希望に満ちたあすが、召命を受けた者として「私」を呼んでいます。その召命された人が行く道は、運命によっていくのではなく、宿命的な道に従っていくのです。運命の道は変更させることができますが、宿命的な道が変わることはあり得ません。父子関係を変えることができますか。兄弟関係を変更させることができますか。できません。それは宿命的です。天運の道理と宿命に帰着して安着することを願う、そのような歴史が巡っているのです。その安着の基点が真の父母です。真の父母を中心とした真の子女の宿命的な関係を神様と結んでおいたので、これは変更することができないのです。
第1節 召命の人生
神様の召命
人間が、心と体で願う希望とは、創造主である神様が再び直接主管してくださることです。今日の私たちには、このような希望とみ旨を果たすべき使命があり、そのことを完遂するための召命を受けているのです。ですから、私たちは、神様の主管性を復帰してさしあげなければならず、それとともに、万物の主人としての主管性も復帰してさしあげなければなりません。そして、神様が主管してくださる恩賜に対して、感謝の栄光をお返ししなければなりません。このような責任は、万物にあるのでもなく、天の天軍天使にあるのでもなく、今日の私たちにあるのです。
神様は、私たち個人を訪ねてこられますが、その個人を中心として家庭と社会、ひいては世界まで取り戻すことを願われます。ところが、この道がまだ塞がっています。天の摂理歴史路程は、「私」を求めて地にまで下りてきました。ですから、「私」を中心として再び天の方向に進まなければならないのですが、その道が塞がっています。それだけでなく、善を追求する人たちは、今までこの世的なあらゆるものを切って、否定しながら、失った本然のものを神様のみ前に再び探し立てることができる道を探そうとしましたが、このような道は限界点に来ています。今、皆さんが感じなければならないことは、神様の悲しみです。イエス様の悲しい心情を体恤しなければなりません。そして、神様は六千年という長い歳月を、悲しみの中であえぎながら、皆さん一人を求めてこられたという事実を、実体的に感じなければならないのです。
皆さんは制限された環境で働いていても、誰の命令を受けて働いているかが重要です。神様の命令を受けて、あるいは世界と国家の召命を受けて働いているという信念をもたなければなりません。世界に代わって制限された環境で働いているのです。国家に代わって制限された環境で働いています。個人を中心としても同じですが。命令を受けた背後が異なることによって、その結果も異なるというのです。
信仰の道を行くというのは、それほど簡単ではありません。神様からの召命は誰でも受けることはできます。しかし、この召命に従っていくことはとても大変です。神様は、「私」の後ろから行かれるのではなく、いつも先に立って行かれます。どれほど忙しそうに前を行かれるか分かりません。私たちが歩調を合わせることができないほど、先に行かれます。ですから、復帰摂理の途上における計画的な摂理、計画的な事業は大変なのです。神様の摂理は、飛躍的な発展を通して進んでいきます。個人から家庭、家庭から氏族に越えながら蕩減させていくというのです。順を追って上がっていくのではなく、段階的に飛び越えていくので、一年なら一年という一定の期間を通して計画的に仕事をしていては、塞がってしまうのです。時に遅れるということです。このような問題を見るとき、召命を受けてみ旨の道を行く人たちは、いつも切迫した気持ちで進まなければなりません。神様と「私」がプラスとマイナスの相対的な関係を中心として調整していきながら、自分の位置を見いだし、その時に合わせていかなければなりません。しかし、その時を適切に把握して行動を開始することは、とても難しいのです。
皆さんは、皆さんの学問と皆さん自身を、世界と神様のみ前に奉献するように召命を受けています。皆さんは、皆さんの共同体の中で神様を代弁し、神様から来る愛と希望を周りに伝達し、世の中の人たちが人類と神様に奉仕する仕事の手伝いをする使命を受けています。これは、皆さんの教会や社員や会衆を悟らせ、彼らを動員して神様を中心とする自由と平和の世界を形成することに連結されるのです。
先生が神様の天命を受けて、アメリカを救いなさいという召命を受けてアメリカに行く時、どれほど緊張し、どれくらい深刻だったでしょうか。韓国の皆さんは、先生が神様の命令を受けてソウルを離れる時に深刻だったのと同様に、先生の指示を受ける時、先生がアメリカに向かって責任を担って立ち上がった姿勢と同じでなければ、愛のパートナーにはなれません。その彼らの行動は、不正なものであって、公義のものではありません。
