「宇宙」と言うとき、「宇」も「宙」も家を意味します。ですから、家庭と子女を愛するのです。その伝統的思想がどこから始まらなければならないかというと、国ではなく家庭です。この家庭は、宇宙的な家庭を代表したものであり、その息子、娘は億千万年の万民を身代わりできる先祖だというのです。それが創造本然の水準です。ですから、神様が万物を造ったのは、アダム、エバを愛するためでした。アダムとエバを探し出したのちには、神様と子女が一つになって、人間のために犠牲となる万物を愛さなければなりません。
第1節 宇宙の根本と愛
被造世界のすべてのものは、神様の愛する息子、娘が愛の理想を探し求めていけるように、教材として造ったものです。ですから、すべて相対的な構造です。鉱物も主体と対象の関係で作用します。原子もそうです。陽子と電子が主体と対象の関係で作用するのです。作用しなければ存続できないのです。運動しなければ永続、存続できません。ですから、宇宙は、人間を中心として、その中心点に到達できるように創造された世界です。人間は、大きくなればなるほど、すべて自然を見て習得します。月が照らし、星が光る秋の夜に耳を澄ませば、昆虫がオーケストラのように演奏をしているのです。何を中心としてそのように鳴くのでしょうか。相対を探し、理想を歌っているのです。愛を中心としてささやいているというのです。鳥や他のすべての動物も悲しい鳴き声、宴びの鳴き声を愛という共通分母に従って表すのです。レベルは低く、軸から遠く離れていますが、その軸を中心として平衡を保って回っています。すべての存在はそのようになっているのです。
宇宙は第二の母の腹中です。皆さんが今暮らしている所は母の腹中です。宇宙の母の腹中で生きているのです。ですから、母親の栄要素をもらうのと同じように、宇宙のすべての津液(しんえさ)をもらって生きるのです。ですから、ここでこれを供給しなければ、多くの犠牲者が出ます。多くの犠牲を払うのです。弱肉強食という言葉があります。「なぜ神様はそのように造ったのか」と言うのですが、それは誤った考えです。「私」がより次元の高い神様の愛の圏内に参与するのが宇宙の欲望なので、より次元の高い存在の体を通し、宇宙の愛の核の位置に帰ろう、これが願いにならなければなりません。「私」の体の細胞、人間の細胞が神様と直接通ずることのできる愛の細胞として存在しなければなりません。
宇宙の根本は何であり、宇宙は何から始まりましたか。愛から始まったのです。科学者たちは、「宇宙は力でできている」と齎います。作用するのを見て、力があると思うのです。力があれば作用をします。それでは、作用が先でしょうか、力が先でしょうか。男性が男性として成長するときは、愛の力は作用しません。男性として作用しながら成長します。心と体が作用しながらだんだんと成人になっていくのです。そうして女性に会うとき、横的な力が生じるのです。力が現れるには、必ず作用を経なければなりません。力がある前に作用があるというのです。作用はどこから出てくるのでしょうか。主体と対象の関係から出てきます。人も心と体からなっており、すべてのものがペア・システムになっているのです。
宇宙はどのように出発したのでしょうか。相対理想を中心として創造された神様を見れば、すべてがために生きるところから、投入するところから出発したのです。自分を消耗するところから始まります。それでは、自分を消耗して相対をつくり、何をしようというのでしょうか。二つとも消耗するのですが、消耗して得るものが愛です。愛さえもつことができれば、いくら消耗してもよいというのです。そのような概念が愛なので、愛を中心として神様が創造を始めたのです。神様が損をするようなことをしたのではありません。投入するのは損害ですが、なぜ神様はそのようにしたのかというと、愛にはすべてのものを満たして余りある力があるので、消耗させて投入しましたが、その代わりに愛を見つけてくるのです。真の愛は、投入すればするほど、次第に小さくなるのではなく、大きくなっていきます。動けば、その動き自体は投入して消耗することですが、真の愛は、投入すれば投入するほど、大きくなっていくのです。
愛には創造の能力があるので疲れません。愛の心をもてば、いくら投入しても消耗したエネルギー以上にいつも補充する愛の力があるので、疲れないのです。ですから、苦痛であっても嫌ではないのです。それが嫌ならば行くことはできません。愛のための道においては、「嫌だ」という心を永遠にもつことができないのです。真の愛のための道には、永遠に「嫌だ」という心があり得ないのです。神様の本質には怨讐の概念がありません。悪の概念がないというのです。それは、真の愛の中にいるからです。
この宇宙全体、天の国全体の中心軸は愛です。愛は生命の根本であり、血統の根本です。それは、愛を中心として形成されているので、愛の軸に従って運動します。運動というのは、ただするのではないのです。運動は、必ず主体と対象を中心として行うので、それぞれの位置で愛を中心として、愛と関係を結んで行動するのです。永遠の愛の実績として存続したいというのが、すべての運動するものの目的になっています。作用というのは、ただするのではありません。
神様が天地を創造したのは、自分のためではありません。神様のために創造したのではありません。万物の創造は、神様のためではなく、神様の愛のために行ったのです。宇宙の根本は愛から始まりました。愛が中心です。ですから、絶対的な神様も、絶対的に服従したいと思う理想郷をもたなければなりません。完全に服従するところに完全な幸福があり、完全な解放があるところに完全な幸福があります。
愛は、宇宙から始まり、いかなる存在でも、関係をもっていない存在はありません。取るに足らない一株の草も、必ず愛を中心として生きています。鉱物もプラスとマイナスを中心として生じ、すべて愛のゆえに動いています。小さなものから大きなものに至るまで、すべて愛を中心として関係が結ばれているのです。その愛は、何の愛でしょうか。神様の愛、真の愛を中心として関係が結ばれています。本来、神様が創造した世界がそうだというのです。
真の愛で成し遂げられた心情圏は、いくら小さくても宇宙と連結され、その中で起きる出来事の波長は、万象と霊界まで波及するのです。霊界を含む天宙は、すべて同じ神様の真の愛の原理のもとに存在するからです。神様と人間の間の縦横、前後の真の愛の関係は、人間相互間の理想的な真の愛の関係の根本であり、その完成は四大心情圏を完成した理想家庭においてのみ成し遂げられるのです。
秋には、昆虫が集まり、夜通しオーケストラ演奏会を開きます。夜が明けるまで、休むことなくオーケストラ演奏会をするのです。多彩な音でハーモニーを生み出して、索晴らしいオーケストラ演奏会を催し、その音が四方に響き渡ります。人間は、「彼らは今、何をしているのだろう」といぶかしげに思います。彼らはキスし、愛を交わしているのです。愛の音色です。音楽ではなく、愛の音色です。キスして抱き合い、愛する音だというのです。愛のオーケストラ演奏です。それは低俗なものではなく、神聖なものです。