先生は、朝の敬礼時間に少しだけ遅れても、その日は一日中、顔を上げて歩くことができません。先生はそのような生活をしています。その日一日、その一週間ずっと、心が落ち着かないのです。そのときは、その次の週に早く起きて十倍、百倍の精誠を捧げ、先週の過ちを蕩減するのです。このように条件を立ててこそ、心が平安です。先生はこのように生きています。ですから、どれほどかわいそうでしょうか。先生が皆さんに話をするときの姿は立派に見えるかもしれませんが、そのために何週間、もしくは何ヵ月間、否応なく拘束される生活をしているのです。これが私的な生活ですか、公的な生活ですか。公的な生活だというのです。この宗教指導者の立場がどれだけ大変な立場か、皆さんは分かりません。
第2節 教会長の公的生活
先生が生きているときは、先生の歴史を書きませんが、先生が死んだのちには先生の歴史を書くでしょう。ですから、原理に公認されないことをしたならば、大変なことになるのです。なぜこのように生きたのかということを裏づけられる原理的内容があるかどうかが問題です。これがもしも間違えば、今まで成し遂げられたものをすべて失うことになるでしょう。ですから、責任者は難しいというのです。責任者は、いくら疲れても、先に横になるのではありません。皆を寝かせてから横にならなければなりません。祈りを、するときも最後までしなければならず、信仰生活をするにおいても、食べられず、着られず、貧しく暮らしながら精誠を尽くす立場が責任者の位置です。そのようにすれば、「滅びよ」と言っても滅ぶことができないのです。
公義の道
皆さんは、箸を持って御飯を食べるときも、この食べることが公的か、私的かを考えなければなりません。大韓民国の三千万の民族のために御飯を食べ、世界人類のために御飯を食べなければなりません。大韓民国のための世界をつくろうとすれば、大韓民国は滅びます。アメリカのための世界をつくろうとすれば、アメリカは滅びます。世界のためのアメリカになってこそ、栄えるのです。
今日の堕落した世の中で交わす直接的な関係の愛と、神様を中心とした間接的な関係の愛のうち、どちらが高くなければなりませんか。世の中を中心とした直接的愛より、神様を中心とする間接的な愛によって立てられた私たちの基準が低くてはいけません。もし低いというときは、高めなければならないのです。ですから、このような関係が広がるようになれば、誰もがこの場を慕わざるを得ず、この関係を尊重せざるを得ないのです。それでは、ここで私たちは何をすべきであり、何を学ぶべきでしょうか。人類を愛する方法を学ばなければなりません。今日、私たちは、この世的に見れば天との縁もなく、関係を結んでいないかのように見えるかもしれませんが、神様を中心として絆が結ばれた私たちとしては、神様が人類を愛したいと思うその愛を実現させなければならないのです。
皆さん自身が、食口という名のもとで互いを愛するその愛が、民族を愛する以上の愛にならなければならず、さらには世界を愛する以上の愛にならなければなりません。世界的な愛の土台と環境を築く立場で愛さなければならないという意味です。このような点で、皆さんが一食口の生命をどれほど尊重するかが重要です。食口一人をどれほど貴く思うかが問題です。堕落した世の中でも、困難なことがあるときは、自分のすべてのものを捧げて協助するのに、私たちがそれ以上の関係に発展しないとすれば、今後、堕落した世の中に吸収されてしまうでしょう。神様が何よりも願う人間との関係を、広げる足場になれないというのです。
教会の責任者は、はっきりとした思想が立っていなければなりません。そうでなければ、全体に及ぼす影響が大きいのです。企業体や教会に責任をもった人々は、いつでも公的な心、すなわち愛の心をもって、神様が立てた関係の中で愛することができなければなりません。公的法度に従って、自分に尽くすように食口のために尽くさなければなりません。また責任者の立場で、自分が自らを認める以上に、自分に属したすべての人を愛さなければなりません。その基準が今日、サタン世界のどのような関係よりも高くなければならないのです。そのようにならなければ、私たちが願う天国は成し遂げられません。