先生は、反対を受けながら上がってきました。復帰路程がそうです。今まで統一教会の復帰歴史は、そのようになっています。ですから、皆さんは、最初の志操を失わずに、個人から世界の頂点を越える時まで、最後までついてきなさいというのです。神様のみ前に責任を果たしたのか、果たせなかったのかというとき、果たしたという決裁を受けなければなりません。果たしたというときは福を受けます。その福を通告される時まで残る者になってこそ、同じ圏内に入れる恵沢を受けるのです。個人的に、家庭的に、世界的に皆さんが、先生を中心として死を覚悟して一つになっていくならば、同型、同等の恵沢圏内に立つのです。
召命というものは、「私」が何かの責任を背負う権限がないという意味です。召命とは、召されたということなのです。この言葉は、ある絶対的な中心によって、自分は東の方に向かっているのに、「西の方に行きなさい」と新しい命令を受けたということです。その命令されたことは、東の方にいるといって、東の方の人たちに命令されたのではありません。中心を通して命令を受けたというのです。その中心は、あらゆるものの希望の基準を代表できる中心なので、その召命された人は、全体の中心に対して相対的役割を果たさなければなりません。召命を受けていなかったときには、一方向的な責任を果たせばよいのです。それが、召命を受けたあとは、四方向的、あるいは球形的使命が与えられるということです。先生が世界的中心に連結された人間、個々人を代表した立場で神様の召命を受けたというときは、東西南北、上下関係、すべての面の代表的な格を備えてこそ、召命された者としての使命が完遂されるのです。
召命者も、個人が必要であり、家庭が必要であり、氏族、民族、国家が必要です。このような観点から「選民」と言いますが、その選民とは何でしょうか。召命を受けた民族です。選民の国、召命を受けた国です。選民の世界というのは、召命を受けて、召命されたあらゆるみ旨を完成した国です。そのみ旨を成し遂げれば、戻って一つになるのです。ですから、神様は、アルファとオメガ、始めと終わりだという話があるのです。
父母の中の真の父母が神様です。神様は、私たちの真の父母です。真の家庭の王、真の国の王、真の世界の王が私たちの父母様です。その方に侍ることができる千年太平時代を迎えなければなりません。韓国の「月よ、月よ、明るい月よ、李太白(リテイハク)が遊んだ月よ……」という歌のように、この地上で父母様に侍り、千年、万年生きるという希望を成就する、統一教会員の各自の使命と召命的目的があることを知らなければなりません。
神様のみ旨の前に召された責任者として、召命的責任を全うしなければなりません。韓国の人は韓国の人としての召命、世界的メシヤとしての召命があります。「召」の字は、命令の呼び掛けを意味します。軍隊の出動命令と同じです。召命的使命を全うしなければならないのです。
使命の自覚
先生は、一つの峠を越えるのがどれほど大変だったか分かりません。誰かが一言語れば、いつでも百世、千世、あの世に行っても痛哭する心がしみ込んでいる人です。先生が神様に「文鮮明が来ました」と言う時、神様も切なる心情で我知らず、千万の階段を飛び降りてきて、首を抱いて痛哭しつつ、「よく来た!」と言いながら、「アダムとエバのために痛哭したが、やっと帰ってきた」という喜びの涙を流し、息子を抱いて千万の階段を上がって、座っていた王座に再び座り、「み旨が成就した。アーヂュ!」と言う神様の声を聞くまでは、死ぬことができません。やらざるを得ないのです。それが真の父母が行くべき鉄則の路程でした。皆さんの一生の路程において、その記念の基準を中心として残される贈り物を準備して天のみ前に持っていかなければなりません。そうしてこそ、父母様の近くに行き、苦楽を共にしたとして相続権を受け、天上世界の系列の責任者に立てられることを、間違いなく理解して、責任ある生涯の道を行かなければならないのです。
自覚が必要です。自分自身に対する自覚、自らの環境に対する自覚、国家に対する自覚、世界に対する自覚をしなければなりません。このように新しい世界観を中心として新たに自覚し、すべてのことを清算して越えていくところでアベルの立場が決定されるのです。アベルの立場を決定すれば、カインを必ず屈服させ、神様に侍らなければなりません。そうすることで、皆さんは、天国に行ける個人になることができ、天の家庭、天の国家、天の世界、すなわち天国を築く個人になることができます。これが復帰の起点なのです。
自分を歴史的な罪の結実と見なければなりません。氏族なら、そのような氏族と見なければなりません。氏族は、現実から見るとき、国家と見ることができます。現実のあらゆる民族と関係しているのです。数千代の氏族の根を受け継いでいるので、それを延長して、平面的に見れば国になります。ですから、「私」は国や民族の罪に責任をもつべき罪の子孫です。私は民族が受ける罪の代価を代わりに払わなければなりません。世界の罪を、現在に払うべき罪の代価を私が代わりに払わなければならないというのです。このような自覚をしなければなりません。それがメシヤとして来られたイエス様が感じた道です。私が生きればこの世が生き、私が死ねばこの世が死ぬという境地まで、そのような自覚をした段階まで進まなければならないのです。
