら神様と関係を結んで生きなければなりません。神様と関係を結ぶ、それが実証的な価値を回復し、神様を心に迎えて生きる、すなわち神様と一体の関係の中で暮らすことができるのです。そのような生活をするようにさせてくれる神様の実体を感じるとすれば、その価値は部分的な価値ではありません。そのように全体的な価値が実現される環境を回復するようになる時、個体と全体の価値は自分を中心として動き始めるというのです。

18

統一教会の信仰観は、今までの信仰観とは異なります。今までは、イエス様と聖書を中心として、すなわち救世主という言葉を中心として漠然と信じてきました。しかし、私たちは、父母という言葉を中心として神様と父子の関係を備え、子女の立場で信じています。父母と子女は、離そうとしても離すことのできない関係をもっています。生まれる時もそうであり、生きていてもそうであり、死ぬ時もそうなのです。ですから、皆さんは、父母を離れては生活することもできず、活動することもできません。宇宙史的な中心であるその父母は、父母自身だけの関係をもってきたのではなく、神様を中心とした絶対的な関係をもってきました。したがって、皆さんは、神様とその父母が一致したところに連結されなければ、責任を完遂することができず、目的を達成することができません。最も重要なのは、神様と父母と「私」がいつも一致しなければならないということです。

19

人間の嘆きは何であり、全被造万物の嘆きは何でしょうか。人間が天の家庭の家族として参与できないことです。これが天宙の嘆きです。今日、私たちが信仰生活をする目標は、ほかのことではありません。神様に対して「お父様!」と呼ぶことです。父の真の子女として、人類全体が兄弟となって喜び、神様を「父」と呼ぶことのできるそのひと日を迎えるために、神様が六千年間、復帰摂理をしてこられたというのです。

霊的成熟のために

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イエス様は、どうして自らを「神のひとり子」とおっしゃったのでしょうか。イエス様が、このように人間が到底信じられない条件を提示されたのは、彼らにこれを信じれば瞬間的に飛躍できる恩恵を与えるためでした。人間が無限の信仰でイエス様を信じ、心から天に向かって叫ぶようになれば、飛躍的に信仰が成長するようになります。天国の中心に向かう皆さんの信仰の程度が高ければ高いほど、それだけ霊界も皆さんを通してより大きく役事(働き)することができ、皆さんが無限の信仰心を所有するならば、皆さんのその人格を通して、皆さんが想像できないほどの超感覚的な世界の事実と、宇宙の事実を、一時に感じることができます。ところが、人間はこのような驚くべきものを失ってしまいました。行って行って、また行かなければならないのが無限の世界を指向している信仰者の姿勢だとすれば、ある限界圏内にとどまらせる信仰を主張する群れをはねのけるために、終わりの日には、宇宙的な大きな闘いをしなければならないのです。

21

本来、人間は、霊肉を通してこそ完全な人間になります。しかし、イエス様が霊的父母の立場にのみいらっしゃれば、霊的救援、つまり半分の救援しかできない立場になります。ですから、残りの半分の救援、すなわち肉的救援をするために再臨主がこの地にいらっしゃらなければなりません。そうして、その再臨主が、イエス様を信じて逝った霊人たちと全世界に散らばっているキリスト教徒を一つに統一して神様のみ前に捧げることによって、第三イスラエルの出発をすることができます。霊的な第二イスラエル民族になるためには、洗礼を通さなければなりませんでしたが、今後、来られる主を中心として第三イスラエルになるためには、祝福の門を通らなければならないのです。

22

アダムとエバの誤った愛によって堕落したので、これを蕩減復帰するためには、神様の愛を中心として祝福の関門を通して、新郎と新婦の関係を結ばなければなりません。そのようにしなければ、天国に行くことはできません。イエス様もこのような責任を全うすることができませんでした。このことを救世主が再び現れて行わなければ、地上のすべてのものの根を通さなければ、この地上の絡み合ったものを収拾する方法がありません。ですから、けそれに対する責任を全うしなればならないのです。

23

イエス様が十字架にかけられたために、肉身をもった真の父母は実現されませんでした。すなわち神様の血統である息子は立てられましたが、霊肉ともの真の父母の顕現は実現されなかったのです。霊界にだけ限定され、霊的救援のみ行ってきたのであり、肉的救援、すなわち体の贖罪は実現されなかったのです。結局、今日までキリスト教には、霊的な父と霊的な母しかいませんでした。ですから、真の父母がいらっしゃれば、私たちは、その父母によって霊肉が共に生まれ変わるために条件的、あるいは象徴的に母の胎内に入り、新しい生命として再びよみがえらなければなりません。私たちは、そのための路程を求めながら歩んでいるのです。

24

肉身と霊人体を中心として見るとき、より重要なものは肉ではなく霊だというのです。肉は七十、八十年の時間圏、限界圏内で生きては消えてしまいますが、霊は時間圏を超越し、空間圏まで超越できる権限をもっています。したがって、歴史的な責任を悟り、その責任を果たすことが人間の本義です。皆さんがいくら肉身を中心として裕福に暮らしても、結局は死ぬようになります。いずれにせよ肉身は死ぬようになっているのです。

