宗教は、世界的なものです。人類の基盤の上に平和の土台をつくって、人類が共に暮らそうというのです。ですから、宗教は世界平和を指向します。世界平和は、人間だけを中心とした平和ではありません。神様が喜ぶことができなければなりません。神様が望む平和の基準と人間が望む平和の基準が、一致する立場でなければなりません。何を中心として一致するのでしょうか。世界の人を中心としたものではありません。神様を中心としたものでもありません。神様も統治したいと願い、人も統治されたいと思う一つの道がありますが、それが愛の道です。今まで神様の恨は、真の愛による支配を受け入れられなかったことです。真の王として末端の民がそのような真の愛を受け入れたとすれば、末端の民を必要とする神様です。その愛は、通過できないものがありません。隔たりがありません。光と闇、前と後、左右は、すべて分かれていますが、愛はこれを、すべて通過することができるのです。
第1節 宗教による世界平和
今日、私たちが見る宗教の歴史は、博愛主義が中心の思潮です。宗教は、広い意味で神側を中心とした主流なので、愛を語り、慈悲を語り、公義を語り、善を語る立場にあります。ですから、それは、自己の野望を拡張しようとするのではなく、公的な利益に符合する自分のすべての素性を悪の世界に投入して、悪の世界を天の側に移そうというものです。それは、悪を中心として争うのではなく、善を中心として和平を企図し、平和を企図し、和解の雰囲気を造成するためにするのです。この悪の世界に対峙していくために、結局、宗教世界は、新たな投入をしなければなりません。新しい何かを投入することによって、環境が自分によって影響を受けるようにしなければなりません。「投入しなさい」と言うのではなく、お互いが投入していくところにおいてのみ、和睦と和合と平和をもたらすことができます。これが、善の歴史性を備えた宗教が歩んできた背後にある、主流思想なのです。
宗教の目標は平和世界の建設
神様は、平和の根拠地を、どこに求められるのでしょうか。アメリカでもなく、ロシアでもなく、ほかのどの国でもありません。そこは、ほかならぬ人間の本心です。それは、世の中のあらゆるものをすべて放り投げ、本心の基準に帰りなさいということです。自らの中に入っていきなさいということです。それでイエス様は、「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ一七・二一)と言ったのです。ですから、私たちの心の中にある善を解放してあげなければ、理想世界や幸福の世界は不可能なのです。宗教は、このような歴史的基準を決定するのです。神様は、人々を平和の道に導かなければなりません。歴史過程に、人間を平和の道に導こうとしていた痕跡が残っていなければなりません。そのような活動をしたというその痕跡が、正に宗教なのです。
真の平和は、「私」から始まります。私のどこから始まるのでしょうか。私個人の心ではなく、神様と一つになった心から始まるのです。そうして、体を調整しなければなりません。ですから、人間は、あくまでも原因的な存在ではなく、結果的な存在なのです。したがって、根本である神様と完全に一つにならなければなりません。しかし、皆さんは、神様と一つになることができていません。原因と結果は一つであって、反対になることはあり得ません。そのような観点から、皆さんは、結果から一つになるのではなく、原因から一つにならなければなりません。それを接触させるための、歴史的使命を果たすものが宗教だというのです。
神様の目的は世界平和です。それは、仏教の釈迦牟尼に尋ねても、キリスト教のイエス様に尋ねても、イスラームのムハンマドに尋ねても、すべて同じなのです。宗教の目的は平和です。一つの世界です。理想的世界なのです。
超教派運動による世界平和
み旨から見る時、イスラエルとユダヤ教がイエス様と向き合うような基準、すなわちイエス様の時代のような環境が、今、私たちの前に造成されています。このような時点に置かれているので、私たちとしては、超教派運動を展開せざるを得ないのです。このような信念をもって両面作戦をせざるを得ません。私たちが民族復帰のために忠誠を尽くしたように、超教派運動にも精誠を尽くさなければなりません。今まで、私たちは、このような基準を立ててきたのです。
神様のみ旨とは、世界を救援することです。世界を救援するためには、超民族主義、超教派主義の過程を通さなければなりません。アメリカの建国精神を見れば、新教を中心として超民族的に国家が結成されました。超国家的な結成をしたのです。しかし、超教派主義的な基準は立てることができませんでした。超国家主義になっても、超教派主義にはならないというのです。超教派主義的基準さえつくっておけば、自動的に超国家的になり、超世界主義になるのです。
先生は、電気で言えば、配電所のような役割をしています。発電所が故障しない限り、電灯の明かりを照らすことができます。すべての人々の家に明かりをつけてあげるのです。明かりをつけてあげれば、喜ぶようになっています。このような原則に従って、今、一つの世界をつくろうというのです。一つの世界をつくるのに、漠然としていてはいけません。具体的な内容を提示しようとすれば、宗教連合運動をせざるを得ないのです。
終わりの日が近ければ近いほど、宗教連合運動に連結されていきます。地上にいる人々は、宗教の背後にある神様の歴史を知りませんが、宗教圏は、神様が中心となって一つの世界に向かって前進する過程に協助できる体制を形成せざるを得ないので、宗教連合という世界的運動が現れたのです。これに反してサタンは、宗教と反対の立場を取って一つの体制を形成しました。悪の神を中心として形成した体制が、宗教に反対する理念として広がってきたのです。神様を否定しながら物質を絶対視する唯物主義を主張し、人本主義を主張するのです。神様と関係のない立場で、一つの世界形態を備えたのです。
先生は、神様の愛を実践することに全生涯を捧げました。神様の真の息子の立場で、皆さんも通過しなければならないのと同様な路程を歩んできました。私たちがそこで完全に成功できるならば、解決できない問題はありません。それで、「世界平和宗教連合」を創設したのです。この機構を創設することによって、宗教が神様を中心とした理想家庭と社会、一つの世界を成し遂げることに協力できるようになったのです。
分かれた心と体が、世界的に拡張されたものが政治圏と宗教圏です。政治圏と宗教圏が闘っていきます。体的な政治圏が、いつも心的な宗教圏を蹴飛ばしてきたというのです。それが国連にまで広がりました。これに対峙するために「世界平和宗教連合」を創設したのです。また、「世界平和連合」をつくったのです。サタン世界の政治圏が言うことを聞かなければ、アベル的政治圏をつくって消化していかなければなりません。政治圏と宗教圏を一体化させるためのものが、この「世界平和連合」と「世界平和宗教連合」なのです。
心と体が分かれて二つの世界が争う姿になったので、今、心の世界を象徴する宗教界を「世界平和宗教連合」を中心として統一しなければならず、体の世界を象徴するこの世界で争っている国々を収拾しなければならないので、「世界平和連合」を創設するのです。それらは既に結成されていますが、そこで共同会議をして、平和世界建設の任務を中心として出動命令をするようになる時、宗教者たちが先頭に立たなければなりません。その時は、統一教会の人々とあらゆる教団の継承者たちが、世界の平和のために導いていかなければなりません。心が体を動かすのと同じようなことをしなければ、平和の世界は来ないのです。
歴史路程において、宗教を迫害したのは政治です。政治は体と同じです。体を中心とした活動舞台は、神様を認めません。自分から無神論と有神論が始まったのです。有神論圏内には本心があり、無神論圏内には体があって、この二つが闘うのです。宗教を糾合するためには、宗教が互いに争ってはいけません。神様には闘争の概念がありません。平和の概念だけです。本来、神様を求めていく理論は、平和の概念でなければならないのであって、闘争の概念では駄目です。闘争するすべての教団は消えてしまわなければなりません。人類が残しておきません。すべて追い払ってしまうのです。