天国は、膨大なところです。この宇宙よりもっと大きく、もっと広いい世界です。それは、形容できないほど膨大な世界です。そして、その世界では、愛する人がその世界のどこにいたとしても、「私」が「会いたい」と思えば、直ちに現れます。どのような心をもって会いたいと思うのか、あちら側ではすぐに分かるのです。来るやいなや、挨拶します。「このように思ってくれてありがとう」と相手が思ったことを言ってくれるのです。ですから、心の世界を説明する必要がありません。説明する必要がなく、すべて感じるのです。そこに行って会えば、どのようなことを話すのか分かります。分かってから聞くのです。どれほど素晴らしい世界ですか。真の愛は直短距離を通じます。真の愛は直短距離を通じ、真の愛の速度は最高の速度です。愛する子女が外国に出ていたとしても、父母がその子女を思えば、すぐに子女のところに行くのです。距離を超越します。真の愛の速度は最高の速度なので、この膨大な大宇宙を自分の生活の活動舞台と定めるのです。時間と空間を超越するので、距離感がありません。すべて目の前にあるのと同じです。
第4節 天国とは
天国は神様の愛に満ちあふれた世界
天国は、神様の愛の世界です。愛の空気を吸う世界です。そこには生命がぎっしり詰まっています。どこに行っても生命が躍動しないところがありません。そして、すべて血縁的な関係によって結ばれています。神様の一つの血統なので、神様が悲しむものがあれば、全霊界が一つの細胞のように、一つの体のように悲しみを感じます。また、神様が喜べば、すべてが喜びます。そのような神様の愛が膨大な大天国を動かしています。生命圏がそこに呼応し、すべての万物の主体と対象を中心として、芸術的な美化の対象になっているのです。血統のように連結していて、神様が喜べば「私」もうれしく、神様が悲しめば「私」も悲しくなります。
「神の国は、実にあなたがたのただ中にある」(ルカ一七・二一)とあるのですが、その天国とは、神様の愛が中心になっているところです。神様の愛が中心となって関係を結び、普遍的で妥当な環境圏を設定したところが天国です。それでは、その圏に行ってとどまる人は、どのような人でなければならないのでしょうか。神様の愛の本質と和合できる人でなければなりません。そのような人以外には行くことができません。神様の愛の本質と和合できる本質とは何でしょうか。自分を中心にしていく人は価値がありません。相手のために自分の生命を投入し、自分のすべての精誠を投入し、自分のすべてのものを与えようとした人だけが、神様の愛の圏内で存続することができます。
天国とは、準備したことをもって誇るところであり、侍る生活をしたことを誇るところです。それでは、その天国とは、どのような人が行くところですか。主を信じて恵みを受けようという人、恵みを前面に立てていく人が行くところではありません。天国は、侍るために心情的に準備する生活をした人が行くところです。準備する期間に死んだとしても、侍る生活を残して喜んで逝くことのできる人が行くところです。そこに復活があります。侍るための準備をしたあとには、侍る生活をしなければなりません。準備する目的は、侍るためなのです。侍る生活をするためです。侍る生活はどのようにするのでしょうか。皆さんの環境をよく見てください。生活の内幕は現れません。どのように侍る生活をするのかということが、私たちが生きる生活の中で考えるべき重大な問題です。
天国は、心情を通じなければ行くことができません。天国は、全体を主管できる本然の国であり、本性の国です。その国は、何かの事情をもって所有することはできません。深くしみ込む心情関係をもってこそ、所有できる国です。ですから、事情が通じるより、究極的に心情が通じなければなりません。事情を越えて心情を謳歌できる基盤を築くところに、地に対して摂理する天の目的があります。