25

イエス様の当時、洗礼ヨハネが家庭的にイエス様を迎えることができなかったために、イエス様が代わりに蕩減を受けたのと同様に、キリスト教文化圏が再臨主を迎えられないことによって、洗礼ヨハネ的なキリスト教の代わりに統一教会をつくってきたのです。ですから、統一教会は再臨時代において、世界的な版図のユダヤ教と同じです。イスラエルの国と同じ立場にいるアメリカや自由世界が一つにならなければならないのですが、彼らがみな反対したのです。韓国もそうです。神様が新約時代にイエス様を通して霊的救援摂理をしてきたのですが、統一教会は、実体の国を求めて霊肉ともの救援摂理をしてきたのです。終わりの日を迎えて、世界的版図の霊的基盤をもったキリスト教が先生と完全に一つになれば、肉的基盤が連結されるのは問題ないのです。

26

私たちは、先にサタン世界から抜け出さなければなりません。そして、外界の人たちとは違う感情をもたなければなりません。神様の愛を体恤できなければならないのです。サタンが愛するものを憎悪しなければなりません。そして、全世界のために私たち自身を犠牲にしなければなりません。先生を中心として、皆さんが個人、家庭、氏族、民族、国家、そして世界的に勝利すれば、私たちは、第三イスラエルとして、イスラエル選民、または霊的なイスラエルを再建することができます。そのようになれば、神様は、私たちを通して全人類を霊肉両面で救援なさることができるのです。

27

霊的な基準と肉的な基準のうち、どちらがより重要でしょうか。私たちは、肉的な基準だけを中心として生きていくのではありません。肉は霊のために、霊は肉のために存在するのです。皆さんは、世の中の人たちが生きていくような立場にしがみついてはいけません。皆さんは、霊肉が一つになった実体を備えて、よりやり甲斐のある立場で出発しなければなりません。これが統一理念をもった皆さんが行くべき道にもかかわらず、肉身を中心として食べて暮らすことが重要だと考える人がかなりいます。しかし、それはすべて条件に引っ掛かるようになっているのです。

真の父母様の命の中で成長

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神様の願いと人類の希望の帰着点となり、信仰者が勝利できる起点となる一つの基盤とは何でしょうか。神様の恨の起源は、人類が偽りの父母から出発したことなので、真の父母の神聖な関係を中心として、その前に順応する群れになることです。そのようにすることによって、初めて天地が解放され、天国の門が開くというのです。

29

真の家庭には、真の父母がいなければならず、真の男性と真の女性、真の夫婦、真の子女がいなければなりません。一番の中心は何でしょうか。個人の目的も真の父母であり、男性と女性の目的も真の父母だということです。真の父母になって、息子、娘をもち、家庭をもつのです。それで統一教会は、「真の父母様を信仰しよう」、「真の父母を信じよう」というのです。信じるというのは、明確ではないからです。明確ではないので、信じるのです。明確であれば、信じる立場を越えられるのです。今まで明確に知らなかったので信じましたが、明確に知ってしまえば、信じるのではありません。今までは自分がなぜ生まれたのか、私たち夫婦とは何か、子女とは何か、家庭とは何かを知りませんでした。しかし、私たちは、真の父母の家庭を信じるのではなく、真の父母様の家庭を知っているのです。皆さんは、真の父母を知っているというのです。信じるのではありません。真の父母を信じていると考えずに、知っていると考えなければなりません。その次には、真の父母と生活をしなければなりません。真の父母と共に生きなければならないのです。

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メシヤは、堕落していない完成した真の父母です。真の父母が現れてこそ、一つの軸となって、神様と人間が連結されるのです。神様は、霊的な真の父母であり、アダムとエバが完成すれば、実体的な地の真の父母になります。この軸ができているので一つになるのです。今までの宗教は、真の父母の基準がなかったので、地上で連結できる道がありませんでした。いつも精誠を捧げ続け、天と相対的基準を合わせて霊的に出会うのです。ですから、たくさんの信仰者が精誠を捧げて、捧げて、捧げる継続的な修道の生活を通して、だんだんと霊的に橋を架けて、天と出会う生活をしてきたのです。

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偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統によって生まれたものを切ってしまい、真の愛、真の生命、真の血統に接ぎ木して生き返ることが、人類が行くべき道であり、個人全体が行くべき道なのです。宗教が出てきたのは、体を征服して一つにするためです。このような立場で真の愛と一つになり、この地上で暮らして天国に行くことができる息子、娘たちを、皆さんが生まなければなりません。宗教を信じなくても天の国に行ける真の息子、娘を生むことができる人にはなっていません。ですから、宗教が出てきて体を征服して一つにし、真の父母と一つになって接ぎ木しなければなりません。偽りのオリーブの木が真のオリーブの木になるのです。真の息子、娘を生み、この地上で暮らしてから永遠のあの世に、天国に入っていくのが創造理想です。

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真の父母は、地獄の底から天上の位置にまで行くのです。その真の父母のみ旨に従って真の父母と心情一体となり、生活理想一体となれば、真の愛を中心として行く真の父母とその人は隔たりがありません。縦的に立てて蕩減したものが、横的に入ってくるのです。個人復帰、家庭復帰、氏族、民族、国家、世界、天宙復帰と神様解放圏まで行ってこそ、八段階の基準がすべてなくなるのです。そのように横的になされることによって、個人が家庭、氏族、民族に行けます。個人は思いどおりに家庭に行き、家庭は氏族に、氏族は思いどおりに民族に行けるので、個人から出発して世の中の果てまで行って、帰ってこれるのです。