先生は幼い頃、活動範囲がとても広かったのです。目に見える野原や山の頂上など、行ってみなかった所がありません。その山の向こうまで行ってみなければ、気が済みませんでした。そうしてこそ、朝日に映るあの向こう側には何があるということが頭に入ってくるのです。ですから、どこにいても、座っているということがありませんでした。そのようにして先生が、信仰的な情緒を育てたのが故郷の山と川です。故郷の水であり、故郷の木であり、故郷の地であり、故郷の春の風です。過去のあらゆることが生き生きと記憶に残っています。祈りながら起きた出来事も、鮮やかによみがえってくるのです。
第3節 自然探求と自然の教訓
自然に没頭した幼少期
先生が幼かった頃、山に通いながら花という花で、観察していないものがありません。知らない花がないのです。自然がとても好きで、家にも帰らず、日が暮れるまで自然と戯れて駆け回り、疲れてそのまま寝てしまうと、夜の十二時になって父と母が捜しに来て、連れて帰ることが多くあったのです。自然がそれほど好きだったのです。
山で見かけるすべての鳥は、先生がすべて鑑定しました。渡り鳥が来れば、雄、雌がどのようになっているのか知りたくなるのですが、それが分かる本がないのです。ですから、仕方なく、渡り鳥を探しにいって研究するのです。一週間、御飯も食べずに待つのです。そうして渡り鳥が現れれば、それについていって穴を探し、巣を見つけて卵がかえるのを見ては、「ああ、あの鳥はああいう卵を産んで暮らすのだなあ」と確認するのです。そうしてこそ気持ちが楽になったのです。
先生の家の前庭には大きな木がありました。かなり大きな木だったのですが、そこにかささぎの巣がありました。一度、かささぎが卵を産んだのですが、毎日のようにそれが気になるのです。それをはっきりと知るまでは、夜眠ることができません。夕方、かささぎの巣がある所に登っていって見つめ、また早朝から、かささぎが出てくる前に、登っていって見るのです。そのように登っていると、卵を一つ産み、二つ産み、三つ産み、毎日卵が増えていくのです。毎日のように登ったり下りたりしたところ、かささぎと親しくなりました。初めは「カッカッ」と大騒ぎしたのですが、毎日のように登ってきても支障がないので、騒がなくなったのです。そのようにして、何を獲ってひなに食べさせ、何をするのかを観察しました。
かささぎは枝で大きな巣を作ります。中は泥を塗って丈夫にし、風が吹く方向をすべて知って穴を開けておきます。最初にその巣のある所に登ったときは、どれほど大騒ぎしたか分かりません。しかし、一度登り、二度登って、卵を産むのを目にしました。毎日のように朝と昼、一日に二回は登るのです。一番初めは大騒ぎしますが、一週間そのように登ってきても自分には何の害も加えないので、大騒ぎしなくなるのです。ところが、雨が降る日は登ることができません。雨の降る日が二日、三日続いて登ることができず、ようやく階れた日になって登っていけば、どれほど喜ぶか分かりません。「カカカッカカカッ」と鳴きながら、登ってこいと信号を出すのです。親しくなれば、通じないものがないのです。神様よりも、神様が造ったものをもっと愛せばどうでしょうか。作家が作った物や作品、絵のような美術品を見て、作家よりもっと愛せば、その主人も引っ張られてくるというのです。神様も同じです。神様が造った自然を愛せば、神様が訪ねてこられるのです。「こうしてこのようになった」ということをすべて教えてくれるというのです。自然はそのように貴いものです。
先生が幼かった頃、先生の部屋の前に柿の木がありました。トイレの前にあった大きな柿の木なのですが、その色がどれほど青々としていたか分かりません。柿の木の葉は、非常に潤いがあります。そこにひぐらしがいたのですが、村ではそこが一番高い所です。そのひぐらしが、高い所で鳴かなければならないことをすべて知っているのです。高い所で鳴いてこそ、その効果が出るのです。その鳴き声を聞けば、あるときはどれほど気分が良いか分かりません。どれほど涼しいか、一度聞いてみてください。そこには、縫い物をする女性たちが、暑さを忘れ、手を止めて引き込まれるような境地があるのです。
