天聖経訓読室

第2節 万物創造の意味

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1

神様は、天地万物を何かの趣味で造られたのではありません。目的も方向もなく、何の理念的な内容もなく、ただ造られたわけではありません。非常に大きな目的と、大宇宙の理念をもって造られたのです。極めて微小なものから、果てしなく大きな宇宙に至るまで、すべての存在物には神様の心情に通じる理念が宿っています。このような理念をもって造られた目的とは何でしょうか。神様の愛を中心とした理念の世界、すなわち愛に通じ、愛とともに楽しみ、愛とともに生き、愛とともに死ぬという世界を目的とされたのは問違いないのです。

2

なぜ神様は、天地を創造されたのでしょうか。神様は絶対的な主体ですが、主体だけでは喜びがないからです。喜びというものは、一人でいるときに生じるのではなく、相対的関係において生じるのです。平和も幸福も、相対的関係においてのみ成し遂げられます。ですから、神様も、独自的な立場では神様の本分を果たせないというのです。

被造世界創造の目的

3

神様は二性性相の主体としていらっしゃると言いましたが、その二性性相の神様としても、必ず愛の対象が必要なので、天地万物を創造したのです。ですから、原子世界を見れば陽子の周囲を電子が取り囲み、分子世界を見れば陽イオンと陰イオンになっており、植物世界を見れば雌しべと雄しべになっており、動物世界も雄と雌になっています。このように、すべてが相対的になっています。ペアで造ったのは、愛のためです。すべてのものが愛のために生まれ、愛のために生き、愛の目的を成し遂げてから逝かなければなりません。

4

神様は、六日間で造った被造物を御覧になり、無限に喜ばれました。その喜びの心をもって「良し、良し」と重ねて言われたみ言は、誰に言われたみ言だったのでしょうか。万物に向かって言われたみ言でした。万物に対して、それほど懇切な思いを抱き、語られたというのです。ところが、造られたすべての被造物が、エデンの園で「良し」と称賛されたその被造物が、善の価値を失ってしまいました。神様が誇ろうとされたそのみ旨が、万物の中において実体的に現れることができずにいるというのです。このような悲痛な事実を考えれば、神様が「良し」と言われたそのみ言が、悲しみのみ言になったというのです。

5

神様は、なぜ天地を創造されたのでしょうか。いくら絶対者だとしても、一人では喜びを感じることができず、たとえうれしいと思っても、喜びの刺激を感じることができないからです。絶対者がいくら「私は絶対者だ。私は愛の主人公だ。生命の主人公だ」と言ったとしても、絶対者一人では愛の刺激を感じることができず、天地が自分の体の中にあるという生命の刺激を感じられないのです。

6

神様は、どうして宇宙と人間を創造されたのでしょうか。それは、神様が心情をもっているからです。心情があるところにおいてのみ生命が現れることができ、生命があるところから発展運動が起きるからです。その創造には必ず目的があるのですが、その理由は、本来、心情というものが目的を指向するものだからです。ですから、創造目的は、心情を充足させる喜びにあるに違いありません。そして、この喜びは被造物、特に人間が神様に似たときに訪れるのです。

7

神様が被造世界をお造りになるとき、そこには喜びがありました。造ってから、見て「良し」と言われました。喜びがあったというのです。喜びとは何でしょうか。ある目的を成し遂げたときに感じるものです。造られた万物に神様の目的意識が内在していたので、創造された万物を前にして神様は喜びを感じられたのです。それでは、復帰された世界とは、どのような世界でしょうか。一言で言えば、森羅万象の個体を見て、神様を賛美する心情的な関係を立体的に備えた人々が暮らす世界です。

8

堕落前の人類の先祖は、神様が造ったすべての万物を収拾し、天のみ前に栄光の条件として、喜びの象徴的対象として、美の対象として、刺激を起こせる一つの外的な対象として立て、その万物から来る刺激を通して内的な刺激を起こし、天性の心情に対して栄光の実体であることを誇らなければなりませんでした。しかし、そのようになれなかったことが、何よりも悲しみになったのです。それでは、天の心情に動じて生きていけるエデン、善と和合できるそのエデン、天のその理念によって生活できるそのエデン、見て、聞いて、感じるすべてのものが善の象徴であり、善を刺激しないものがないそのエデンにおいて、皆さん自身が天の心情に和合し、善の立場で神様を「父」と呼べる栄光のひと時をもてるとするならば、それは皆さんにとって最大の幸福となるでしょう。

