天聖経訓読室

第3節 死とは

この節の音声は準備中です。
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私たちが神様に似たいと思い、神様も私たちを神様の息子、娘として御自身に似るようにさせたいという願いをもつのは当然のことです。ですから、人は再び神様に似ることのできる体をもって生まれなければなりません。神様と人間は共に、永生する日を待ち望みます。そのように生まれる日、そのような体に生まれる日、その日が正に、肉身を脱ぐ死の日です。そうだとすれば、人間は死を歓迎しなければならないでしょうか、それとも悲しまなければならないでしょうか。もちろん歓迎しなければなりません。それでは、私たちが死ぬとき、何のために死ななければならないのでしょうか。神様の真の愛、すなわち、ために生きる愛のために死のうとしなければなりません。ですから、肉身を脱ぐというのは、無限の神様の愛の活動圏に私たちが同参二緒に参加するするためであり、神様の愛の世界のためです。

2

病気にかかって死にそうになれば、昏睡状態になります。死んだのか死んでいないのか分かりません。そこから、自分が行って暮らすべき場所のすべてのものを見るようになります。自分が行って暮らす場所にいる同志たちが来て、自分を歓迎してくれ、また、果てしなく広がる豪華絢爛な天国を見て、「私も早く行かなければならない」と思います。それで、行ってみると死ぬのです。少しずつ少しずつ良いところに向かって、一次、二次、三次の門を通過するようになれば、あの世に入っていき、刈り取られるのです。死は、落胆したり、気落ちしたりすることではありません。落ちるのではなく跳躍するようになります。昇華するのです。ですから、死に対する恐怖をもってはいけません。死は、このような自然の循環法度によって訪れます。もっと良い世界に移してもらうための手続きです。

新しい人生の出発

3

一般の人々は、死ねばすべてなくなると考えますが、そうではありません。霊界があるので、そのまま続くのです。霊界に行くためには、地上で準備をしなければなりません。霊界に行けば愛で呼吸するので、地上で愛を中心として生活してこそ、そこでも自由に呼吸できます。地上で愛を中心として生活しなければ、そこで自由に呼吸できません。霊界は、愛を呼吸する世界です。愛の空気のような世界だと考えればいいのです。第二の新しい出発を「死」というのです。ですから、そのように恐れる必要はありません。死は、新しい出発の門を開くことです。

4

生命と死について考えてみるとき、どちらが強いですか。死より生命が強いですか、生命より死がもっと強いですか。サタン世界では、生命より死がもっと強いのです。ですから、み旨を知ったのちには、死ぬべき立場で死ぬことを嫌がってはいけません。死んでこそ復活します。それでは、聖書で言う死ぬこととは何を意味するのでしょうか。神様が、永遠の生命を奪うということではありません。堕落世界のサタンの血統を受け継いだ生命を奪うというのです。ですから、み旨のために死のうという人は生きるということです。

5

人間が肉身生活を終えたのちには、第二の出生をします。これが死です。第二の出生をして、行く世界が正に霊界です。その世界に入って、第三の父母である神様から宇宙全体を代表した愛が供給されます。理想的な愛が供給されるのです。ですから、霊界では統一されざるを得ません。死ぬ瞬間からは第二の空気世界を振り払って、新しい第三の愛の呼吸器官に連結されなければなりません。父母の愛、兄弟の愛を振り払って霊界に入り、結局は大宇宙の神様の本体と一つになった愛の世界に入ります。種が本体から出てきたので、実を結んで、また本体に戻らなければなりません。

6

人間が死ぬのは、肉身では制限された愛でしか愛せないからです。無限大の神様の真の愛の対象的実権をもとうとすれば、制限された肉身だけではできません。ですから、無形の霊にならざるを得ません。さらに、愛の理想を全天地に広げて実現するためです。ですから、死は苦痛の道ではなく、宇宙的真の愛を所有できる幸福の門を開く時間です。死は、這って歩き回る地上世界から、ひらひらと飛び回って暮らすことのできる世界に移ることです。全宇宙を自分の舞台にして、真の愛で楽しめる旅行者の資格をもち、そのような世界に入門するために死の道を行くのです。ですから、死ぬことは正に、新しく生まれることです。

7

私たちは、いつかは肉身を脱いで霊界に行かなければなりません。したがって、この世の中に生まれた私たちは、死を覚悟しなければなりません。また、善の自我を第二の「私」として永遠の世界に立てるためには、苦労しなければなりません。母親の腹中で胎教を正しく受けてこそ、健康で善の赤ん坊が生まれるのです。この地上世界においての生活は、腹中での生活と同じです。ですから、神様の形状を模範として、神様の心情を模範として、神様の聖なる神性を模範として育たなければなりません。育ってまた命を懸けて越えていかなければなりません。

