天聖経訓読室

第1節 教会長の使命と責任

この節の音声は準備中です。
1

祭司長として祭物を捧げ、祭事を行うのに、人が集まらなければ、それは祭司長の責任です。「私」が代わりに涙を流しながら、私を打ってこの民を赦してくださいと祈らなければなりません。「私に罪が多いので人が来ないのだ」と考え、民族のため、国のために、自分の罪を悔い改めなければなりません。皆さんが祈る場所が床であれば、その床が乾かず、二十四時間、涙でぬれていなければなりません。そうすれば、神様が伝道すべき人を見せてくれるのです。そして、皆さんの前に訪ねてくる人を、王様のように侍らなければなりません。私が僕となって侍らなければならないのです。罪人が罪を脱ごうというのですから、仕方がありません。王様のように侍れば侍るほど、皆さんの蕩減は減るのです。私が下に下りていって罪のある人に天のごとく侍ったので、その間に蕩減条件がたくさん立てられるのです。

2

祭司長一族は、カインが養わなければなりません。贖罪を受けるために捧げる祭物は、贖罪を受ける人々が捧げるのです。祭物は、カインを贖罪してあげるための物なので、カイン側からアベルに祭物を捧げ、養わなければならないのです。カインがアベルを養う代わりに、アベルは生命を捧げるのです。物質的なものを基準とするカインと人を基準とするアベルが、ここで一つになるのです。それによって、復帰の土台が築かれるのです。イスラエル民族を代表した祭司長たちは、アベルの立場なので、カインを復帰するための苦労の代価を支払い、カインを取り分として手にするのです。物質を手にするのではなく、人であるカインを手にするのです。

3

祭壇を設けるためには、祭司長が責任を果たさなければなりません。祭司長の責任を果たそうとすれば、祭司長がいなければなりません。祭司長がいないのに祭壇を設けてはならないというのです。祭司長になろうとすれば、どのようにすべきでしょうか。世の中において、神様が愛する、祝福を受けた一族にならなければなりません。そうでなければならないのです。それがレビ族です。祭司長は、誰でもなれるのではありません。レビ族は、自分が所有する取り分がありません。彼らの所有は聖殿しかありません。聖殿の中には祭壇があります。そして、祭壇があると同時に祭壇の上に祭物があります。祭物を祭事に捧げ、贖罪の恵沢を民に与えたのちに、祭物を自分の取り分として取るしかないというのです。

4

統一教会は、どのようにすべきでしょうか。現在の統一教会自体は、レビ族のような立場に立たなければなりません。そのようにするためには、私たちに所有物があってはいけません。レビ族の立場に立てば祭司長になります。祭司長になって、聖殿をもたなけれぼなりません。聖殿をもったのちには、祭壇をもたなければなりません。また、祭壇を準備したなら、祭物を捧げなければなりません。神様がこの地の人類を救うために、昔は羊と牛を捕まえて祭物として捧げさせたのですが、最後には、自分の最も愛する息子(イエス)を祭物として捧げさせたのです。最も愛する、一番貴い祭物とは何でしょうか。自分自身です。ですから、自分を生きた祭物として捧げなさいというのです。

5

責任者自身を見れぼ、いつも幸福な人ではありません。不幸な人です。なぜ不幸な人なのでしょうか。いつでも負債を感じるからです。ただ「私が食口によくしてあげなければ」と言いながら、いつでも負債を負っているという思いをもたなければなりません。かわいそうな人を見れば、その人の生命を心配し、夜を徹して話をしてあげなければなりません。その人が死ぬかもしれない立場にいれば、自分が犠牲になってその人の死の道を塞いであげなければならないのが、霊的指導者の責任です。そのような立場に立たなければなりません。それは、どれほど食口のために生きる立場に立ったかという意味です。どれほどために生きたかというのです。その人は、他人ではなく、自分の延長になるのです。自分の枝になります。枝が伸びようとすれば、しっかり保護してあげなければなりません。