9

被造世界は、誰のために生じたのでしょうか。それは、「私」のためにあるのです。私たちに喜びを与えるためにあるのです。ですから、人間は、自らが動機となって得た結果に対して、幸福を感じる環境を造らなければなりません。ここに、高次的な愛の理念へと発展させるためのみ旨があります。人間は、万物を愛し、万物は人間に美を返す境地に入るとき、人間は和動の中心体になります。皆さんが目指す生活、願う生活、それ自体が重要なのではありません。皆さんの現在の生活で、その中心を探さなければなりません。どんな方法を通して、その中心を探せるでしょうか。和動の中心体の位置を失ってしまい、堕落した「私」自身が、その位置を探そうとすれば、どのようにしなければならないのでしょうか。すべての存在物と比較して、それよりも大きければ主体になる、というのではありません。「私」は主体になるべきだという自信、言い換えれば、「あなたよりも優れていなければならない」という自信がなければならないのです。主体は絶対的でなければなりません。全宇宙が絶対的な主体と一つとなり、和動しなければなりません。皆さんは、そのような位置、すなわち万物を統合できる位置に、入っていかなければならないのです。

10

神様が万物を造るときに喜んだその心情を、どのようにして感じることができるのでしょうか。皆さんは、そのような神様の心情を体得しなければなりません。嫌いなものでも好きなものでも、それが問題ではありません。皆さんがこのようなことを体恤しようと思えば、丘に座って、朝から夕方まで、日が沈むまで、思索にふけるのです。時間がたつのも分からない圏内に入らなければなりません。そこで息を深く吸い込めば、この宇宙の空気が生命力をもって押し寄せてくるでしょう。このように、宇宙の生命力と生きなければならないのです。そのように生きる「私」自身が息を吐き出せば、すべての存在が新しく覚醒し、深く眠りにつけば、万物が相対的に和動するのです。このような場が、万有を統治できる絶対者の位置です。その場に立てば、万物と相対的関係を備えて、皆さんが息を吐けば万物が受け入れ、吸い込めば出してくれるのです。このように愛を中心として万物と授け受けする関係を結べば、この宇宙が互いに授け受けするようになります。皆さんは、そのような関係において、絶えず和動の中心体にならなければなりません。

11

宇宙は神秘的な世界です。神様がいたずらや遊び道具として造ったのではなく、愛する人のために精誠を込めて造ったとすれば、この世界がどれほど美しいでしょうか。この宇宙は父が「私」のために造ったのだという、この上ない感謝の気持ちをもたなければなりません。そのような思いをもって丘を散策し、草木と花を見つめ、鳥の鳴き声を聞いて鑑賞し、水が流れ、風の吹くすべてのものを見るとき、それがどれほど立派で素晴らしいかというのです。

絶対信仰と絶対愛で創造された被造世界

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絶対信仰、絶対愛、絶対服従です!これが、神様が創造する前にもった姿勢です。神様が万物を造るとき、「私の言ったとおりになる」という絶対信仰をもって造りました。その造ったものは、神様の愛の対象です。すべての微小な昆虫、植物世界、動物世界が、絶対なる神様の愛の対象として造られたのですが、その絶対なる神様の愛の対象物を、神様の息子、娘が摂取して育つようになっています。私たちは、地の恵みと、万物の恵みと、空気の恵みと、太陽の恵みを受けて生きるのです。自分のものは一つもありません。誇るものがありません。絶対信仰の中で、絶対愛の対象として造られたそのものを摂取して生きようとするなら、絶対なる神様が創造されたのと同じように、自分のために生じたすべての万物に絶対信仰で対さなければならず、絶対愛で対さなければならず、絶対愛だけではなく、自分が主人となった立場で、生命までも投入して消化すべき責任があるのです。

13

神様がこの世界を創造するとき、神様は、一輪の花を造るにも将来の美しい愛の相対を想像し、絶対信仰、絶対愛、絶対投入しながらも、それを忘れてしまわれたのです。未練がなかったということです。極めて小さな万物も、愛する息子、娘の血と肉になり、自らの体の血と肉になるからです。絶対信仰、絶対愛、絶対服従は、漠然とした言葉ではありません。宇宙創造の前から、砂一粒のようなものさえも、人間にとって将来、愛の実体になれる栄養素として、血と肉になり、骨になり、骨髄になることが分かっていたので、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の上に作ったというのです。