8

死は第二の出生なので、悲惨ではありません。アダムとエバが堕落していなければ、神様と共鳴圏で暮らしていたはずです。心と体が共鳴するというのです。それで、私たちが地上で愛を中心として生活するようになれば、霊界の愛と同じ波長基準になっているので、地上で暮らしながら霊的世界を感知することができます。地上で父母から生まれて父母と共に生きながら、父母から学んで地上生活を完成させるのと同じように、天上世界の愛の母体である神様を中心として生まれ変わり、天の父母と共に永遠の愛の世界で、内的五官を完成した神様の息子、娘として、神様の友として、神様の体として生きていくのです。ですから、死んでなくなってしまうのではありません。死は第二の出生であり、有限な世界から無限の世界に行くときに境界線を突破するためのものであり、峠を越えるためのものなのです。

9

死は、胎児が、へその緒と子宮を破って出てくるのと同じです。この制限された世界から、神様から愛される位置に帰っていくのが第二の出生です。それがすなわち死です。それで、第一先祖がいて、第二先祖がいるのです。父母から愛されて生きていたこの世の中から、無限の父母、永遠の父母である神様の愛の位置を訪ねていき、神様の懐に抱かれて無限大の生命と愛の関係を結び、愛を空気のように吸いながら永遠に生きられる本郷の地に帰っていくのが人生の道です。ですから、神様から出発したので、このような愛の実権を「私」がもっていくことによって、「私」が神様と同じになるのです。愛を中心として対等な価値をもつようになります。

10

人間は、神様から生まれたので、いずれにせよ霊界に帰らざるを得ません。韓国語の中でおもしろい言葉が、「トラガンダ(帰る、亡くなる)という言葉です。どこに帰るのでしょうか。共同墓地に行くのは帰ることではありません。出発した元のところに帰るという意味です。その出発地は、共同墓地ではありません。はるか遠くの歴史の起源を越えて帰っていくのです。「人間が帰る」というのは、韓国人として生まれて韓国人に帰ることを意味するのではありません。韓国人として死にはしましたが、韓国人に帰る、その道ではありません。人類の先祖の根源世界に帰っていくという意味です。創造主がいらっしゃるところに帰るということです。そこから出発したので、そこに帰るというのです。

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韓国では、年を取って死ねば、「トラガショッタ(お亡くなりになった、お帰りになった)」と言います。祖父、祖母がなぜおられないのかと聞けば、「トラガショッタ」と言うでしょう。どこに帰ったのですか。霊界に帰ったというのです。本来、無形の神様から出発したので、本然の故郷が無形の世界です。無形の世界から有形の世界を経て、地上で繁殖して生きたのち、再び無形の世界に帰るようになります。そのように帰っていくのです。無形の父から出発して、有形の父を通じ、母の体を借りて生まれて生きたのち、有形世界の体を脱いで本然の形態に帰っていくのですが、それが霊界に行くことです。

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人間は、生まれれば死ぬようになっています。死んでどこに行くのでしょうか。煙となって消えてしまうように消えてしまうのではありません。必ず霊界に行くようになっています。霊界に行くようになれば、霊界の国があります。その霊界の主人とは誰でしょうか。神様です。ですから、その神様の息子、娘にならなければなりません。神様の息子、娘になることができなければ、天国に入ることができません。

13

皆さんは、霊界の事実を知らないかもしれませんが、先生は神様の特別な恵沢を受けて、未知の世界についてよく知っています。その世界の根本を掘り返してみると、原則は簡単でした。その世界は、神様の天地の原則、理想的根源のために生きた人だけが行くところです。そのような内容で形成された世界が、理想天国です。そこが、私たち人間が訪ねるべき本郷です。私たちは堕落した人間として、本郷から追放された人間になったために、本郷の地に向かって帰るべき運命にあるのです。しかし、そこには、人間がそのまま入ることができないので、神様は、人間が入ることができる道を歴史過程に設定せざるを得ません。

神様の愛の世界に行くこと

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私たちは、知っていようと知っていまいと、あるところに向かって進んでいます。「私」が動く時間にも進んでおり、休んでいる時間にも進んでいます。単に「私」だけでなく、この民族、あるいはこの世界、さらには天と地までも、あるところに向かって進んでいます。これは否定できない事実です。一生を経たのちに、「私」はどのようなところに行くのでしょうか。これが、人間が解決すべき重要な問題です。宗教も哲学も歴史も、この問題を解決するために動員されています。ですから、皆さん自身もこのような運勢に捕らわれ、引っ張られていることを否定できません。この問題を解決できなくても、私たちは、いずれ逝くべき運命に置かれています。私たちが生きたのちに死ぬ日、この体は土に埋められることによって終わります。体が埋められるその日は、心も、生命も、心情も、理念も、あるいは願いまでも共に埋められてしまうのでしょうか。この問題に対して、その内容と解決点と、はっきりした目的観を立てておかない人は、不幸な人にならざるを得ません。