教会に三回だけでも来なくなれば問題が生じ始めます。一週間来ないで、二週間来ないで、三週問続けて来なければ、よそよそしくなってしまいます。心の中の思いを言えず、うそを言うようになります。このようなことが繰り返されれば、教会からだんだんと遠ざかり、そのうちに完全に離れていくのです。このように、伝道はしましたが、その後の収拾方法において欠如した活動体制を備えてきたため、多くの人を犠牲にしました。ですから、原理講義をして関係を結ぶことよりも、関係を結んだ人が実を結ぶようにするのが、私たちの責任です。
公的な責任者は、どのような立場に立つべきかという問題が重要です。天は最高の位置です。イエス様は、「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイ一〇・三七)と言いましたが、これはイエス様が最高の位置について語ったのです。このような最高の位置で愛そうとし、関係を結ぼうとするのが天です。それでは、皆さん自身が多くの人の前で神様を紹介しようと進み出るとき、どのようにしなければなりませんか。まず皆さんが人に接するとき、機嫌が悪くてはいけません。その人の身なりは特別立派なわけでもなく、特別ひどいわけでもなく、普通なのですが、不思議と「私の兄、姉のようだ」と感じるときがあり、その人が横に振り返るのを見れば、「どこかで見た人だ」という気持ちになるときが時々あるでしょう。このような人は、間違いなく縁のある人です。
皆さんが伝道をするとき、どれほど生命を重要視しながらしてみたか、ということを反省しなければなりません。医者には、自分がどこか痛くても、体の悪い人が訪問してくれば、その人のために治してあげなければならない責任があるのです。もし、その病気が「私」にしか治せないとすれば、そして手術をしなければならないのであれば、メスを執り、自分の痛みを忘れて、何時間でもその人のために自分の医術を投入するのが、医者の道理です。そのような医者は、医者の中の真の医者だと言えます。もし、手術を終えるやいなやその医者が死んだとすれば、その医者は、医者として真の生涯を終えた人だと言えるのです。もしそのようにして病気が治った人がいるならば、その人は一生の間、その恩徳を忘れることができず、その事実を遺言にしてまで、自分の子孫に残そうとするでしょう。
時代の責任者は、自分が優れていると考えてはいけません。多くの先祖の功績と犠牲の代価によって、その場にいるという事実を知らなければなりません。自分が優れていて、自分が堂々としているからと言って多くの人のものを手にするのではなく、より大衆のために歩むことができる主権者の姿勢をもたなければなりません。党を中心とした国家ではなく、国家を中心とした党でなければなりません。統一教会は、統一教会を中心とするのではなく、国家を救うための統一教会なのです。世界を自分のものにするための統一教会ではなく、世界を生かすための統一教会にならなければなりません。このようになるときは、いつも天が共にあるのです。ですから、責任者たちは、この伝統を理解して仕事をしなければなりません。責任者になった人たちは、自分が優れていてこの位置に上がってきたと考えてはいけないというのです。
人間が生きる世界には、法がなければなりません。法を中心としてすべてのものが左右に分かれるのです。それと同様に、神様を中心としたこの宇宙は、何の法を中心として分かれるのでしょうか。公義の法です。公的な法です。公義の法を中心として、善か悪かという問題が分かれます。一つの家庭を中心として見てみれば、家庭にも法があります。その家庭の公的な基準を中心として、公と私を分別していくのです。家庭においてもやはり、家庭の公義の法、公的な法を中心として、良いか、悪いかという問題をえり分けます。父母は、その家庭のすべての公的な法を司る責任者です。その家庭が進むべきその法に背くことを行うのではなく、背いたすべてのものを処理できる責任を背負っているのです。そのため父母が誤れば、その家庭は全体が引っ掛かっていきます。社会においても、会社なら会社、団体なら団体でも同じことです。そこには、必ず法があるのですが、その責任者を中心として公的か、私的か、もしくは善か、悪かという問題が連結されていくのです。
