天聖経訓読室

第1節 礼拝と祈り

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1

礼拝時間より早く来た分の時間は、神様のために捧げた時間になるので、千金、万金を払っても買えない価値があります。礼拝時間は、神様に捧げる時間なので、その時間に遅れてくるというのは、神様の恩恵をどろぼうすることになるのです。礼拝は、定められた時間に出てきて捧げなければなりません。そうすることにより、その分できなかったことを蕩減もでき、神様のみ前に面目を立てられるのです。そのようになれば、きのうよりも良い心をもって、神様のみ前に近づいていけるのです。

2

「私は、誰々のために教会に行く」と言ってはいけません。「私は、私の愛する息子、娘のために教会に行く」、「愛する夫のために教会に行く」、「愛する妻のために教会に行く」という人たちは、越えていくことができません。誰のために行くのかといえば、神様のために行くのです。神様を私のものとして所有するために、神様の愛を私の愛として探し出すために、教会に行くのです。

安息日と安侍日

3

神様に侍る場には、礼服を着て参席しなければなりません。着る礼服ではありません。「心情の礼服」です。心から、み言とともに、賛美とともに、感激した心情が流れ出てくるなら、天は皆さんを通して役事されるのです。堕落した人間がエデンの園から追放されるとき、涙を流しながら追い出されましたが、皆さんは、涙を流すとしても、喜びの涙を流しながら、笑顔で神様に出会わなければなりません。悲しみの涙も流したことのない人が、喜びの涙を先に流してはいけません。ですから、神様を失ってはいけないのです。「私」の目で探し出した神様を見失ってはいけません。「私」の耳で聞いたその神様、「私」の感触を通して感じられた神様を、失ってはいけないというのです。さらには、「私」の心情にしみ込んでくるその神様を、失ってはいけないというのです。これは、誰も干渉できません。いかなる偉大な人、権勢をもった人も、心情に入ってくる神様を引き離すことはできません。ですから、心情に深く入ってくるその神様をお迎えしなければなりません。

4

歴史は、「私」一人を生かすためのものです。ですから、恩恵を渇望しなければならず、恩恵を相続できなければなりません。統一教会に入ってきたのは、自分がうまくやって入ってきたのではなく、自分のために神様と先祖と教会が精誠を尽くしたからです。統一教会が苦労するのも、「私」一人を立てるためです。ですから、そのたくさんの負債を返さなければなりません。

5

安息日を神聖に守る目的は、どこにあるのでしょうか。結局は、神様が願う国を探し、人類を救うところにあります。キリスト教が聖日を守ってきたのは、この日を神聖に守ることにより、「私」自身が聖別され、救いの目的を果たすことに力を注ぐためでした。私たちが安息日を守る目的は、「私」自身の救いの道を促進させることであり、さらに全体を救い、神様の摂理の国と世界を救うという目的があります。これがより高い神様の願いです。

6

神様が喜ぶことを、人間も喜ばなければなりません。そのような理由で、神様は、第七日を安息の日として定め、休みなさいと言われました。ところが、六千年の歴史が過ぎた今日まで、安息の日を誇って休むことのできなかった神様です。イエス様も福音のみ言を強調し、安息日の重要性を強調しながら、二千年の摂理歴史の曲折の中で闘いの歴史を支えてきましたが、栄光の一日を迎えて神様に誇り、万民と共に安息した時がなかったのです。このように、神様とイエス様が安息できない立場にいるので、私たちも安息できないのです。ですから、安息が来る前に戦争があり、安息が来る前に苦痛があり、安息が来る前に死があるでしょう。これを覚悟して越えていくとき、初めて私たちは、安息の味だけでも味わえるようになるのです。

7

教会に来るときは、自分の父母、妻子を、すべて連れてきなさいというのです。兄、姉、すべて連れてこなければなりません。皆さんは、母、父、従兄弟や姻戚の八親等まで伝道するために、どれほど血と涙を流してみましたか。その一つの生命を導いてあげるために夜を徹して精誠を尽くし、祈りながら、自分の一身を祭物にして、どれほど身もだえしてみましたか。これが問題になります。皆さんは、各自、置かれた環境で中心にならなければなりません。中心になって歩むべきなのです。