イエス様も本郷を創建するために来られましたが、その本郷を創建できずに亡くなりました。「神の国は、実にあなたがたのただ中にある」(ルカ一七・二一)と言われましたが、イエス様も天国を直接見ることができなかったのです。歴史過程に生まれては死んでいった立派な預言者や烈士、聖賢、君子であっても、その一つの場所を見ることができず、その一日を迎えることができず、堕落した先祖から悪の血統を受け継いだすべての人々も、本郷とはいまだに関係をもつことができていないのです。ですから、すべての人は理想を探し求めていくのです。本郷を探すために行くのです。それでは、その世界はどのような世界ですか。お互いに反目し、人が成功すれば嫉妬し、人が喜べば耐えられないと思う世界ではありません。一人が成功するのは、全体を代表して成功することであり、一人が喜ぶことは全体に代わって喜ぶことなので、一人がうれしく思えば全体がうれしく思い、一人が喜べば全体がそれにつれて喜ぶところが本郷です。
神様を中心として喜びの生活にしなければなりません。天国化させなければなりません。天国は与えながら生きるところです。神様も与えなければなりません。父母は子女に与えなければなりません。良いものを与えたあとも、もっと良いものがあれば、それをまた与えたいと思うのが父母の心です。赤ん坊にどんなに晴れ着を着せ、どんなに良いものを食べさせたとしても、それで満足するのではなく、「もっと良いことをしてあげられないか」と思うのです。与えてからもっと良いものを与えたいと思うのが、父母の心であると同時に、神様の心です。
天国は、夫婦を中心として、その夫婦が生んだ息子、娘と一緒に行くところです。息子、娘、孫たちと共に、その一族を率いていくところです。さらには、国全体が行くところです。天国はこのようにして成し遂げられるところです。今日、宗教を信じる人々が「天国に行く」と言いますが、天国は一人で入っていくところではありません。絶対に一人では行けません。
天国は、本来の善の父母から生まれ、神様が喜び、宇宙のすべての被造物が彼と共に和動できる位置で夫婦になり、息子、娘を生んで愛し、その息子、娘たちにすべてのものを相続してあげてから行くところです。天国は、父は行き、母は行けないところではありません。父母、息子、娘、全員が行くところが天国です。
欲望の終着点はどこでしょうか。神様の愛を所有するところです。神様を所有したといっても、その中にもっと貴い愛を所有できなければ、神様は自分の神様ではありません。ですから、神様の愛を所有しなければなりません。その方のものが「私」のものであり、「私」のものがその方のものになるとき、初めて内外が一つになります。そのような国が、上下の等級のない理想の本国になるのです。そのような場に横たわるようになれば、天下にある存在の中で、良く見えないものがなく、天下にある存在の中で、自分のために存在しないものはないと感じるのです。そのようなものが神様の愛なので、今日人間が行くべき天上世界、すなわち天国は、愛で満ちあふれたところです。
地上・天上天国の媒介体は人間
神様の創造過程を見れば、神様は万物を造って、人間を造りました。神様を中心としてすべてが始まりました。人を造ったことによって、神様と人間と万物が並び立つ立場で統一するのを願われたのです。これが神様の創造のみ旨です。神様がいて、この被造世界には地があり、その中に人がいます。このような中間的立場に立ったのが人間なので、人間は霊界と肉界を和動させることができる媒介体なのです。
神様が天地万物を創造したのは、神様が栄光を享受するためだったことは間違いありません。ですから、先に無形実体世界を創造し、次に無形実体世界の表象として有形実体世界を創造しました。そして、霊界と実体世界の中心であると同時に代表として、アダムとエバを創造しました。アダムとエバは、天地が変わらない以上、天地と運命を共にしなければなりませんでした。すなわち、天地が動くとおりに共に動くべき運命に置かれたアダムとエバでした。それで、アダムとエバが変われば天地も変わるのであり、アダムとエバの中心が乱れれば全天地の中心も乱れるのです。そして、全天宙の中心が乱れれば、創造主の中心も乱れるという必然的な条件をもって造られたのがアダムとエバでした。