責任者は、どこまでも公的な責任、その部署に対する全体の責任をもち、法を立てて進むことができ、法の代表となって、法の標準に合わせて実践できる主体となり、その団体の人々が善の道に行くか、悪の道に行くかということを選別してあげなければなりません。国も同じです。国の主権者がいれば、その主権者は、その国の公的な法を中心として、法のすべての責任をもった主体者として、行動面やすべての面において内外に完全に備えなければなりません。それで、法で治めることのできる責任者の立場で、公義の法度を立てるために責任を果たし、任せられた責任を遂行できるように国民全体の前に影響を及ぼせる立場に立たなければなりません。そのようにしなければ、公的な法を中心として見るとき、その主権者は国家全体を代表できる主権者になれないというのです。
世界は、必ず公法に従い、中心者と共に、その中心者の公的な理念と共に、一つになれる道に従っています。単に人間世界と宇宙だけでなく、天の国もやはり、同じ法に従っていくというのです。そのため、神様御自身がいくら公的な立場に立っているとしても、思いどおりにはできません。法を立てたのであれば、その法を中心として、その法の目的を達成できる公的な義務と責任を果たすことによって、自分の位置が強固になるのです。公的なそのすべての法を無視して一体にならない立場では、神様の権限を行使できません。それは、家庭の法でも、社会の法でも、国家の法でも同じです。
精誠を捧げながら稼いだお金をどろぼうし、それを当然自分がもらうべきお金としてもらおうと考えれば、罰を受けるようになります。精誠を込めた物は、毒薬より恐ろしいのです。おなかをすかせ、やせ細りながら涙を流して集めた物は、それ以上の心をもって接しなければ、その物に引っ掛かってしまうのです。子孫が罰を受けるようになります。天のみ前に精誠を捧げたお金を消化できる善の基準になっていないので、それが病気になるのです。子孫を苦しめるというのです。それで、公金が貴いのです。世界的にそうです。復興師の息子、娘や、有名になった宗教指導者の子孫が悪くなるのは、そのような負債を負ったからです。先生はそれを知っています。ですから、献金を持ってくれば、先生の手で受け取りません。先生には分からないようにして、そのお金は公的な所に回して使いなさいというのです。そのお金をもらわなくても生きていけます。その代わり、受け取るときは神様の名で受け取るのです。「このお金は公金として使います」と言って受け取ります。私的には一銭も手をつけないのです。
公的な人は恐ろしいのです。いい加減に生きられません。話をするにしても一般の牧会者が一時間するなら、先生は十分でも長くしなければなりません。山の頂上に登るとしても、一歩でも多く動いてこそ、条件に引っ掛からないのです。ですから、かわいそうな生活をしました。安心して暮らす生活ができないのです。そのように先生が注意して生きた分だけ、天も注意深く先生を扱い、すべての天運が注意深く先生を扱うのです。
教会の責任者は、目から涙が乾いてはいけません。世の中で本当にかわいそうな人が教会の責任者です。いつも悲しみを抱いて歩く人が教会の責任者です。神様の心情を思い、復帰摂理の時を思えば、神様がかわいそうだと感じられるときが多いのです。どのようなことをして復帰の道を行かねばならないかと考え、先生がこうだから、このような道を行かざるを得ないと考えるとき、言葉を失い、喉が詰まり、胸が張り裂ける悲しみを感じるときが多いのです。卒倒するほどの感覚が来るときも多くあります。このような心情がなければ、神様のための、神様の仕事をする人にはなれないのです。先生は、村のどこかに行く途中で悪いものを目にすれば、「今は私がそのまま通り過ぎるが、今度また会おう。私の手できれいに片づけてしまおう」と考える人です。
祈りをたくさんしなければなりません。祈りをしなければ、神様の同情を得ることができません。神様の助けを受けられないというのです。自分を中心としては、同情を得られる背景がないからです。それで悲しいのです。神様が同情できる人になれば、寂しくありません。絶対に寂しくありません。冷たい部屋に横たわっても、真冬の氷の塊のような部屋に横たわっても、自分がかわいそうではないのです。そのため、イエス様も祈りをたくさんしたのではないでしょうか。祈る時間がなければ、歩き回りながら祈りなさいというのです。祈る代わりに伝道しなさいというのです。自分の一日の祈りに代えて、伝道しなさいというのです。