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神様が人間の父母であるならば、人間をどのように造ったのでしょうか。愛の神様が人間を造るとき、神様の愛に同参させた位置から出発したというのです。神様の心から出発し、神様の愛の懐で育ち、神様の愛の懐で成熟して家庭を形成し、この地上で世界的な愛と連結させることができる成熟者となり、神様の愛の懐に帰らなければならないのが人生の道です。

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人間は霊的なので、その生命は永遠です。人々が天の前に忠誠を尽くし、天のために死の道も行き、多くの人が嫌だという道も希望を抱いて行ったのは、普通の人たちが感じられないものを感じ、普通の人たちが分からない価値を知ったからです。ですから、死の道も行くことができたのです。心が現実生活でぶつかる、逆境と困難と悲しみと死よりも、もっと強くならなければ、皆さんは死の前で後悔する者になり、悲しみと苦痛の前から後退する者にしかなれません。

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皆さんは、父母から生まれました。根本的な立場で、どこから生まれたのかというと、「私」は、神様から父と母のおなかを通して生まれました。父と母が皆さんをつくったのではありません。皆さんが生まれたのは、「真の父母」を求めていくためです。宇宙の父母を通して、体の父母を通して、真の父母を訪ねていかなければなりません。ですから、死は、真の父母に会いに行く歓喜の時間です。そこには、真の父母の真の愛があります。それを天上天国と言います。そこの構成要素は愛です。父母の真の愛が満ちあふれたところです。その愛は、奉仕と犠牲の原則を通した愛です。これは一般的な法度に通じます。そこに合格できる人になるためには、万宇宙を「私」が愛さなければなりません。この地上生活は、人類を愛するための試験場であり、訓練場所です。これが宇宙の根本です。人間が生きている時にこのような体験とこのような愛をもって生きて合格していけば、間違いなく神様のみ前に帰るのです。

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人間は神様に似ようとし、神様も自分と似るようにさせたいという観念をもっています。ですから、人は、再び神様と似ることのできる体をもって生まれなければなりません。そのように生まれる日を神様も待ち望み、人間も待ち望むのです。そのような人として生まれる日が、死ぬ日です。このような立場で、人間は、死を歓迎しなければなりませんか、歓迎してはいけませんか。歓迎しなければなりません。死ぬのですが、何のために死ぬのかというときに、「神様の真の愛のために死ぬ」と言うべきです。ですから、肉身を脱ぐのは、無限の神様の愛の活動圏に自分が同参するためであり、神様の愛の世界のためです。神様の愛の中に生まれることが死ぬことなのですが、人間世界では「ああ、死ぬ」と大騒ぎします。制限された愛の圏内から無制限の愛の圏内に突入する喜びの瞬間が、第二の出生の瞬間であり、それが死の道を通過する瞬間なのです。皆さんは、死の恐怖から解放されなければ、神様と関係を結ぶことができません。

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人間には、生きる目的があります。ところが、生きていく人間の目的がすべて異なっています。「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ!」と言うのは、何のためですか。神様の息子になるためです。ですから、神様を愛するためなら、命までも差し出しなさいというのです。そのようにしなければならない私たちは、最低の位置で死ぬことはできません。最高の位置で死ななければなりません。天国を中心として死ななければならないのです。天上天下に一つしかない天国で死ぬのです。死ぬにも方法があり、位置があります。韓国的なもののために死ぬことはできないのです。最高の位置、天上天下を通過した神様の心情の国を中心とする最高の位置で死ななければなりません。天国の真ん中で死に、天下が旗を揚げて歓迎する位置で死ななければなりません。

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天の希望を抱いて暮らす人は、人間が悲しむ死の峠も、喜んで越えることができる人です。そのような人が天の希望を抱いて暮らす人です。ですから、皆さんは、死を前にして世の中の万事を恨んで嘆息する人にならず、喜んで天のみ前に立って自らの死の価値を誇ることができる人にならなければなりません。天は、このような希望の息子、娘を求めています。このような立場に立って天の喜びを感じた人がいるとすれば、彼は神様が愛すまいとしても愛さざるを得ません。そのような立場で天に対して泣いて求める群れがあるとすれば、天はそれに応えまいとしても、応えざるを得ないのです。