神様が人間を一男一女に分立して創造されたことには目的があります。第一に、二性性相の中和的主体として自存されながら無形でいらっしゃる神様が、実体世界に相対するのに必要な体をもつためでした。無形世界と実体世界ですが、神様も体がなければならないというのです。男性の体だけでもなく、女性の体だけでもない、アダムとエバ、二人の体をもって実体世界と自由自在に往来し、作用するためだったのです。体をもたない無形の神様だけでは、有形実体世界に相対するのに限界があるためです。したがって、アダムとエバが神様をお迎えして一体となり、完成した基台の上で結婚して子女を生んだならば、アダムとエバは外的で横的な実体の真の父母になり、神様は内的で縦的な実体の真の父母になっていたはずです。このようになっていれば、アダムとエバは、内外両面で一〇〇パーセント神様に似た立場に立つようになっていたでしょう。神様に完全に似たアダムとエバが人類の真の父母になったならば、彼らの姿を通して、人類は神様の実体を認知しながら生きるようになっていたでしょう。第二には、愛の完成のためです。アダムとエバが完成して完全一体となった愛の実体になれば、その上に神様が臨在して人類の真の愛の父母になろうとされたのです。神様の形状である実体父母の立場に立つようになるアダムとエバが、実体の子女を繁殖することによって、理想家庭と理想世界が成し遂げられていたのです。そのようになれば、人間を通して霊界と地上界が連結していたはずです。
本来、霊界に行けば、アダムとエバが家庭の王であり、氏族の王であり、民族の王であり、国家の王であり、世界の王であり、天宙の王なのです。ですから、霊界に行けば神様の代身者になります。神様は無形の神様なので見えません。あの世に行っても神様は見えません。しかし、神様も体が必要です。それで、神様が造った万物世界は体をもっています。無形の神様が体をもつことのできる相対的な存在を必要として万物を創造したので、完成したアダムとエバは神様の体になるのです。
神様の創造理想を見るとき、神様は無形世界の天国も願われましたが、御自身が自ら臨在できる実体世界での具体的な天国を願って万物を創造されました。言い換えれば、神様は、天上天国と地上天国が神様とアダムとエバを中心として成し遂げられることによって、霊的な天国と実体的な天国の栄光を御覧になるために被造世界を創造されたというのです。天上の天国や地上の天国も、神様のために造ったのではなく、人間のために造られたのです。アダムとエバを中心として地上で天国を成し遂げることによって、地上で天国生活をした人間が永遠の天国世界に入って生きることができるように地上天国と天上天国を立てることが、神様の天地創造の目的でした。
地上で天国生活をしながら暮らせる人々とは、どのような人々でしょうか。無限の霊界、天上天国で暮らせる霊人体はどのような霊人体でしょうか。地上でイエス様と聖霊の愛を受け、それを越えて直接父の愛を受け、父と共に生きながら愛の理想を中心として和動の勝利者となった人だけが暮らせるところが地上天国であり、永遠の天上天国です。
天国はまず地上で成し遂げられなければならない
神様の創造原理によれば、天国は、まずこの地上世界で完成されなければなりません。本来人間は、肉身をもって地上で天国生活をしたのちに、自然に肉身を脱げば霊界の天国に場所を移して永生するように創造されました。そうだとすれば、私たちが創建すべき地上天国とは、どのような姿でなければなりませんか。本然の家庭と天国とは、その類型が同じです。基本的に家庭には、本然の父母がいて、本然の夫婦がいて、本然の子女がいて、本然の兄弟姉妹がいます。その家庭が真の愛を中心として一つになれば、和合と統一は自動的にやって来ます。その基盤の上に、真の愛と真の生命と真の血統が連結され、理想の目的も可能になるのです。