指導者とは、与える人です。受ける人ではありません。与えるのですが、同じものを与えてはいけません。新しいものを与えなければなりません。説教をしようとすれば、難しいでしょう。原理のみ言はそのまますればいいのですが、説教は大変なのです。それは、同じものを与えてはいけないからです。父母が愛する子女に、あれこれと良い物を選んで食べさせなければならないのと同じように、同じものを与えてはいけません。与えるものがなければ、神様からもらわなければなりません。神様からもらったものを、食口に食べさせなければならないのです。神様と一緒に、相談もしなければなりません。
皆さんは、明らかに神様を代身です。自分が祈りながらも、何を祈るのかも分からないまま祈るときがあるのです。そのようなときは祈りながら、自分が祈る言葉に自分で感動するのです。そのような境地で祈れば、聴衆はすべて神様のみ前に引きつけられ、「神様が生命の原動力であり、本体だ」ということを体得するのです。そのような体験をするとき、神様が絶対に必要だということを感じるようになります。このような事情を連結させて、聴衆を魅了させるためには、祈りが絶対に必要です。
責任をもった人は、驕慢になってはいけません。責任者は父母にならなければなりません。神様の代身者にならなければなりません。夜も昼も、誰よりも努力し、涙ぐむ心情を抱いて、彼らの霊的、肉的、内外のすべての道を解決してあげられる責任を担わなければなりません。相談相手はもちろんのこと、心情の主体になって、彼らを父母以上に愛することのできる運動を提示しなければ、責任者としての役割を果たしたと見ることはできません。
より大きなもののために生きる道
皆さんは、社会に忠誠を尽くさなければならず、教会に忠誠を尽くさなければならず、家庭に忠誠を尽くさなければなりません。それでは、教会は何をする所でしょうか。人格を形成し、人格を育てる所です。堕落したので教会が必要なのです。家庭と社会で終わるのではありません。人格を復帰するときには、ただそのままではできません。大学を出て博士学位をもらったからといって、それで人格が復帰されるのではありません。ですから、教会が必要なのです。先生を中心として新しい父母を求め、新しい子女となって家庭から新たに収拾していきながら、新しい世界に向かっていかなければなりません。行くに当たって、足場となるのが教会です。教会を足場としなければ、行けないのです。新しい家庭も教会を通して出てくるのであり、新しい社会も教会を通して出てくるのです。
人が正しいというとき、何を見て正しいというのでしょうか。人心が天心に根を置いているとき、正しいというのです。そのような位置に立たなければなりません。そのため教会を通し、人心が中心を決定する場であらゆる精誠を尽くさなければなりません。ここには、自分のすべての誠心誠意を尽くさなければなりません。家庭よりも、学校よりも、自分の出世のためよりも、精誠をもっと捧げなければならないのです。それで、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ二二・三七)と言ったのです。神様を愛するのですが、精誠を尽くし、思いを尽くし、心を尽くす立場で愛しなさいというのです。
教会がある目的は、国を救うためです。しかし、キリスト教はこれを知らずにいます。キリスト教では、「教会がある目的は天国に行くためだ」と言います。それも、自分個人が中心です。それで結局、アメリカのような個人主義の国をつくり上げたのです。このような世の中を開拓しようというのが統一教会です。統一教会の教会員が伝道するのは、統一教会を発展させるためではありません。国を発展させるためです。国の中にとどまっている宗教ではいけません。イスラエルの国を救うことのできる主導的な役割を失ったので、ユダヤ教が衰退したのです。国のために生きようというのが、統一教会の方針です。
教会が行くべき目的は、神様の国を探し立てることです。教会を探し立てるのが目的ではなく、神様の本来の創造理想は、国を中心として世界を一つの世界にすることなので、教会が行くべき目的地は、その国を探し出すことです。そうだとすれば、国を探し出すために、国を探すにおいての必要条件は何でしょうか。カインとアベルが一つになることです。カインとアベルが一つにならなければ、国を探し出すことができません。