8

今や安息日がなくなり、「安着侍義の日」になりました。神様は、安息日に休もうとはされません。再創造をしてきたので、休む以上に何十倍を蕩減しなければなりません。安着侍義、侍ることによって救われるので、「安侍日」です。安息日よりも「安侍日」です。安着侍義によって救われるので、安侍日という言葉に略して使えば、統一教会はどこに行っても分かるのです。八日を守る、驚くべき再出発の祝福安着と侍義の世界、地上、天上理想世界の門が開かれ、入っていける「私」自身になるのです。

礼拝精誠と祈り

9

聖日、準備された時間を中心として皆さんが敬拝を捧げるのは、制限された圏内で捧げるのではありません。国家を超越し、地球上で活動している数多くの統一食口が、先生のいる本部に向かって精誠を捧げ、涙を流しながら祈っているというのです。彼らは、世の中の人々に追われ、追い出される立場でも、本部に向かって祈りながら精誠を尽くしています。そのような祈りの前に、「そのとおりです」と言って賛美し、彼らの心情を身代わりして神様に侍るべき責任をもった人々が、本部の食口です。ですから、聖日の礼拝時間のために、三日前から気を揉んで準備しなければなりません。万民の幸福を祈ってあげ、「私」を通して万民が蘇生できる復活の権限と、生命の関係を連結させようと身もだえしながら、教会の門に足を踏み入れ、神様のみ前に喉が詰まる思いで礼拝に参加しなければなりません。

10

精誠を捧げる人は、礼拝時間に遅れてはいけません。そのような人がいれば、恥ずかしくて顔も上げられない、「罪人の中の罪人だ」という心をもたなければなりません。皆さんは、礼拝時間をしっかり守ると決意し、他の人よりもっと多くの精誠を捧げなければなりません。時間も守らないで、「ああ!天よ!」と言えますか。精誠は、他の人に分かるように捧げるのではありません。教会で精誠を捧げようとするならば、車に乗ってくるのではなく、歩いてこなければなりません。教会に来てから祈るのではなく、まず祈ってから、もっと懇切な祈りをしなければならないのです。精誠は、そのように捧げるのです。世の中の人々が願う環境と、彼らが追求する欲望とは反比例するところで、精誠は積まれるというのです。

11

天のみ前に出ていくとき、約束というのは、どこに行っても絶対的に厳守しなければなりません。約束を守らない人が何の恩恵を受けますか。そのような人は、行く途中でやめてしまうのです。天は、懇切に慕い、懇切に苦労する人と向き合ってくださいます。誰でも訪ねていけば、向き合ってくださるような天ではありません。そのため、礼拝時間は、絶対に厳守しなければなりません。

12

皆さんの中には、父母もいれば、子女の人もいますが、皆さんが神様のみ前に出ていくとき、時間というものは何よりも重要です。時というものは、何よりも重要だというのです。時を合わせられなければ、滅びるのです。神様は、この上なく聖別された環境を求め、聖別された心を求めるのですが、時間も守れずに後ろで賛美歌を歌うとすれば、天はそのような賛美歌を願われないのです。

13

神霊の世界に入って祈るなら、まず神様のために祈らなければなりません。主人に会う時間なので、主人の福をまず祈らなければなりません。そのようにしてから、イエス様のために祈らなければなりません。神様のために祈ってこそ、歴史的な神様の心情が分かります。イエス様のために祈ってこそ、歴史的なイエス様の心情が分かるのです。その次に、今までキリスト教界でみ旨のために闘ってきた数多くの人々のために祈らなければなりません。堕落以降、アダムとエバから今に至るまで、数多くの預言者が歩んだ一歩一歩をたどりながら、「私が彼らを解怨する祭物になれるようにしてください」と神様に祈りを捧げたあと、預言者たちに、「私はあなたたちの恨が地上に残っていることを知り、その恨を解こうと思うので、協助してください」と言いながら、涙を流せるようでなければなりません。そののちに、愛する自分の息子、娘のために祈り、その次に自分のために祈るのです。天法がそうなっています。