6

伝道をすれば、信仰の息子、娘だと言いますが、それは自分の枝なのです。その枝にどれだけ補給しようと、夜も昼もなく努力しましたか。そのようにしようとすれば、「私」が幹や根にならなければなりません。根になっていれば、その幹、もしくは枝が多ければ多いほど、その幹と枝が必要とする栄養素を地から、私自身が休むことなく、その要求する以上に補給できる余裕がなければなりません。それでこそ大きくなるのです。上からは栄養素を求めているのに、限界線があってそれを補給できなくなれば、上は枯れて死んでしまうのです。底辺に、生命の感謝と生命の潤沢さがいつも湧き出るように流れるその何かが、自分自身になければなりません。苦痛ですが、平和で安息できる住み家のような、生命が宿る安息所を自分の心にしまっておかなければなりません。そうすれば、神様が共にいらっしゃるのです。

7

責任が重要です。しかし、皆さんは、時代的責任だけでなく、歴史的責任を背負っているという事実を感じられないまま生きています。「私の先祖が私にかかっており、この時代の一族が私にかかっており、これからの子孫が私にかかっている」ということを感じなければなりません。ですから、霊的指導者がその責務を果たすにおいては、自由な心をもてません。四面楚歌のような立場で、一つの道だけをもって生きるのが、霊的指導者の責務なのです。一つの道というのは何でしょうか。心情の道、孝行の道理を教える道以外には、行く道がありません。御飯を食べても、眠っても、その心情に徹しなければなりません。そのようにすれば発展するのです。

8

先生は、食口が慕わしくて泣くときがどれほど多くあるか分かりません。神様が今まで、真の息子、娘を探し出すためにそのように涙を流したのです。人が現れれば、「献金をいくらするだろうか」と言いながらお金のことを考えてはいけません。それはバリサイ人が見る観点です。そのような人は絶対に発展できないというのです。お金よりも、人を愛さなければなりません。人を愛せば、お金は自然についてくるのです。ところが、逆さまに考えているというのです。また、顔立ちが良くて若い人なら伝道するというのですが、とんでもないことです!教会は家庭の延長です。祖母、祖父がいなければならず、叔母、叔父がいなければならず、若い人もいなければなりません。統一教会に若い人だけがいるとすれば、これは病弊です。これを早く正さなければなりません。

9

霊的指導者は、何か良いものがあれば、それが共同の利益になるようにしなければなりません。良いものを迎えた環境に、また良いものを加えなければなりません。続けて良いものを加えてあげられる立場にいなければならないのです。このようなことを考えてみるとき、神様がどれほどかわいそうな方かというのです。皆さんが世界的に有名な霊的指導者の位置にいる人たちに、「幸せを感じるか」と尋ねてみれば、「真の幸福を感じることはできない」という答えが返ってくるでしょう。彼らは、いつも与えなければなりません。また、向き合う人は多くの層からなっています。多くの種類の人々です。そのため、一つの方面だけのために与えてはいけないのです。全体のために与えなければなりません。常にすべてのものを与えることができなくなれば、問題が生じるのです。

10

復帰摂理に責任をもってきた神様は、最もかわいそうな方です。人々は、受ければ受けたものだけで満足しません。受ければ、もっと受けたいと思うのです。どこから受けたいと思うのでしょうか。ある中心存在を通して受けたいと思うのです。ですから、今後ついてくる人々が、すべて受けることばかりを願う人々になれば、神様も困ります。愛であれば愛を、もしくは貴いものであれば貴いものを自分のものにしようとすれば、本当に困るというのです。それで神様は、信じるのも自分のために信じるのではなく、相対のために信じなければならず、順応するのも自分のために順応するのではなく、相対のために順応し、愛するのも自分のために愛するのではなく、相対のために愛しなさいという、相対に対する意識を強化せざるを得ないのです。ですから、私たちは、このような公的な基準で信じなければならず、公的な基準でために生きなければならず、公的な基準で愛さなければなりません。このような公的な基準を立てなけれぼなりません。このような公的なものを自分と結びつけようとすれば、より公的な自分にならなければならないのです。

11

責任者の使命は、み言を伝えて蒔くことだけではなく、刈り入れることです。み言を伝えるのは蒔くことであり、蒔いて刈り入れなければならないのが責任者の使命です。言うなれば、生えた芽に水をやって手入れをし、除草作業もして花を咲かせ、実を結ぶようにしなければなりません。これがある期間が過ぎて完全に熟し、収穫するときに、初めて責任者としての使命を完結するのです。ところが、他の人が植えておいたものを、新しい責任者が再び植えようとしてはいけません。これをよく手入れをしてあげなければならないのです。たとえ他の人が植えたとしても、よく育てて収穫すれば、それは天の倉庫に入るのです。しかし、このようなことを考えず、過去の指導者の性格やその人に対する全体的な指導方法を把握することもしないで、自分のものを再び植えるので、死んでしまうのです。それではいけません。