本来、人間の堕落がなければ、人間は、神様の真の愛の中で完成し、神様を父母として侍る真の子女になっていたのです。完成した人間は、神様の愛の中で真の夫婦の関係を結び、真の子女を生んで養育し、共に天国を形成して暮らしたあとに、家族全員が自動的に天上の天国に入っていって暮らすようになっていたのです。もし皆さんの家族の中で、父親は地獄に行って母親だけが天国に行くとすれば、それがどうして天国でしょうか。父母は地獄に行って子女たちだけが天国に入っていくとすれば、それをどうして天国と呼ぶことができるでしょうか。天国は、すべての家族が一緒に入っていき、永遠の平和王国を実現して暮らすところです。したがって、地上においても、家庭天国を実現して暮らすところに神様が臨在されるのであり、神様が理想とされた創造理想の世界、すなわち地上天国が定着するようになるのです。
祖父、祖母が絶対に必要であり、父母が絶対に必要であり、夫婦が絶対に必要であり、子女が絶対に必要だという心をもって、自分の家庭よりもっと国を愛し、世界にはその四段階の人類が分布していることを知って、自分の国よりもっと世界を愛さなければなりません。過去、現在、未来が一つになった霊界に行って暮らそうとすれば、その四段階の愛を実現した人々が行くところなので、その愛を実行しなければなりません。そのような世の中を地上に成し遂げたものが地上天国であり、天上天国は地上天国によって自動的に形成されるのです。
人類の先祖が堕落せず、罪を犯さず、神様のみ旨と一致して神様が喜ぶ位置で生きたのちに死んでいれば、彼らに恨みがあるでしょうか。恨みを抱かず、喜んで神様のみ前に賛美を捧げ、神様も喜ぶことができる位置で生き、そして死んでから行くところが、神様が立てられた天国です。それが本来の天国です。恨みをもった人がその天国に入るようにはなっていません。恨みを抱いては天国に入ることができません。
神様が願われる天国は、霊界だけで形成される天国ではありません。神様が願われる天国は、まず地上で成し遂げられたのちに霊界でも成し遂げられる天国です。人間が死んだあとに、その霊人体たちによって構成される霊界とこの地上世界は互いに分離できないので、皆さんが勝利的実体を備え、天国の理念を具現させるためには、天倫の前に立つと同時に、人倫の前にも立つことができなければならず、天倫と人倫に通じるよう、天国の理念を皆さんの生活圏を通して見せてあげなければなりません。そして、その天国の理念が、個人的な天国理念になると同時に、家庭的な天国理念、社会、国家、世界、天宙的な天国理念にならなければなりません。このような天国理念が、皆さん自体を通して現れてこなければなりません。
無形の主体であられる神様が、はるか遠い始原から愛の宇宙史的刺激を充足させる対象を慕われ、有形無形の完全な対象として人間と相まみえる時の、その愛の刺激はどれほど大きかったことでしょうか。神様がアダムとエバを地上に造られたので、天国を地上で先に形成し、地上で理想的な生活をしたのちに、霊人体が天上の永遠の天国に行くようになっています。
自分の家を中心として環境が良くなるように、緑地帯をつくらなければなりません。それを多くした人は、あの国で、何百倍も大きな天国で、それに比例した所有権をもつことができます。そのような位置が地上で決まるのです。良い暮らしをしたいですか。霊界に行って、小さな部屋に入って座り、額を突き合わせて顔だけ見て暮らしますか。飛び回って踊って歌い、どこでも思いどおりに、百の場所、千の場所を訪ね回ることができる生活をしなければなりません。世界で最も荒廃した所とはどこですか。そのような所に行って、土地が痩せこけていれば、自分の国の宝石で人工的な自然だけでもつくらなければなりません。模型のようなものであっても、金剛山のような姿の万物をつくらなければなりません。今、何でもつくる時が来ました。石もつくることができ、すべてつくることができます。そのようにしてでも美化した天国をつくらなければならないのが、私たちの生涯に残されたことです。私たちが喜んで生きる環境をつくる主人にならなければなりません。