天聖経訓読室

第1節 永生とは

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人は誰でも、自分なりの生の道を願って生活しています。「生活」といえば一日一日の暮らしを意味し、「生涯」といえば一生の生、一生を通して生きることを意味します。さらに宗教をもった人々は、「永生」という言葉を使っています。永生とは一生ではなく、永遠の生活を送ることです。生涯路程を永生にどう連結させるかということが重要ですが、それをしなければならないのが生涯の責任です。また、一生は一日一日の生活を連結させて決まるのです。

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皆さんの一生は、毎日が連結されたものです。生涯の価値の内容が、どこで決まるのでしょうか。生涯をすべて生きて決まるのではありません。一日一日の暮らしが決めるようになっています。ですから、正しく生きなければなりません。正しく生きることは、生涯のすべての路程を代表する毎日を大切に送る生活です。きょう正しく生きたということは、自分の一生で誇りとして記憶される日です。「正しく生きる」ということは、生涯路程で間違いなく最も価値をもって生きる日のことです。価値をもって生きた日があるとすれば、生涯でその日は忘れられない日になるでしょう。

永生の概念はどこから生まれるのか

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神様は、永遠の愛の主体であり、永遠の根です。ですから、そのような主体の対象の立場にいる人も、永遠とならざるを得ません。その愛は、自分の生命を投入しても忘れてしまう愛です。真の愛は、生命を投入しながらも、自分が死んでいくのを知りながらも、喜びながらまた投入しようとする道です。それでは、真の主人、真の夫、真の師、真の父母とは何でしょうか。自分の生命を投入しながら忘れてしまい、ために生き、またために生きようとする存在を、真の父母と言い、真の師と言い、真の主人と言います。この境地に入っていくようになれば、天地が共鳴圏に入ってきます。釈迦が「天上天下唯我独尊」と言ったのは、その境地に入っていったことを意味するのです。心と体が一つになって、天の膨大で無限の愛の圏内に入っていってみると、全宇宙がすべて明るくなるのです。共鳴圏が起きます。ところが、人間は堕落したというのです。永生すべき人間が堕落することによって、永生を失ってしまいました。もし真の愛と結束し、神様を中心として生命と血統が連結されていれば、自動的に永生するのです。救世主が必要ありません。メシヤが必要ありません。宗教が必要ありません。皆さんの心と体は、既に統一されていなければならないのです。

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「私」という存在は、神様の愛の対象として造られました。絶対的で主体的な神様の対象が、正に「私」です。神様の愛の相対です。神様が御自身よりもっと貴く思うのは、真の愛の概念です。神様は絶対的であり、永遠の生命の中心です。神様の理想はより永遠なものであり、その理想の中心が正しく真の愛です。その愛の相対が「私」です。愛の属性はどのようなものでしょうか。それは、主体と対象が一つになることです。それは国家を一つにします。ですから、どの位置にも同参することができ、どこに行こうと従っていくことができます。全財産を相続できます。神様の永生の位置、心情までもすべて相続するのです。神様の愛の心、神様の被造万物と共にあるその心、神様がすべてのものの心にとどまりたいと思う心まで、すべて相続するのです。ですから、どれほど貴いでしょうか。先生がその悲惨な過程を経て発見することにより、その基盤の上に立つようになったのです。どれほど喜ばしいことですか。他の何ものにも代えられない、崇高で、尊厳のある貴い位置です。驚くべき恩賜です。神様と同じ位置に立つのです。永遠の真の愛の位置に同参したのです。外の世界のどこに行っても、韓国のどこに行っても、この永生の概念はありません。「私」は永遠の生命として生まれたので、死んで霊界に行ってみなさいというのです。一瞬で飛躍するのです。

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永遠の生命をもって生まれた「私」が霊界に行けば、飛躍するのです。時空に制限された地球上とは次元が違います。制限されたところでは自由に動くことができませんが、あの世界は次元の高い世界なので、何でもできるところです。時間を飛び越えるのです。愛を中心として、何であろうと願いさえすれば、いつ、どこでもすべて得ることができるのです。無尽蔵です。神様がいらっしゃる場所は本然の故郷です。本然の父母様の故郷です。何であろうとすべてできるところです。今、霊界に行きさえすれば、私たちは自由です。また他の世界と完全に一つになるので、簡単に通過できます。