皆さんは、自分自身を知りませんでした。そうこうするうちに、み旨を知るとともに、自覚の心情をもってこの門をたたいてきました。皆さんは、「歴史を経て、時代を過ぎて未来を開いていく私だ」ということを自覚しなければなりません。自分自身で自覚しているようですが、実際は神様が私を自覚させているのです。きょうの私が自覚した姿をもつために、数多くの預言者や烈士たちが血を流し、今も背後で、自覚した私になることを願っています。ここにおいて再び歴史を台無しにし、台無しにし続け、さらに台無しにする可能性のある自分だということを感じなければなりません。「歴史的な幼いアダムとエバの恨を両肩に背負い、現実と未来にまでも責任をもつべき私だ」ということを自覚しなければならないのです。
統一教会は、何をするためにこの世の中に現れたのでしょうか。罪を悔い改める道を教えてあげるために現れました。罪を悔い改めることのできる道を教えてあげようというのです。そのためには、信仰によって救いを得るという内容はあるのですが、どのような自覚をしなければならないのでしょうか。世界を代表した自覚をしなければならないのです。男性も世界を代表した自覚をしなければならず、女性も世界を代表した自覚をしなければなりません。歴史的な勝利の祭物にならなければならないという自覚、時代的な勝利の主体にならなければならないという自覚をしなければなりません。メシヤの命を奪ったので、自覚しなければならない立場において、亡くなったその方の前で私が死んで蕩減し、その方の哀れみが私に及ぶことによって、彼と共に復活の栄光に参与しようという心をもたなければなりません。そうでなければ、天国に入ることはできないというのが原則なのです。
自覚です!堕落とは、個人を中心として自覚したところから出発しました。今からは、蕩減復帰して、自分を中心としたものではなく、神様の家庭を中心とした自覚がなければなりません。そこから新しい理想世界が生じるのです。そのようにするには、血統が問題です。人類はそれを、今まで知りませんでした。先生が地上に現れ、詳細に解明してあげることによって、初めて分かるようになりました。そのようにして理解した自分は、自分の存在圏と関係がありません。革命的にひっくり返して、新しい父母を中心とした新しい家庭が出てこなければならず、その家庭は、今のように個人を自覚した立場で堕落したものとは違います。これは、公的な自覚の上に立っているので、心と体が争うことがないのです。
人類救済の人生
宗教が志向すべき最後の目的とは何でしょうか。もちろん、個人救済の目的を主張することも一理ありますが、それよりももっと進んで家庭を救わなければなりません。まず家庭を取り戻し、安住圏に属している人間を罪悪の中から解放させなければなりません。真の意味で歴史を代表し、時代を代表し、未来を代表する家庭を取り戻さなければなりません。また世界人類が共に喜ぶことができる家庭の基礎と、家庭が行くべき正道の基準を拡張しなければなりません。その家庭の正道がどこから出発し、どこに行くべきなのか、ということが決定されなければならないのです。そのようにならない限り、この地上に平和の世界を創建することはできません。外的なものがいくらきちんと形成されたとしても、内的な家庭においては破綻することもあり得るというのです。
いくら台風が吹き、いくら受難の道が幾重にも横たわっているとしても、愛の馬を走らせるにおいては敵がなく、遮る者はいません。父母が子女を愛する道を遮ることはできません。力で遮ることはできないのです。どんな手段方法でも遮ることはできません。妻を愛する夫、夫を愛する妻の愛を、何をもってしても遮ることはできません。ですから、愛は偉大なのです。国を愛する愛国者の行く道は、どんな力でも、何をもってしても遮ることはできません。買うこともできず、売ることもできません。天理の道理を明らかにしていく聖者の行く道において、人類を救済し、人類を愛することを遮ることはできないのです。
神様が滅びていく世俗的な世界に対峙させるために統一教会を立てたので、この統一教会は、対抗できるあらゆる内容を備えなければなりません。中心のない世俗的なこの世の中で、落ちていくこの現実世界で、それを防げない悲嘆の環境を迎えたこの人類は、絶望に遭遇しています。反面、これに対峙して、落ちるのと反対に、無限に向上できる一つの道を準備しなければ、人類を救済してきた神様のすべての摂理が中断されてしまうというのです。