14

先生は、祈るとき、「今まで私に対してくださった父よ!」という心情で祈ります。きょう、一つの生命を父の前に立てるか、サタンの前に弄ばれるかを決着する岐路で、その生命を天のみ前に立てなければならないという責任を感じながら、祈るのです。説教をしても、世の中の他の説教者たちのように、何かの題名を定めて準備する人ではありません。この時に必要な父のみ言を語ろうとするのです。そのような基準が立たなければ、身もだえし、涙を流しながら祈ります。皆さんの行く道を心配しながら、祈るというのです。

15

精誠を捧げるときは、「絶対に信じます」という境地に入っていかなければなりません。「神様を絶対に信じます。み旨を絶対に信じます」という境地に入っていかなければならないのです。そのような境地でのみ、神様が協助するのです。祈りながらも、祈りが成就されるか成就されないか、疑ってはいけません。「父よ!私だけが残りました。私でなければこの国がなくなり、この世界がなくなってしまいますが、父よ、あなたが六千年間、苦労してこられたこの一つの境地に、私一人が残りました。あなたが成就させるみ旨の近くにいる者が、私しかおりません。私という存在がこのように重要ですが、私はまだ備えができておりません。それでも、そのような私に命令なさったので、私がそのようにできる条件、そのようにできる基盤を備え、この民族の身代わりをいたします。これが復帰摂理ではないでしょうか」と言えなければなりません。

16

祈るときは、最初に、国のために祈らなければなりません。その次に、世界のために祈り、その次に、霊界にいる天使と、霊界にいる先祖のために祈り、その次に、神様の解放のために祈らなければなりません。自分がすべきことが何かも分からず、世の中の運勢がどのように回っているかも知らないで、「おお、主よ。私を天国に送ってください!」と祈るようにはなっていないのです。今日、私たちがかわいそうなイエス様を解放してさしあげるためには、歴史から、「かわいそうだ」という証言を得なければなりません。歴史の先祖たちから、「お前一人だけは、私たちの子孫として堂々としている。全体の歴史をお前が起こしたのだな」という証言を得なければなりません。また、そこに加えて、「時代的な使命と民族的な使命に責任をもち、息子の使命と父母の使命、孝子と忠臣の使命を果たした」という証言を得なければならないのです。

17

「自分が、あなたの願う息子になれないのなら、息子(メシヤ)を生かすための僕の道だけでも築きます。石のかけらでも持ってきて置くか、板でも一つ持ってきて置き、息子(メシヤ)が渡ってこられる飛び石だけでもつくります」というのが、神様の同情を受けられる祈りです。「私の息子、娘よ!」というのは、同情を受けられる祈りではありません。順番に、世界の聖人を祝福してあげてから、自分の祈りをするようになっているのであって、いくらそのような祈りをしてみたところで、役に立たないというのです。祈る順番を知らなければなりません。自分の利益のために宗教を信じる人々、福を受けるために信じる人々は、福を受けたならば神様を信じなくなるというのです。福を受けるのが目的だからです。少し豊かに暮らすようになれば、離れていくのです。

18

皆さんが恩恵を受けて霊界に接してみれば、祈りの題名が自然に出てきます。自分が祈ったことを統計で出してみれば、祈りの方法と内容が公式的に発展していくことが分かります。堕落した人間が最初に祈るとき、世界的な問題について祈ろうとすれば、ばたんとのけぞって倒れるので、初めは、一番近い人、すなわち父母と愛する息子、娘と夫を救ってくださいと祈るのです。その時期が過ぎて発展すれば、祈りの内容が変わります。それでは、神様のみ旨を知っている人たちは、何のために祈るのでしょうか。自分の家族のためにせず、世界のために祈るのです。また自分が置かれている立場がどのような立場であり、これから神様の願う立場はどのような立場であるかを知って、神様が願うその立場で、蕩減路程を開拓しようというのです。このような人が知恵深い人です。

19

祈るときは、対象を定めて祈らなければなりません。何となく祈るよりも、ある対象を念頭において祈ることが必要です。そのようにすれば、主体と対象になり、授受作用の法則が成立するのです。主体と対象が授け受けする立場で授受作用をするので、皆さんが祈り、精誠を尽くさなければなりません。精誠を尽くすに当たっては、幾千年の心情を越えて、懇切に精誠を尽くさなければなりません。幾千年の心情を中心として内外が一つになり、神様を呼び求めるその場は神聖な場であり、素晴らしい場です。そのようになれば、実体的に感じられるのです。その場で呼び求める「父よ!」という一言の言葉には、最高の美しさが宿っているのです。