14

万物を創造するとき、主人が相対的な世界を造るために投入し、投入して忘れ、また永遠に投入して忘れることによって大宇宙が誕生したのです。そのようなすべてを包容して余りある、天的な愛の権限をもって神様が無限に投入したときは、創造された本体が無限の力をもつのです。絶対無限のマイナスになったときは、絶対無限の力が現れるのです。運動が始まるというのです。真空圏になれば風が吹きます。完全真空になれば垂直に落ちるのです。落ちたときは天地がひっくり返ります。上のものが下になり、下のものが上になり、完全に混ざってしまうのです。永遠で無限大の運動が無限に広がるため、宇宙は永遠に存在するのです。

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神様は、絶対信仰の上で万物を造りました。宇宙の存在物をそのように貴く造ったのに、それを信じられず互いに争う人々は、万物を見るのが恥ずかしいことを知らなければなりません。流れる川の水を見ても恥ずかしく、飛ぶ鳥を見ても恥ずかしいのです。きりぎりすや昆虫も、万物の本然の信義をもって、人間よりも立派な生活をしています。絶対信仰の中で造った被造物が、そのような価値をもっていることを考えるとき、私たち人間が堕落して、絶対信義を見つけることができないというのは、天を見るのも恥ずかしく、あの山と川のすべての草木と昆虫、ひいては病原菌を見るのも恥ずかしいというのです。病原菌までもが信義をもって生きているというのです。神様が神様となったのは、絶対信仰を立てて絶対愛を実行したからです。

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万物が神様に、ぷつぷつと不平を言いますか。絶対信仰、絶対服従です。全体を犠牲にしても不平を言わないのです。鉱物は、植物の前に全体がのみ込まれても不平を言わないというのです。植物は動物に、動物は人間に、人間は神様に、そうだというのです。同じです。神様のためには生命を捧げなければなりません。万物全体を神様が絶対信仰、絶対愛、絶対服従の伝統で造ったため、自分自身が残っていれば神様に帰ることができないのです。

17

独りで存在する万物はありません。万物は必ず主体と対象になっています。すべてペア・システムになっているのです。ペアで宇宙を創造したところから絶対信仰観が出てきます。ペア・システムが生じたのは愛のためです。ですから、絶対信仰の上に愛の道が関わるようになります。絶対信仰の上には真の愛が植えられます。鉱物世界、植物世界、人間世界もやはり同じです。真の愛が植えられる、万物のすべての価値を身代わりした立場でアダムとエバが完成しなければなりません。神様のように絶対信仰をした、その愛の実体にならなければなりません。神様に対して絶対信仰し、絶対愛で愛さなければなりません。

18

神様は、エデンにおいて、絶対信仰で万物を創造しました。農作業をするのと同じです。それは、愛する息子、娘が摂取して生きていける元素だからです。そして、神様御自身が絶対投入しました。神様が威信を忘れ、息子、娘のためにゼロの位置に上がるのです。宇宙は円形運動で動くので、ひたすら押せばぐるぐる回ります。宇宙が愛の理想を完成した一つの存在にならなければなりません。ですから、それが連結されさえすれば、その中に神様が来て合体し、地上世界と天上世界、心の世界と実体世界が一つになって動きます。そうすることによって、真の愛を中心とした家庭、氏族、民族、国家、世界と天地が一つになり、霊界と肉界が一つの目的のために循環し、永遠に回る世界が地上・天上天国です。

19

人間と万物、人間と人間、人間と天の間にも、厳然とした創造原理的関係が予定されています。森羅万象の個性真理体が調和と統一の中で成し遂げた総合体である大自然は、人間に対して絶対対象の位置に立ち、主体である人間の絶対価値を実体化させる絶対的役割を果たすようになるのです。それと同じように、人間においても、家庭という基本枠の中で三代圏を形成して暮らしながら、上下、左右、前後の縦的、横的関係を学び、身につけるようになります。個々人が、個性真理体としての絶対価値を実体化する主体と対象の関係による授受作用を通し、和合と愛の人生を追求するようになるのです。人間と神様はどうでしょうか。創造主として絶対、唯一、不変、永遠の立場にいらっしゃる神様も、知ってみれば、御自身が立てた創造原理圏内で被造万物と授受作用を継続しながら、主体的立場に立っていらっしゃるのです。いくら絶対者であっても、対象との授受の関係を離れては喜びを感じることができないからです。

人間のための環境創造

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天地を創造なさった創造主が天地を創造するとき、まず考える期間があったはずであり、準備する期間もあったでしょう。神様が、「このように天地万物を創造しよう」という決定的な計画を立てる前には、まず考える期間があったというのです。その後、立てられたその計画を中心として準備する過程を経て、実践段階に越えていきました。このように天地を創造したというのです。天地創造がそうだったということは、神様がそのような方だということを意味します。神様も、考える期間から準備する期間、実践する期間がありました。そのような過程を経て天地万物を造られたのです。