皆さんは、祝福家庭の使命が大きいことを知らなければなりません。自分の息子、娘に影響を及ぼせる父母になるべきです。これが第一の使命です。そのためには、教会生活や公的生活を徹底しなければならず、私的生活において模範にならなければなりません。これは、今後、子女がみ旨の道を歩めるよう教育するために、絶対的に必要です。
皆さんが今まで習慣的に生きてきた社会生活全体と、教会を中心として生活した全体を考えてみるとき、どちらが内的かというと、教会生活が内的です。皆さんは、どれほど内的生活の価値基準を立ててきたでしょうか。ある人は、み旨を中心として行くと言いながらも、「私がこのようにすることがみ旨になるだろう」と言いながら、自分勝手に考えます。そのようなところに神様はいらっしゃるでしょうか。先生は今まで、このみ旨を立ててきながら、どこに最も重点を置いたのでしょうか。神様が臨在する所、すなわち神様が臨在できる基点はどこか、そこを中心としてどのように一体となるか、どのように同化するか、そこに神様が公認できる一体性の基盤をどのように立てて内的に適応させるか、このようなことに最も重点を置いて今まで闘ってきたのです。
非信仰者は、家庭を中心として社会生活さえすればよいですが、信仰者は家庭を中心として社会生活だけでなく、教会生活も合わせてしなければなりません。非信仰者は、社会生活をしながら立身出世することを願います。しかし、信仰者は、社会生活をしながら立身出世することよりも、教会生活をもっと重要に思わなければなりません。それはカイン・アベルと同じ立場です。外的な社会生活はカイン的であり、内的な教会生活はアベル的です。そのため、外的な社会生活は内的生活の象徴体にならなければなりません。対象になるべきです。外的な社会生活の中心となるのは、内的な教会生活です。内的な教会生活において、神様から公認を受けられる立場に立てない人は、外的な社会生活において神様の代身者としての生活ができないのです。このように、内的な教会生活において神様から公認を受けることが問題です。
ある人を見れば、教会生活は良くできるのに、社会生活はできないという人がいます。また社会生活は良くできるのですが、教会生活ができないという人もいます。社会生活は良くできても教会生活ができない人は、実を結ぶための要因と、その内容がありません。教会生活は良くできるけれども社会生活ができない人と、社会生活は良くできるけれども教会生活ができない人のうち、どちらがより良いでしょうか。社会生活が良くできる人より、教会生活が良くできる人のほうが良いのです。結実の要因を備えた人は、あすの希望をもって動いていけますが、結実の要因を備えられていない人は、結実と関係を結ぶことができません。
神様に侍っていく人として精誠を捧げるのは、生命線と同じです。水源地に水道のパイプを連結するのと同じなので、いつでも精誠を尽くさなければなりません。その上、教会に責任をもっている教会長は、少なくとも男性食口三人と女性食口三人と一つにならなければなりません。教会長を合わせた七人がいつも一心になっていなければ、教会が発展しないのです。三人と一つになるにおいては、自分の心に合う三人と一つになるのではいけません。自分と心がよく合う人、自分と一番心が合わない人、中間の人を中心としていつも一つになり、教会長であれば教会長のために精誠を尽くすように導かなければなりません。
教会長がどこかに巡回に行くとき、教会長が一人で行く立場になってはいけません。教会長が巡回に行くために、背後で祈ってくれる人がいなければなりません。さらには、先生が巡回する間、先生がどこに行くということを知り、先生が行く所に対して祈り、精誠を尽くせばどのようになるでしょうか。そこには必ず神様が共にいてくださるのです。