アカシアの花に蜂が留まって頭を押し込み、お尻を上に持ち上げて吸っているとき、ピンセットでお尻を引っ張ると、お尻がとれても口を放さないというのです。そのようなことを見れば、どれほどすさまじいでしょうか。体がとれるほど引っ張るほうもひどいですが、その味を知って放すことができないというのは、もっとすさまじいのです。先生はそれを見て、「いやあ!これは私が教えられた。私もこのようにしなければ」と思ったのです。
海に行けば、どんなことでもすべてできます。海の底には、どんなかにが棲んでいて、どんな魚が棲んでいるかを知っているというのです。先生の故郷からは海が遠いので、海を学ぶため、夏休みのようなときに毎日、海に通うのです。うなぎを捕まえ、かにも捕まえるのです。そのようにしながら、ありとあらゆる所をすべて探し回ります。そしてはっきりと分かれば、その次には釣りをします。どんな魚がどこに棲んでいるかを知り、魚を捕まえるのです。うなぎのようなものを捕まえることにおいては、先生がチャンピオンです。
夏休みのときは、一日にうなぎを四十匹以上、毎日捕まえました。うなぎは深い水の中にいますが、ただ身を伏せているのを嫌うのです。自分を保護できる穴を探して入っていきます。頭や尾が出ていようと、体を覆うことさえできれば安定感を感じるのです。生理的、生態的にそのようになっています。かに穴のような所を見れば、そこにいます。そのような穴を見れば分かるのです。それに関しては既に専門家になっていました。
雌鳥がひなをかえすために卵を抱いているのを見れば、目をじっと開け、足で卵を転がしながら一日中座っています。そのようにしていると、おなかに生えている毛がすべて抜けてしまうのです。毛が抜けるほど座っているのですが、それは気分が良くて座っているのでしょうか、気分が悪くて座っているのでしょうか。先生は幼い頃、本当に好奇心が旺盛だったので、それを毎日のぞき込みました。最初は追い払おうとしていましたが、一日に三度以上のぞき込むので、「またか」と言って、おとなしくなりました。硬い卵を抱いているのを見れば、その姿勢は「天下の誰も触れさせない」と言っているかのような姿です。自分に危害を加える者は誰であっても赦さないという、大王の権威をもってにらむのです。雌鳥の権威には、雄鳥も勝手にできません。雄鳥に卵を抱かせれば、三時間もせずに逃げ出すでしょう。雌鳥が卵を抱いているのは、愛の力なのです。
大きな木には間違いなくかささぎの巣があります。かささぎは告鳥だと言います。かささぎが「カッカッカッ」と鳴けば、良い知らせが来ると言います。かささぎの生態を見れば、本当におもしろいのです。かささぎの巣を見れば、「ああ、今年は風がどこからどこに吹くのだなあ」ということが分かります。東風が吹きそうであれば、出たり入ったりしながら、それに備えて穴をぽかりと開けておきます。また木の枝を集めてきて巣を作るのを見れば、誰が教えてあげたのか、傑作を作るのです。これは枝を編んで作るので、雨も入り込んできます。ですから、あとですべて泥を塗るのです。風が入ってこないようにしておき、枝の先を、雨が降っても雨水が家に入らず、一カ所に流れていくようにしておくのです。先端をできるだけそうやって集めておき、雨が降れば雨水が巣の外側に落ちるようにするのです。これを誰が教えてあげたのか、本当に驚くべき腕前です。
自然から学ぶ真の愛の教訓
万物のことを考えれば、真の父母と神様の愛が現れる、その時のために準備していることを発見します。鉱物も愛し、植物も愛するというのです。蝶と蜂、動物など、すべてが愛を中心として結びついています。香りを出し、花を咲かせ、音を出すすべてのものが、万物の愛のための象徴的表示です。蝶と花には、どんな関係がありますか。蝶は花を探し回り、花は美しさを万物の前に表しています。宇宙に拍子を合わせるために、戯れながら存在しているのです。神様が愛を中心としてこのような宇宙を創造したことを考えてみるとき、私のためにこのように造られたその庭園と調和の博物館が、どれほど素晴らしいかというのです。夏に、せみがペアになって音を出し、鳴いて拍子を合わせるのは、愛の歌を歌っているというのです。それがすべて教科書なのです。