12

主流は、どこまでも教会活動をする人です。教会を受け持っている人は、イスラエル民族のレビ族と同じです。レビ族には取り分がありませんでした。牧師に誰が月給をあげるのでしょうか。教会員が月給をあげなければなりません。教会長が自分の生計をつないでいくためには、教会員の前でそれ以上の祭物にならなければなりません。教会員が喜んで、自分の食べる御飯までもってきて、おかずまでもってくるほどに犠牲の祭物にならなければならないというのです。これが教会長の行くべき道です。それが、先生が天道を通して知った法度です。

13

天は、皆さんを基盤として、環境を再び変革させるべき責任を願うしかありません。そのため、公職にある統一教会の教会員は、涙とともに復帰の心情をもち、すべての部署でこのような運動を提示して、国家運動から世界運動まで展開しなければ、自ら涙を流したこの世界を天の国に転換させられる道がありません。統一教会の人間、本当の食口は、涙を流す人であり、本当の責任者もまた、涙を流す人です。涙で堕落したので、涙によって復帰しなければなりません。自分を中心として泣くのではなく、神様を中心として、人類のために公的な涙をたくさん流さなければなりません。そのような涙を多く流した人であるほど、天の心情圏内に近いというのです。

14

信仰の道は、自分なりに判断した道、自分が望む道に行ってはいけません。信仰の道は、霊界に行っている数多くの宗教の指導者と関係を結び、高い段階に一つずつ上がっていかなければなりません。ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、この三弟子以上の位置に進んでこそ、イエス様と関係を結べるのです。それは、皆さんが自分よりも位の高い人に会ったとき、その位の高い人に自分を直接紹介するのが失礼になるのと同じです。このように考えてみるとき、皆さんは、自分が信仰生活をするに当たって、どのような道が早く栄光に接する道かということを知らなければなりません。それは、ある宗教の道に責任をもって歩んだ人々の道を、自らが探し出して、その道に従っていかなければならないということです。

15

私たちの平面的生活において、教会に行くとき、教会には必ず指導者がいます。教会の指導者は、自分の目的を達成しようとする人ではありません。もしそのような人がいれば、その人は指導者になれません。指導者には、中間の橋渡しの役割を果たす責任があるので、訪ねてくる教会員のために与えなければなりません。教会の指導者は、教会員のためにいるのですから、神様のみ旨を中心として、教会員の精神的な問題や生命の問題までも責任をもっているのです。その指導者は、自分が責任をもった分野を中心として教会員を指導するのです。そうすれば、神様がその人を見てその人が高い位置にいるとき、教会員がその人と一つになれば、教会員も高い位置に進めるのです。その人が「私」の代わりに精誠を捧げてくれ、その人が私の代わりに私の罪を贖罪するために祈ってくれれば、私はその人の祈りによって、その人が立った位置に同参できるのです。人々が、恵みを受けた人の祈りを受けたいという理由がここにあります。このように橋を架けて訪ねていくのです。終わりの日になればなるほど、霊的な世界の内情が地上に現れるときになるので、宗教指導者の中には天の役事を直接行う人もたくさん現れるのです。

16

今日の人々は、人間に対してあまりにも無関心です。横的開係を中心として互いに尊重することが少ないのです。老若男女を問わず、人に対して煩わしく思っています。人を煩わしく思うようになれば、修養の道を行く人にはなれません。神様が復帰摂理をするとき、大韓民国だけを必要とするのではありません。世界の全人類をすべて必要とします。ですから、人に対する深い関心をもっのです。これは今まで、神様の摂理の中で最も重要な目標でした。私たちがその目標を達成するために集まった群れであるとすれば、すべての人に対して神様と同じ立場で関心をもち、向き合うことができなけれぼなりません。表向きだけそのようにするのではなく、本心からにじみ出る思いをもって向き合うとき、縁の中の最高の縁が結実する場に立っことができ、関係を結ぶにおいても最高の関係を結ぶ場に立つことができるのです。