21

万物を中心として見てみるとき、実体というのは、より発展的な蘇生の形態に違いありません。このような実体が現れたところに、初めて喜びが生じます。また喜びが生じれば、そこから和動の役事(働き)が起こります。そうして現れた実体が、ある段階まで発展過程を経れば、そこに初めて愛というものが加わります。これが、神様が被造万物を創造された過程の形態です。先に考えがあり、そこにみ言がプラスされて実体を形成し、その実体の上に愛が加わるというのです。このような創造過程を通して万物が生成されたのです。考える段階から体系的なみ言の段階に進んだとき、すなわち、漠然と「こうこうこのように創造しなければ」と考えている段階から、具体的な内容を添付し、一つの理論的体系を備えたみ言の形態を完成したとき、そこには言葉にできない喜びが生じるのです。

22

ある作家が自分の構想したものを作品に表現したとき、完成した作品を見れば、喜びが生じます。さらに、その作品が映画化されたり劇になったとき、それを自分が見れば、そこにはより大きな歓喜が生じるのです。心で思ったことが理論的に体系化され、体系化されたその理論を基盤として実体が備えられ、その実体が全体と関係を結べるようになり、全体が願う喜びの内容になれば、その実体は最も貴い存在になります。人間を見るとき、神様が天地創造の理念を中心として人間一人を創造するために、無限に苦労されたと考えることができます。どのような過程を通じ、どのような形で造るかを考えたのです。

23

人間も、み言によって創造されました。人を造る前に、人の形はこうだと説明できる体系を模索したあと、その基盤の上に、実体的な万物と連結させて人間を創造されたのです。このように、一つの実体として創造された人間が全体万物の前に中心存在として立つようになるとき、神様はより大きく喜ばれるのではないですか。そこにおいて、神様が喜ばれる価値の内容が決定されるのです。アダムが正にそのような立場に立つことによって、その基盤の上にエバを造りました。ここで初めて愛が生じるのです。愛は必ず横的な基盤を通して、相対的な価値の内容が決定したところで成立します。

24

神様が創造されるとき、まず何を造られたのでしょうか。霊界を造り、その次に万物を造り、人間を造られたというのです。そして、人間を造り、愛によって神様と一つになるのです。まず霊界、二番目に万物、三番目に人間、その次に愛です。愛によって神様と人間が一つになるのです。再創造過程においては、これを引き返しながら蕩減したという条件を立てなければ、帰る道がありません。

25

神様は、何を必要とされるのでしょうか。神様も真の愛が必要なので、神様がすべての宇宙を造るとき、最も喜ぶ環境を造らざるを得ませんでした。このように、神様が最も喜び得る環境を先に造られ、ここに最も喜び得る主体と対象として男性と女性を造られたというのです。その男性と女性が一つになる真の愛を中心として、神様と縦的な愛の軸を立てるという創造理想がありました。ここに万民が和合しなければなりません。すべての個人は、この同伴者となり、相対圏や対象圏という環境的に与えられた条件に拍子を合わせなければなりません。それができないのは、踊りを踊る手が右だけあって左がないのと同じであり、右足だけあって左足がないのと同じです。「愛の障害者」になるのです。神様はそれを願われません。

26

神様が創造をなさるとき、最初に人から造ることはしませんでした。先に環境を造っておき、その環境の中に入れたのが主体と対象の概念です。ですから、この創造の環境の中にある鉱物世界、植物世界、動物世界のすべての物は、どんなものであっても、レベルの高低を問わず、主体と対象の関係、すなわちプラスとマイナス、雄と雌、男性と女性のように相対的関係の存在として配置されているのです。ですから、鉱物世界もプラスとマイナスが一つになるのです。植物世界、動物世界、このすべての世界が同じようになっています。

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天地創造の道理を見れば、核心を先につくってから相対をつくったのではありません。核心をつくる前に、相対的な条件をつくっておいたのです。人を造るために土を先に造っておきました。外的なものを基盤として内的なものを立ててきたのです。それが天地創造の道理です。現在のものよりもさらに大きなもの、価値の小さな所からより価値のあるものを求めていくのです。天地創造の道理がそのようになっているのです。人間の創造を見ても、体を先に造っておいてから霊を吹き入れたのです。