先生がダンベリーの刑務所にいるとき、斜面になった高台をブルドーザーで整地して運動場を造ろうと、砂利のような物を拾い出す工事をしたのですが、途中で雨が降ってきて、最後までできずに残った場所がありました。その雨期の間に水鳥が来て、そこに卵を産んでひながかえったのです。そのときは雨が降る時期だったので、人が通らず安全だと思ったのですが、雨期が過ぎてみると、そこを通る人がたくさん現れました。そのひなをかえした巣が、散歩道からワッか二メートルほどしか離れていないのです。ところが、本当に不思議です。人がそれに気づかずに通り過ぎるときは、母鳥もじっとしています。しかし、目が合いさえすれば、動き出して「ワァワァワァ」と大騒ぎします。一歩でも進もうとすれば、「ワッ」と鳴いて飛びかかってこようとするのです。とても小さい鳥なのですが、体の大きな人間が近づくと、体当たりしようとします。それもとても勇敢に体当たりしようとするのです。それを誰かが教えてあげたのでしょうか。人間のように、何かの学説を通した、計画的な教育制度によって教えてあげたのでしょうか。愛をもっているからです。愛には教育が必要ないのです。
魚の中で、雄と雌が愛することにおいて、最も模範的なのがさけです。ですから、先生は、さけを本当に愛しています。彼らは自分が生まれた場所を離れて五千マイル以上、五大洋を回り、四年がたつと故郷を訪ねてきます。アラスカは気候が寒いために昆虫もいないので、彼らの子供が食べる物がありません。ですから、母親が死んだのち、自分の体を子供たちに食べさせて育てるというのです。万物の霊長が、魚にかなわなくてよいですか。動物世界は、そのようになっているのです。愛は、そのような偉大な力をもっているのに、万物の霊長である人間はどうでしょうかる人間は真の愛の主人です。どのように高次元的な夫婦の愛を完成するかというのです。先生が原理のすべての内容を発見したのも、聖書からではありません。自然の中から発見したのです。
さけは卵を産んで死にます。それを見れば、死ぬ日が定められた死刑囚の立場で、夫婦が愛する以上の愛を交わすのです。雌が卵を産めば、雄は地面を掘って卵を保護してあげます。それこそ理想的な一双です。そして、卵を産む十二匹は死ぬのです。死んでいく雌、雄の姿を見たとき、先生は本当に大きな衝撃を受けました。その母親の体は、子供たちの餌になります。創造主がいるとすれば、なぜそのように作ったのでしょうか。それを見れば、子女がどれほど重要か、愛がどれほど重要かを知ることができます。愛が最高のものであり、子女が最高のものであることを見せてあげるための、一つの標本としてさけを造ったのだろうという理論は、ごく当然な話です。命を捨ててでも、愛と子女のために行かなければなりません。
さけは、四千マイルから六千マイルの遠い大洋に出ても、四年間漂流したのち、においをたどって自分の故郷を訪ねていきます。人よりも優れているでしょう。そのように苦労しながら帰ってくるのです。そして、子供を産みます。雌と雄、二匹が一度出会って卵を産めば、死んでしまいます。死ぬと、その子供たちが父母の肉を食べて育つのです。愛の偉大さ、愛を通した子女の偉大さが、そこで現れるのです。ですから、「私」という存在は、父母の生命の代身存在だというのです。子女は一段階、他の人よりも前進して、高い愛に接する後継者です。そのように愛が高くなれば、最後には神様の愛の圏内に入っていかなければなりません。
すべての存在は、系列が異なり、その次に定着地、生きる基盤が違います。川の水は海に流れていきます。海に行き、また空中に上がって雲になります。再び気候の変化によって水になるのです。水がまた、雨や雪や雹(ひょう)に変わって落ちるのです。平安道の言葉で、それを「ムリ」と言います。そして、鳥が魚を獲って食べ、魚も鳥を獲って食べます。植物と動物全体が食物連鎖によって結びついています。動物は植物を食べることができ、植物も動物を獲って食べることができます。プランクトンには植物性プランクトンと動物性プランクトンがいます。それらが海のすべての生き物と微生物、菌までも養って生かすのです。それを食べながら生きるのです。