責任者は、必ず基地がなければなりません。基地を中心として機動活動をしなければならないのですが、その基地が機動活動をする所よりも常に強くなければ、発展しません。木を見れば、幹から枝が伸びていきます。幹は枝よりも大きいのです。同じように、教会長がいる基地は、必ず機動活動をする現地よりも常に強力な力の母体にならなければなりません。そのような土台をもてなければ、発展できません。そのために教会長は、いつも三人の男性と三人の女性が教会のために一心同体となり、一つになって動けるようにすることが、教会の発展にこれ以上ない基盤となることを理解し、このような活動体制を強化していかなければなりません。そこで、一人が三人を中心として三位基台をつくっておけば、自動的に二十四人になるのです。三人が三位基台を造成すれば自然に十二人になり、男性三人の三位基台と女性三人の三位基台を合わせれば、自然に二十四人になるというのです。このように一つの主体を中心として、引き離そうにも引き離せない立場で束ねていかなければなりません。教会長自身がその人たちのためにどれほど精誠を尽くしてあげたかということが、その人たちが教会長のためにどれほど精誠を尽くしてくれるかを決定するのです。
真の指導者になろうとすれば、真の父母の心情をもち、自分が責任をもった舞台で内外の作戦を立て、その舞台を内外の作戦によって消化していかなければなりません。そのためには、様々な材料を収拾して研究し、他の人よりも眠らずにもっと努力しなければなりません。その村の人々にどのような刺激を与え、その人々にプラスの要件をどのように残してあげるかによって、その村が引っ張られてくるか、引っ張られてこないかということが決定します。世話になるようでは、喜ぶ人はいません。先生もうれしくありません。その次に、内外に父母の責任をもった教会長、指導者はどのような指導者であり、責任をどのようにして果たすかということが問題です。またその次には、神様と関係をどのように結ぶかということが問題です。
精誠を捧げなければなりません。指導者として一日中、祈るためには、神様を慕わなければなりません。人を慕うことよりも、神様をもっと慕わなければなりません。欽慕と思慕の心情がいつも消えてはいけません。会いたいと思い、何か分からないけれどももどかしく、おなかをすかせた子女がお乳を飲みたいと思う気持ちのように、何か分からないけれども慕わしくなければなりません。そのようなとき、人知れず自分が霊的な糧を供給されるのです。
皆さんが心から人を慕わなければ、その人も絶対に「私」を慕いません。ですから、教会長は、いつも早く起きて門を開けて人を待ち、四時を越えて鶏の鳴き声を聞かなければなりません。自分が起きるよりも先に鶏が鳴けば、「私より鶏が先に起きて鳴くのだなあ、この鶏め!」と、文句の一つでも言ってみなければなりません。そのようにしなければ、食口が早朝に起きることもなく、皆さんを先生として、または自分の指導者として慕うこともなく、祈ることもないというのです。動機がないのに、結果が現れるという道理はありません。
誠を尽くして建てた塔は崩れません。問題はここにあります。先生は、人をどれほど慕ったでしょうか。それは説明しても、皆さんは理解できないでしょう。皆さんはどれほど慕ってみましたか。神様の息子、娘をどれほど慕いましたか。希望の家庭をどれほど慕い、希望の民族をどれほど慕いましたか。希望の国家、希望の世界をどれほど慕いましたか。皆さんはそれを知りません。そのためには、お金が問題ではありません。乞食のまねをするとしても、人を慕えばそれが栄光だというのです。世の中の栄華を忘れて天の道を築こうというのは栄光です。それは素晴らしいことなのです。
おなかをすかせた人に御飯をあげるのは、人間の道理です。もらってきた御飯でも、分けて食べるのが人間の道理だというのです。米びつの中に米がありながら、「通りすがりのおなかをすかせた人が御飯をもらい食いする」と言って文句を言えば、その家は長く続かないのです。ただで御飯をたくさん食べさせるだけではいけません。ただで御飯を食べさせると同時に、公的な心でたくさん気を配ってあげなければなりません。それが福を受けるのです。ただで御飯をたくさん食べさせてあげると同時に、公的な心でたくさん気を配ってあげる人、そのような人は誰も嫌いません。
教会に新しく入ってきた人を、一番初めに迎えてあげる人が福を受けます。その人が、自ら信仰生活ができるようになるまで、侍ってあげながら完全に定着できるようにしてあげれば、その人と共に栄光の場に参与するのです。このような関係を十人以上と結んだ人が、もし死地に入っていくようになったときは、関連のあるその人々によって、解放される特権をもつのです。福はここから受けられるのです。そのため、訪ねてくる客をよくもてなしなさいというのです。