先生は、世界と天地を生かすのです。天地は先生が責任をもつので、皆さんは、皆さんの一族を生かしなさいというのです。自分の兄弟を救援し、父と母を救援するのです。そこで天使長を屈服させ、真の父母によって祖父母から孫と孫娘まで四代が一つになり、天の国に行くようにしてあげる責任があります。「私」が国家と全体を、天のみ前にお返しするのです。
一片丹心、この大宇宙に心情世界を再び立てようとするのが救援歴史なので、その救援歴史の路程で、私がどの程度の材料になり得るかということだけを考えなければなりません。万物を材料とし、人類を材料とし、霊界の幾千万の聖徒を材料としなければなりませんが、私が動けば万物がどの程度動き、人類がどの程度動き、天上の幾千万の聖徒がどの程度まで動き、私が地上で叫ぶことがこの宇宙のどの範囲まで心情の反応を呼び起こすのかによって、天上における私の価値が決定されるのです。イエス様が死ぬ瞬間の悲しみは、天に反映され、万宇宙に反映されました。このためにイエス様は救世主です。心情の救世主なのです。
皆さんは、個人のある欲望を満たすために努力するのではなく、より大きな目的のために犠牲となり、奉仕する信仰生活をしなければなりません。そうして、ただ神様のみ旨と人類のために苦労されたイエス様の心情基準まで行かなければならず、今まで苦労してこられた神様の切ない心情を慰労してさしあげる、神様の真の子女の立場まで行かなければなりません。今日、皆さんは、不義を見れば憤慨する心をもち、また与えたいと思う神様の愛の心をもち、この世の果てにまで行って、神様の国と神様の義を探し立てるために苦労しなければなりません。さらには、今まで人類を救援するために悲しみの中で苦労してこられた神様の心情を、慰労できなければなりません。
神様は、堕落した人類を抱きかかえながら、救援摂理をするために無限に努力してこられました。人間が罪悪に陥っている時、人間を訪ね、人間のために生き、人間に福地を紹介するために苦労された方がいるとすれば、その方は、私たちの愛する父母でもなく、何かの情関係で結ばれている子女や夫婦でもありません。また、国家でもなく、どんな聖人、賢人でもありません。それは神様なのです。
私たちは、堕落していない本然の園を再び回復していかなければなりません。堕落した人間であるがゆえに、落ちていないその本然の状態を取り戻し、神様を失ってしまった人間であるがゆえに、神様を失っていないその位置を取り戻し、人類の真の父母を失ってしまったがゆえに、真の父母を失っていないその位置を取り戻さなければなりません。神様と理想の真の父母を中心とした平和の園において、子女として生活できる位置を求めていかなければならないようになっています。それで、これを成就するためにも、私たちには、新たに救援摂理という言葉が残されているのです。
救援するために摂理される神様は、この地に対するあらゆる苦痛を傍観する無責任な立場では、この世を収拾できないので、堕落した世の中で人間が遭遇するあらゆる苦痛を、人間だけの苦痛として傍観するのではなく、直接その苦痛圏内に入って責任をもって対応していかれます。また、この悲しくて悲惨な歴史的な対応の路程の上に、神様が直接参与しなければ人類を救援できないので、人類の悲しい歴史に同伴して今まで闘ってきたのです。
人類は、真の父母を失いました。父母から生まれることは生まれましたが、真の父母の深く、高く、貴い愛をそっくりそのまま受けることはできずに生まれ、その父母と一緒には暮らせなかったのです。また、父母の立場にある神様は、子女を失うことによって望んでいた基準を達成できなかったので、長い歴史を抱きかかえながら、その目的を達成するために、今まで人類の背後で収拾してこられたのです。これが神様の救援摂理なのです。
救援を受けるべき私たちが、永遠の生命を求めて父の愛の中に抱かれるためには、あらゆる苦難と深い傷を踏み締めて立ち上がらなければなりません。今や、私たちは、家庭と社会と国家、世界が反対しても、それを踏み締めて立ち上がり、ただ神様のみ旨だけをつかんで立ち上がったイエス様の立場に立って、歴史的な死亡の氏族に向かって突進できる、天の精兵にならなければなりません。
世の中で、決意なくして何かが成就されることはありません。闘うには、当然、正義に立脚して闘わなければなりません。サタンは、根本的に高くなることを願いますが、私たちは、それとは反対に、低くなって私の体と愛で闘っていかなければなりません。そして、ひたすら一直線でなければなりません。すなわち、一片丹心でなければならないというのです。「私」自身は砲弾なので、自分の耳と目と手が、それぞれほかの所にあれば滅びます。この闘いで勝利するためには、借しむものがあってはいけません。人類を救援するためには、どんな犠牲をも覚悟するのが天の計算です。皆さんは、先祖たちの血痕が染みついた犠牲の祭壇を守って、神様の恨みを晴らさなければならないのです。