創造の根本基準は何でしょうか。神様がいくら絶対的な方だとしても、愛の相対者を訪ねてこられます。それが創造の始まりです。愛の相対を探す前に、まず環境を造られました。環境は、その相対者がそれを栄養素として取り、育つようにするためのものです。その栄養素を取るのも、強制ではありません。その相対者が真の愛の主体の位置に立つので、自動的に万物全体がその人に従って絶対順応していくことによって、一体になるようになっているのです。それが創造の主流となる根本精神です。
宇宙いっぱいに満ちているすべての存在は、自らの水準において相対と共に存在していますが、結局、より高い愛の次元に吸収され、上昇していく原則に従います。すなわち鉱物は植物に、植物は動物に、そして結局は、人間にすべて吸収されることを願うのです。ですから、すべての存在は食べられたり吸収されたりして、より高い愛の次元に上がり、ついには愛の根源である神様の最も近い愛を受ける位置まで進むのです。このように、すべての存在が究極の目的地とするのは、正に真の愛の本質です。ダーウィンの弱肉強食という言葉は、このような真の愛の論理によって再び解釈されなければなりません。ですから、ありや微生物さえも愛を願うだけでなく、自分を愛する主人のところに行って死のうとするのです。このような原則において、神様の愛の最も高い対象として造られた人間は、すべての万物を食べ、吸収できる立場にいます。このすべてのものを食べて吸収するのですが、これらを造られた神様の真の愛を身代わりする気持ちで、食べて吸収しなければなりません。もしそのようにできなければ、宇宙は存立できないのです。
南極のペンギンのような鳥は、海辺で卵を産むものもいて、群れをつくって百マイル以上離れた地域に行って卵を産むものもいます。暴風が吹いても巻き込まれず、遠い距離をその足で歩くのです。雌は卵を産み、それを自分の足の甲に乗せて抱きます。足を動かしながら毛をこすりつけて温度を保ち、子をかえすのですが、何カ月間も食べずにそのようにするのです。そうしてそれを雄に渡すと、雄は餌を思う存分食べておき、子供に食べさせてあげます。子供を宿した雌よりもおなかが膨らんでいるかもしれません。雌と交替してふ化させ、子が出てくるまで我慢するのです。そのような精魂を込める中で愛の実として生まれた子供は、食物連鎖を中心として有り難く思うというのです。
より大きなものを保護するためには、より小さなものが犠牲になるのです。それが原則です。人間が草を食べる牛を捕まえて食べるのは罪ではありません。それは保護するためのものです。保護するために犠牲になるのです。それは発展です。小さなところからの飛躍です。草の細胞になったものが人間の細胞になれば、どれほど飛躍でしょうか。神様の愛に接する分野が広いからです。これを知らずに弱肉強食の概念を語り、人間が進化したという概念を語っています。唯物弁証法では、これを闘争の概念、階級概念として考えました。上下関係は主体と対象の関係なのですが、ここには主体と対象の概念がありません。
弱肉強食は闘争の概念です。宇宙の万物世界は闘争していると言います。愛の理想の大きな目的を中心として、宇宙を動員して神様の理想的生命体の根源を造成するという概念がないというのです。堕落によってそのようになりました。闘争して発展すると考えたのです。ギリシャ哲学では、自然界を敵という概念で捉えました。そこから適者生存の論理が出てきました。適切な環境において残れなければ、生存はないというのです。それは堕落した結果です。マルクスやレーニンは、結果的なものだけを見ました。万物の根本である人悶の心の世界を見ても、闘争しているというのです。闘争の概念が万物の中から始まったと見たので、そのようにしか結論を下すことができないのです。愛の理想を完結した実体を越え、天の国の家庭完成と天の国の王権を中心として、天地における統一された神様の安息基盤を整えるためだという概念を知らないので、闘争の概念として見たのです。