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人間も、自分が精誠を込めて完成した作品を自分の子孫万代に残したいと思い、自分の近くに置いておきたいと切実に思うのですが、神様はどうでしょうか。愛らしい息子、娘として生まれた人間を、しばらくの問だけ愛して、それで終えるのでしょうか。永遠に愛したいと思われるのかというのです。ですから、人間が完成して神様の愛を永遠に受けるζとができるならば、神様は人間を永遠に近くに置いておきたいと思われるはずです。絶対者がそのように喜ぶ立場に立たなければならないので、人間も永生しなければならないのです。永遠に残らなければなりません。人類の先祖であるアダムとエバがそのようになっていれば、アダムとエバの完成はもちろん、神様のすべての願いが成し遂げられるのです。アダムとエバが完成するということは、神様が創造された万物の中心となる人間に対して望んだ願いがすべて完結したことを意味します。

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永生の概念を入れることができるものとは何でしょうか。愛です。信仰の道は肉身生活の準備ではなく、永遠の世界の生活のための準備です。人は、四十歳を過ぎ、五十歳を過ぎて死ぬ日が近づいてくると、永生問題に対して深刻になります。年を取れば取るほど、ますます深刻になります。思考は年を取るほど希薄になりますが、永生の概念を入れると、年を取るほどますます深刻になるのです。ですから、宗教の理念だけが今後、世界を料理することができます。環境が頻繁に変わり、悲喜劇にぶつかっても、永生の概念さえ徹底していれば問題になりません。問題は、永生という概念をどのように認識するかということです。神様は、アダムとエバを愛の対象として造られました。ですから、愛の対象となって生きなければなりません。それを言葉だけでなく、実感しなければなりません。また体恤しなければなりません。

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何よりもまず神様を知らなければなりません。間違いなく神様がいらっしゃることを知らなければなりません。その次には、霊界がどのようなところなのかをはっきりと知らなければなりません。霊界を知らなければ、神様も分かりません。アダムとエバが堕落する時に真の愛を失ってしまったので、永生がなくなったのです。ですから、神様、霊界、そして永生が問題です。人間は永遠に生きられるのです。神様が永遠に生きていらっしゃるので、その息子、娘も、当然そのように生きなければなりません。

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一番重要なものは永生です。しかし、霊界があるか、ないかということを知らずにいます。間違いなく永生することを知るようになれば、他の人が「罪を犯しなさい」と言っても犯しません。「自分のために生きなさい」と言っても生きないのです。これを知らなければ、何の宗教を信じても、絶対に天国に行けません。神様の理想世界に行けないのです。真の愛と生命を投入しなければ、行くことができないのです。

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永遠の世界で、永遠にために生きる主人がいるとすれば、永遠の主人になります。そのような方が誰でしょうか。神様です。その方は私たちの父であられるので、すべての宇宙が「私」と共にあるというのです。そこに永生があります。そうでないところには、永生がありません。それで、聖書には「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである」(ルカ一七・三三)と言いました。それは、死を超えなければならず、超えなければ生きることができないということです。

真の愛で永遠の生を決定

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神様が絶対的な愛のパートナーを求めるとすれば、それは閥違いなく人間です。ですから、「万物之衆唯人最貴(マンムルチチュンユインチェキ)」という言葉が出てきました。創造主の永遠の愛の対象になれるという論理的結論が出てくるようになるとき、その愛と一つになった愛の対象も永生するという論理が生じるようになります。永生は、自動的な産物です。永生は、ここから展開します。愛の関係を中心として、永生論理をどのように立てるかという問題は、宗教において極めて貴重です。男性に永生があり、女性に永生があるのではありません。神様に永生があるのではありません。神様の愛に永生があるのです。

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人は、誰彼を問わず最高を願っています。人間が最高の立場に行くようになれば、神様は自分のものです。また、自分は神様のものです。そのようになれば、自分は神様の息子になり、神様自身にもなるので、宇宙も「私」のものになります。神様が一番愛して、貴く考えるものがあるとすれば、それを一目、あるいは十年や百年ぐらい共に過ごしたのちに、放り投げるように造るでしょうか、永遠に共にいるように造るでしょうか。永遠に共にいるように造るのです。人も同じです。人が生まれて、死んで終わりでよいでしょうか、永生しなければならないでしょうか。永生しなければなりません。それは、人間が、絶対者の神様が絶対的な愛を中心として喜ぶことができる対象だからです。一日や二日、あるいは十年、百年喜んで投げ出してしまうのなら、それは愛ではありません。愛すれば愛するほど、共にいたいと思うのです。