主体的に活動する道
皆さん自ら、皆さんの過去と現在を中心として、過去が主体になっているか、現在が主体になっているかという問題を見極めなければなりません。過去と現在が、主体と対象の関係にならないときは、未来を希望の主体としなければなりません。しかし、未来の希望を中心として、それを主体として迎えられない中途半端な立場であれば、どのようにすべきでしょうか。過去を主体にし、現在を対象とするしかありません。ですから、信仰生活において、過去に受けた恵みをそのまま流してしまってはならないのです。私たちは、信仰の道を歩みながら、我知らず気が緩む時期にぶつかります。そのようなときは、過去の信仰生活を一つの主体として、きょうの現実的環境をどのように収拾するかを考えなければなりません。過去の恵みある生活をしていたときに記録した日記を再び見たり、祈りの中で体験したものをもう一度回想したりしながら、そのときの心情をよみがえらせなければなりません。そうして、そのときにしたことを再び反復することによって、過去よりも刺激的な立場で決意しなければならないのです。
み旨の道を歩むときに、教会全体を代表した立場にいる生体、真理的な側面の主体がいます。もし、その主体と歩調を合わせられる相対的な関係を備えることができなければ、どのようになりますか。自分の過去の生活と現在の生活を比較してみるとき、過去がきょうよりも良いとすれば、その過去の生活を現在の生活に再現させなければなりません。そのようにして、そのときにもった決意をどのようにもう一度自ら模索するか、そのとき感じていた心情をどのようにもう一度体恤するか、そのときに「私」が闘っていた環境をどのようにまた再現していくかということが問題になります。もしこれが自分自らの祈りの中で解決されなければ、行動の面においてでも解決できる道を探さなければなりません。
私たちは、このみ旨の道を歩みながらも、教会と隔離されやすいのです。教会と「私」の関孫を見るとき、教会の中にいる私ではなく、私自身を中心として教会活動をする場合があるというのです。教会全体を中心として、教会の中にいる私自身とはならずに、教会と隔離された立場にいる第三者の立場に立つようになれば、教会と距離が遠くなり、教会に対する関心がなくなります。刺激がないというのです。そのようになれば、教会と自分との関係がだんだんと希薄になります。教会生活がおろそかになる立場に陥るまいとしても、必ず陥らざるを得なくなるのです。それでは、どのようにしなければならないのでしょうか。教会全体を身代わりして主体的に活動しなければならず、その活動において皆さん自身が孤立してはいけません。孤立した立場に立たずに、主体と歩調を合わせていきなさいというのです。そのようにして共に歩調を合わせながら闘っていくとき、先頭に立った人々が感じ、採択し、意欲をもっている環境を推し量ることができます。そのようになれば、教会を代表して主体的な立場で動く人々の後ろについていくだけでなく、彼らよりも先立って出ていける立場にも立つようになるのです。
統一教会を中心として、何を教えなければなりませんか。先生と皆さんの関係を教えてあげるのです。その内的な関係を中心として、外的な関係に拡大させるためのモデルを形成するのです。それが絶対視される価値として確定されない限り、絶対的な相対圏は形成されません。これが教会生活において最も貴いのです。それでは、統一教会では実際にどのように動くのでしょうか。先生と皆さんが感じる心情的なものが核心となり、相対的な世界に応用しなければなりません。先生自身はどのようにすべきでしょうか。神様に対して先生が感じたことを、皆さんに応用しなければなりません。それで、先生が知っていることを皆さんは知りませんが、皆さんが先生に対して感じたことは、皆さんのものとして理解するのです。ですから、皆さん自身において信仰世界の心の門を開き、心の畑を啓発することを今までしてきているのです。それが啓発される日には、それで終わるのではなく、それを相対的世界に適用させることができなければなりません。