20

祈りの基準が、きのうもきょうも同じ人がいますが、そのような人は信仰生活をする人ではありません。毎日のように同じものを見るのですが、それが毎日、異なるというとき、その人は神秘的な信仰世界に入るのです。それでこそ、偉大な信仰世界に入っていって、新しい世界を発見できます。毎日、同じことを続けても、それが良くて味わいがあれば、続ける中でそれを吸収しながら大きくなるのです。

敬礼式と家庭盟誓

21

真の父母様に侍り、餅を分けて食べるのは、私たちが霊的に神様と一つになるということです。一つの体になるのです。このような餅を食べるのは、二つに分かれている人々の体と心を一つにし、父母が一つになり、家庭が一つになり、一族と世界が一つになれるように影響を及ぼすことを意味します。統一教会の祝福家庭は、毎週、敬礼式をしなければなりません。敬礼式をする日は聖日ですが、聖日にはホーリーフードを食べます。それは堕落することにより、アダム家庭で神様に侍って神聖なホーリーフードを分けてあげられなかった恨を解いてあげるものです。それを解くために、そのような敬礼式とともに、祝い願う心をもって、そのような式をしているのです。

22

統一教会の教会員は、アダム家庭から、氏族、民族、国家、世界、地上天国世界になるときまで、神様に侍って共に一つになる式として、敬礼式を世界に拡張しています。そのため、一週間、聖餐と向き合える時間を、何よりも希望の時間として待ち望まなければなりません。この時間が神様に侍る時間であり、神様と直接関係を結ぶ時間であることを知り、世界の祝福家庭が重要視し、伝統として守っていかなければなりません。

23

敬礼式は、先生と一緒に始めました。皆さんが先生と共に、毎日のように敬礼式をしているという事実は驚くべきことです。祝福家庭は、真の父母もこのような式典を重要視し、自分たちもこのような式典を重要視することを見せてあげながら、自分の息子、娘の前にこの伝統を引き継いであげなければなりません。この敬礼式を通した心情的絆は、家庭の父母と子女を中心として、平面的に、横的に形成されるとともに、縦的に真の父母と関係を結べるようにし、四位基台、三代が一つになれる関係を結ぶ重要な時間だということを、皆さんが自分の子孫に教えてあげなければなりません。

24

皆さんは、自分の家庭で日曜日に敬礼式をしなければなりません。これは、祝福を受けた人々の宣言式です。このような家庭は、サタンが侵犯できません。そのため、「私の誓い」を唱えるのです。神様を中心とした一つの主権を誇り、一つの民を誇り、一つの国土を誇り、一つの言語と文化を誇り、一つの父母を中心とした血族であることを誇り、一つの心情文化世界を成し遂げる役軍(担い手)であることを誇るのです。それは、サタン世界と関連がないという宣布です。一週間、ありとあらゆることをしたすべてを清算してくれる、一つの宣布式です。

25

父母が子女の手を握って座り、一緒に祈るのは、どれほど美しいでしょうか。私たちの家庭で朝に敬拝をするのは、真の父母に出会う時間、神様に出会う時間だという伝統を立てていかなければなりません。真の父母に会いに、神様に会いにいこうというのです。

26

敬拝するとき、自分が一人で敬拝しているとしても、一人でしていると思ってはいけません。男性が敬拝するときは、自分の妻と二人で一緒に立って敬拝していると思い、女性が敬拝するときは、夫と一緒に敬拝すると思いなさいというのです。そのような立場に立つことにより、男性と女牲が一つになったことを表示するのです。それは、祝福を受けた人は、完全に一つにならなければならないことを意味します。

27

すべての家庭で真の父母様の写真を掲げ、四位基台が一緒に敬拝しなければなりません。三代が敬拝しなければなりません。四位基台は三代です。祖父、祖母、母、父、子女たちまで、三代が敬拝しなければなりません。真の父母の名前と共に四位基台圏を成し遂げて敬拝する所は、堕落圏ではありません。神様が直接主管するので、解放圏が広がることにより、天上世界に行ったすべての霊人が地上に来て、天使長と共にアダム家庭を保護するように、保護できる時代に入ったというのです。