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人は永生しなければなりません。良い知らせでしょう?悪の世の中で八十年ぐらい生きるのですが、ありが死ぬのも人が死ぬのも違いはないと思うかもしれません。しかし、違います。人は霊物なので違うのです。なぜ万物の霊長になるのでしょうか。老いない心のためです。万物はすべて変わります。色あせてしまいます。風化作用によって減退します。ところが、心だけは違います。変わらないことにおいて最高の権威をもっています。

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真の愛によって永生が可能です。創造の出発の動機と過程、目的が、愛を中心として完成するからです。過程を通じて結果が出てくるのです。自分の心と体の完成は、真の愛によって根本的に可能になっています。無限の根本、原因、過程から理想の結実に至らせるものは、真の愛しかありません。神様が永存するのは、お金によってでもなく、権力によってでもなく、知識によってでもありません。本来もっている真の愛によって永存します。神様の喜びは、独自的に生ずるのではありません。相対基盤が必要です。いくら偉大な神様であっても、一人では寂しいのです。縦的相対、横的相対、前後の相対が欲しいのです。ですから、神様に通じる愛がなければ、永生の道は連結されません。

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永生できる本質に、最も近い位置とはどこでしょうか。愛です!自分一人では永生することはできません。愛だけが永生の本拠地になります。同時に、目的成就の本拠地になります。愛で天地創造が成し遂げられたので、愛で始まり、愛で生き、愛で終わり、愛による栄光が広がらなければなりません。愛による栄光というものは不思議なものではありません。

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真の愛の位置にいれば、神様の位置、天国のみ座に自由に行くことができます。神様の友達になることができます。神様は、愛のために人間を造りました。永遠であられる神様、絶対的である神様、永生する神様なので、愛に一致した人間自体も永生します。これは、自然な論理です。ですから、真の愛は永遠です。永生するには、その真の愛の圏内で生きなければなりません。

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どのように永生するのでしょうか。イエス様をただ信じれば永生する、救われると言いますが、とんでもないことです。愛によってのみ救いを受けるのです。神様の創造原則の本質的原則から見るときに、真の人だけが神様の愛の同伴者なので、真の愛をもてば永遠に生きるようになっています。その愛の圏内に入っていれば、霊界や地上で生きるときに、自分がどこに行って生きるべきかを、すべて見ながら生きるのです。

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「私」は永生する人です。それから、真の愛を実践する人です。真の愛を地上で実践する人だというのです。「私」がここでしているすべてのこと、工場で仕事をしたりすることすべてが、永生と連結される材料です。「永生を訓練し、永生を育てる訓練の材料を生産するのが、私のしていることだ」と考えなさいというのです。皆さんに永生と真の愛は、いつも必要なのです。永遠に必要なのです。

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生命をもつすべての存在は、ペアで存在します。それは愛を立てるためです。愛の調和を形成するためです。神様に必要なものが永遠の生命です。その次に神様に必要なものが永遠の愛です。この永遠の愛を中心として見るとき、神様が永遠であれば、永遠の相対が必要です。この宇宙の中で、永遠の相対がどこにいるでしょうか。このように考えるとき、人はペア・システムの観念を中心として永生するというのが自動的な結論です。永生が必要だというのです。皆さんは永生しなければなりません。なぜ永生しなければならないのでしょうか。ペア・システムの理想である愛を完成しなければならず、神様の愛を必要とし、神様のみ前に愛を完成する相対的関係にあるので、不可避的に永生しなければならないというのです。

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太陽が昇れば、万物の芽は、すべてそこについていきます。草やすべての木、大きな木も、芽は、すべて太陽の光についていくのです。人は愛で生まれ、愛で成長し、愛で生きたのち、愛で死にます。そのままなくなるのではありません。主体である神様が永遠、不変、唯一なので、その対象の愛の位置に立つようになるときは永生するのです。永生という理論がここから発生するのです。生命から始まるのではありません。

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息子、娘は、自分自身を身代わりする実りです。ですから、愛さなければなりません。自分自身を愛するので、神様の息子、娘である人間も、神様を身代わりするのです。永生は愛によって連結されます。それで、永生の環境を形成するには、愛の環境を中心として生活しなければなりません。愛の実体圏をもつには、愛を中心として実体的な体恤をしなければなりません。