二性性相に似た宇宙万物

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宇宙を観察してみれば、すべてが陽性と陰性の二性性相の相対的関係を結ぶことによって存在していることが分かります。これは鉱物という次元から始まり、すべての場合に適用されます。分子は陽イオンと陰イオンの結合を通して形成され、植物の場合、生存と繁殖は雌雄を代表する雌しべと雄しべの結合を通して形成されます。このような二性性相は、動物の場合によりはっきりとします。魚類、鳥類、哺乳類等、すべての動物は雄と雌で存在します。最後に、神様の最高の創造物である人間も、男性と女性に区分されているのです。

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神様は、二性性相の中和的主体です。主体は何を中心として成立するのでしょうか。愛を中心として成立します。ですから、横的な基盤が必要です。刺激的な基盤を多方面にもちたいと考えて拡大、展開したのが被造世界です。神様は、いつも喜びの立場に立つために万物を創造されました。神様は、縦的な基盤を中心として役事しますが、横的な基盤がなくなるときは連結できません。したがって、どんな人でも、絶対相対基盤をもたなければ、神様の主管を受けることができません。

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被造世界は、神様の性相に似ています。すべての被造物は二性性相の分立体として展開されています。主体と対象の関係、それから上下関係、前後関係、左右関係の相対的関係によって連結されているのです。そのような環境的制度の条件をもった目的とは何でしょうか。愛を目的として動くことです。

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被造世界は、すべてペアの相対圏になっています。一双、二双、このようにすべて、ペアの主体と対象の相対圏になっているのです。ですから、最も小さいものから造ったのです。神様も無形の主体なので、実体相対圏、絶対的な有形の実体を必要とせざるを得ないのです。したがって、神様も二性性相をもっています。それは、無形の性相を有形の実体として展開する創造のためのものです。それを中心として宇宙の被造世界を考えてみれば、鉱物世界も主体と対象の関係をもって運動しています。分子を見ればプラスイオンとマイナスイオンが主体と対象の関係であり、原子を見れば陽子と電子が主体と対象の関係です。

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宇宙を見れば、鉱物世界や植物世界、動物世界がペアで造られています。ペアでないものがありません。なぜ天地がペアで造られたのかというのです。子を産むためではありません。愛を完成するためです。そのため雄と雌、電気で言えばプラスとマイナス、その次に陽イオンと陰イ才ンがすべて相対と互いに一つになろうとするのです。次元は違いますが、愛を中心として一つになるのです。愛を好まないものはありません。

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自然界を見つめれば、独自的な立場で存続する物はありません。必ず相対性をもって相対のために存在し、存続します。微生物も、もしくは鉱物世界の元素までも、必ず相対的な関係を迫求してこそ力が生じ、作用が起こります。存在しようとすれば力がなければならないというのは、誰もが公認しています。この宇宙は力によって構成されています。それでは、力自体はどのように形成されるのでしょうか。力は作用を通じなければ発生できません。作用しようとすれば、どのようにしなければならないのでしょうか。独自的に作用するものはありません。これは科学世界において、特に化学実験室においてはっきりと感じられます。実験する当事者が、ある元素と元素を通して何かの作用を起こそうといくら力を加え、努力してみても、人間の力では作用させることができないのです。そのようにできない元素があるのです。

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地球は人に似ています。神様も息をすると考えることができます。見えない呼吸をするのです。地面も、神様に似たので息をします。それでは、気道は何でしょうか。地球には磁力線があります。磁石に磁力をもった物を近づけると、その磁力線に沿って動きます。神様に似て、そのようになっているのです。地球の表面にある木は、私たちの髪の毛と同じだと見ることができます。次に、地面は皮膚と同じで、その下に筋肉と脂肪の層があるのと同じように地層があり、その次に、骨のような岩層に入り、溶岩層に入っていくのです。すべて人を象徴しているのです。

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神様が御自身の形を実体化させたのが宇宙です。言い換えれば、神様が考えるものをただそのまま実現化させたのが万物の創造なので、宇宙は神様に似ているのです。ですから、どんなものを見ても、そこには神様の性稟が入っています。このように見ると、宇宙は神様が造った創造物ですが、全体で見るとき、神様の一つの対象的存在だというのです。

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家庭では、基本原則に従って父なら父、母なら母を中心として生活していきます。植物、鉱物、動物世界も、やはりそのような基本原則に従って存在するというのです。私たちの体も、五官を中心としたすべての系統に従って、全体の体が編成されています。このような全体を糾合して一つの原則的な基本を突き詰めてみれば、主体と対象の関係、二性性相という概念を発見するのです。