28

聖日の敬礼式をするのですが、誰に敬拝するのでしょうか。先生にするのであり、自分の家庭にするのです。天の父母と真の父母を、王として侍るためのものです。王権を相続するためのものです。いくら忙しいとしても、それ以上に貴いものがどこにありますか。子女は父母に敬拝し、その父母は互いに敬拝するのです。孝の道を教えてあげる父母にならなければなりません。ですから、手本になれる人生を生きる運動なのです。

29

皆さんが敬拝するときは、地上の私たちだけが敬拝するのではありません。必ず天上世界を中心として、天の国を中心として、神様を中心として、祝福家庭と天使世界が完全に一つになって敬拝し、互いの心が懇切な思いになれば、霊界に行っている皆さんの父母、もしくは友が、引っ張られてきます。七十二代を超えて、百二十代までも引っ張られるのです。皆さんが国家基準をいまだ成し遂げていないためにできないのであって、国家基準を成し遂げれば可能なことなのです。

30

「家庭盟誓」は、歴史になかったものです。「家庭盟誓」が出てくることにより、地上世界のサタン家庭は、これから行く所がなくなります。「家庭盟誓」が出てきたというのは、失った第二次世界大戦の勝利の基盤を、先生が四十年を通して四千年歴史を蕩減し、復帰された基準が立つことによって、天の国が地上に設定されることを意味します。第一が、「私たちの家庭は真の愛を中心として」です。すべて、その表題が出てきます。真の愛は、神様の愛を意味します。神様の愛と真の父母の愛を中心として、真の生命と真の血統が連結されたことを意味するのです。

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今までは「私の誓い」を唱えましたが、これからは「家庭盟誓」を唱えるのです。歴史時代に、「家庭盟誓」というものはありませんでした。これは、驚くべき事実です。四十年間の世界蕩減路程を終え、全世界が先生を中心として動ける時代に入ったので、これが可能なのです。第二次世界大戦直後にできた統一的世界であるキリスト教文化圏が破綻したので、先生を中心として、条件的ではありますが、世界的にこのすべての覇権的基盤の上に乗せたのです。

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「家庭盟誓」は、歴史上に初めて出てきた言葉です。男性と女性が家庭を失ってしまったので、「家庭盟誓」を設定して、神様と人類がこの地上に堕落していない本然の基準で歓迎を受けられる家庭の母体を再び立てなければ、神様が喜び、神様がこの地に来て暮らせる地上天国と天上天国を成し遂げることができません。そのため、不可避的にこのような「家庭盟誓」を立てたのです。

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家庭を中心として、家庭の核をつくるためのものが「家庭盟誓」です。「家庭盟誓」をつくって何をしようというのでしょうか。骨になる天の父母を、家庭の中心として迎えようというのです。真の愛を探し出して愛することにより、神様が私たちの家庭に訪ねてくるというのです。「私」の体と心が一つになり、体と心が一つになった夫婦が一つになれば、その中に神様が訪ねてくるのです。皆さんの体と心が闘えば、永遠に神様は訪ねてきません。真の愛はあり得ないのです。

牧会者の基本姿勢

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牧会者は、その地方の祭司長です。ですから、その地方のため、眠ることができなくても福を祈ってあげなければなりません。多くの人々を生かしてあげるために祭物を扱わなければならないので、精誠を尽くす苦労をしなければなりません。祭祀は、牧会者と神様が一つになって捧げてこそ報いがあります。教会員が祭物ではなく、牧会者が祭物です。これからは知識的な指導ではなく、組織的な指導をしなければなりません。教会員は肉で、牧会者は骨です。骨は現れないのです。肉がよく包んであげなければなりません。

35

公的な仕事のために、疲れも知らずに走り、いつ寝たのかも分からずにばたんと伸びて寝てしまったとしても、朝起きると、どれほど体がすっきりしているか分かりません。そのようなことを見れば、「いやあ、天の道は、このように行くのが原則なのだなあ!」と思うのです。しかし、「ああ、きのうは三時間しか寝られなかったから、きょうは五時間、六時間は寝ないといけないのに」と思いながら眠りについて起きれば、腰が痛く、全身がとても重たいのです。ですから、そのようなことを考えてはいけないというのです。

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先生は、精誠を捧げる人に対しては、何もできません。それで、今まで教会を指導してきながら、二人いれば、その二人のうちどちらが立派かという問題を解決しなければならないとき、顔が立派であるかを見るのではなく、心がどこに向かっているかを見ました。すなわち、私的なのか、もしくは公的なのかということを見たのです。皆さんがこのような原則を中心として公的な道を歩むようになれば、絶対に滅びません。そのため、皆さんは、物を公的に管理し、人に公的に接し、天に公的に侍りなさいというのです。

37

朝、最初の一歩を踏み出すときも、公的な一歩なのか、私的な一歩なのか、反省しなければなりません。そして、一日の仕事を終えて床に就くとき、公的な一日を送ったのか、私的な一日を送ったのか、反省しなければなりません。もしくは一年を中心として、公的な生活をしたのか、私的な生活をしたのか、一生を中心として公的だったのか、私的だったのか、反省しなければなりません。このようなことを中心として、皆さんの生死を決する秤の竿が上がったり下がったりするのです。このような原則を皆さんが知ってこそ、公的な路程において行くべき道が決定されるのです。

38

一旦責任を担えば、その次は戦闘であり闘争です。相手が折れるか、私が折れるかという闘いをしなければなりません。その闘いで、皆さんは、皆さんの一代において、少なくとも反対の立場にいる三人以上を、自然屈伏させられる土台を固めなければなりません。神様には手段や方法だけでは絶対に通じません。また、み旨の前において、一生受ける立場にいてもいけません。み旨の前では、ただ与える立場に立たなければなりません。

39

指導者になるときは、本当に病気の人を治療する医者の立場に立たなければなりません。病気になった人の心霊状態が低下するときは、夜も昼も時間を問わず、夜を徹してその人と共に涙を流しながら、その人を治療してあげるために努力しなければなりません。それが霊的指導者です。皆さんは、生命を生かしてあげるために、何日徹夜してみましたか。生命を救うために、どれほど忙しく歩んでみましたか。そのようなことが、今後、霊界に行けば表彰の対象になり、人格的な基準になるでしょう。

40

食口が離れていったからといって、落胆してはいけません。本当に不思議なことに、食口が一人離れていけば、その人と性格も似て、話し方も似て、歩き方までも似ている人が入ってくるというのです。どのような面で見ても、不思議なほどに離れていったその人とあまりにも似た人でありながら、すべての面において、はるかに優れた人が入ってくるというのです。そのようなことを見るとき、精誠を尽くしたものは失わないというのです。これは、間違いなく事実です。私たちは、誰に会うとしても、会ってそれで終わってはいけません。特に天を中心として会った人であれば、絶対にその縁を忘れてしまってはいけません。その人が教会に通っていたのに来なくなったといって、切ってしまったり、呪ったりしてはいけないというのです。その人が離れていったとしても、その人と結んだ縁だけは、捨ててはいけないのです。

41

皆さんが話をし、教えるすべての言葉に、神様の心情を感じなければなりません。言葉の後ろに立つのではなく、言葉の前に、神様の心情が先立たなければなりません。そのため、いつでも謙遜でなければなりません。聖日に説教をするときも、女性がお産の苦痛を感じるのと同じ立場で説教をしなければなりません。精神をそこに集中しなければなりません。説教の檀上に立つときは、妊産婦が分娩室に入っていく感覚を覚えなければならないのです。その境地に行けば、準備が必要ありません。説教の内容が問題ではなく、話すのが問題ではありません。そのような心情になっているかが問題です。

42

説教をする時間は、礼拝参加者が天国に入れるかどうかの分岐点になります。「今まで統一教会について気になっていたが、一度行ってみよう!」と言いながら教会に来たのに、「あの説教は何だ?」と思わせてしまえば、その一人の首を完全に切ることになるのです。公判廷に立った判事が宣告するその時間より、もっと深刻な場が説教をする場です。数十人、数百人の人が、そのような運命の場に立つという事実を知らなければなりません。責任者がその責任を疎かにして、下にいる人が自分を嫌うようになってはいけません。そのような人がいないように努力しなければなりません。それで、責任者は大変だというのです。自分の正体を人々の前に現すその場は、この上なく恐ろしく、怖い立場なのです。