霊界と地上世界は、断絶された別の世界ではありません。一つの根本の存在原理のもとで相互交流し、授受する相関関係にあります。私たちの教会も、本来神霊を通じて統一する神霊協会として出発しました。神霊とは何ですか。一時的、配分的な霊力や霊的作用のことを言うのではありません。真の愛を中心として霊界と人間世界が調和し、共鳴することができる神様の愛の力です。ために生きて投入する真の愛の生活を通じて、人の心に感動を与えることはもちろん、霊的世界の協力も得る運動が統一教会の運動です。
第2節 神霊の役事と霊的現象
霊的現象とそれに対する姿勢
初代教会の時は、異言を語り、神霊の役事を行い、預言を語るなど、ありとあらゆることがありました。このように初代教会で神霊の役事が多く起きることにより、その内容を知らない無知な人間が霊的な現象にあちこちでぶつかり、混乱するようになるので、それを防ぐために「聖書のみ言が一番である」と言うようになったのです。聖書にも「終りの時には、わたしの霊をすべての人に注こう」(使徒行伝二・一七)というみ言が出てきます。それで、初代教会で起きた現象が終未のキリスト教の歴史世界に現れ、四方で気が狂った、異端だと言われる群れが多く出てくるというのです。統一教会も、その中の代表的な一メンバーとして入っています。
霊の召命を受けた人はむやみに行動できません。その人が、起きる霊的現象の理由を知らなければ、天が教えてくださいます。彼が目を開ければ霊界を見て、彼が行動すれば霊界にいる人のような行動をします。皆さんの日と皆さんの心と皆さんの行動とは、非常に異なります。狂った人のように見えます。昔のイエス様も賢い人に見えましたか。その当時の入たちが見るとき、気が狂った人のように見えました。これからこのような霊的な現象が襲い、民族を襲い、教団を襲うでしょう。したがって、今日、世界的に、未知の精神系統の患者と神経系統の患者が幾何級数的に増えていっています。恐怖の世界、不安でいらだつ世界が近づいています。これは神様の息子であるイエス様が、焦燥感と不安感と興奮した心情をもって一生を過ごし、み旨に対されたからです。それで、世界的な運勢がそのように巻き込まれていくのです。そして、最終的には方向を探そうとしても探すことができなくなり、真のものが偽りのようになり、偽りのものが真のようになる現象が起こります。偽りが優勢になり、真が劣勢になる時代、偽りが盛んになり、真がこれ以上ないほど微弱な状態になる時代が来るというのです。私たちは、そのような時代を経て越えていかなければなりません。
終わりの日になればなるほど、恐怖心にとらわれる人がいるかと思えば、その一方で喜びにとらわれる人もいます。このような動きが現れるのは必然的な現象です。この上なく悪の人がいるかと思えば、この上なく善の人もいるのです。この上なく善の人には、この上なく悪の人が侵犯できず、この上なく悪の人には、この上なく善の人が関与できません。この社会は、神様もつかめません。いかに神霊的な人でも、いかに天の恩賜がある人でも、これに合わせようとしても合わせることができない時が来ます。その時が来れば、この上なく悪の世界で生きている人、天と関係を結ぶことができなかった位置にいる人々は、間違いなく審判台に上がります。そのような実相が皆さんの心から起こる時が来るでしょう。心はこっちに行くのを願うのですが、体は他のほうに行くのを願うのです。その心と体を連結できる条件をもてずに、もがき苦しむ人は、間違いなく地獄行きだというのです。
神様は、特定の宗派を中心として摂理してきます。ヨセフ家庭とザカリヤ家庭を中心として、時になる前に、誰も知らない中で内的に摂理したように、大韓民国の解放直後を中心として、誰も知らない中で、天はこのような摂理の内容を準備してきたのです。そこには、天使長的使命を果たす集団がいなければなりません。霊的に失ってしまったものを実体的に取り戻さなければならないので、そのような時代相になる解放前を中心として、肉的天使長の使命を果たす一人の人が出てこなければなりません。それで、霊界に通じる人々の中で、自分がペテロだ、パウロだ、あるいは「私は洗礼ヨハネだ」と言う人が出てきます。十二使徒がイエス様を信じられなかったので、彼らの霊が実体的に臨んで、この地上で基盤を築く役事が起こらなければならないのです。そのような役事をしてきたというのです。
イエス様の恨は何でしょうか。地上で弟子たちと共に実体圏を形成することができなかったことです。イエス様を中心として十二弟予が一つになれず、イエス様を中心としてヨセフ家庭が一つになれず、ユダヤ教が一つになれず、イスラエルの国が一つになれなかったのです。このような関係が破綻したので、それを、十二使徒を中心として収拾しようしたのですが、すべて破綻しました。それで、霊的基準型としては残っているのですが、実体基準はもてなかったので、霊的勝利の基盤を築いた十二使徒型をこの地上に再臨役事とともに再現して、その時を準備しなければなりません。この基盤が築かれたのちに、すなわち不信してイエス様を追放した使徒たちが活動し、再び信任される基盤を築いた上で、再臨役事が始まらなければなりません。ですから、大韓民国の解放前を中心として、霊界に通じる人々の中に、私がペテロだ、ヨハネだ、パウロだ、あるいはアブラハムだと言って、歴史上に生まれては死んでいった数多くの預言者たちを代表する人々が、一度にこの平面的な韓国の神霊的な人たちを中心として顕現するようになったのです。
今までは、悪の霊人たちが地上に来て役事したので、ノイローゼ現象や人格を破壊する現象が起きましたが、今からは違います。体を占領して共鳴圏を形成して、正しく高い霊的な体験圏に入っていくようになるのです。高尚な人格圏が生じるのです。(259-163, 1994.04.02)
霊的現象は、神様による霊的現象とその反対現象、その二つしかありません。それはすぐ分かるようになります。すなわち善の現象と悪の現象に分けられるのですが、「善の現象はこのようにならなければならない」という公式的な脈があります。これをずっと合わせていかなければ何にもなりません。それで、何百年ごとに、大転換期や霊的な大現象が起きるのです。そのようになれば、その国が滅びたり栄えたりします。国が滅びるようになる時は悪霊が動員されます。また、大きく栄える時は善霊が動員されます。それをどのようにすれば世界の運勢に巻き込まれるようになるのでしょうか。それほど簡単ではありません。そのように考えれば、霊的現象や宗教の目的とはいったい何でしょうか。霊的現象を起こして天が摂理を導いていくのも、結局は人間完成のためです。
悪神の役事も善神の役事も、出発は同じです。ただ結果が違います。おびえながら大騒ぎして、身もだえするということが起こります。全く同じだというのです。悪神も神霊役事をするのですが、結局は、役事してどこに入っていくのでしょうか。世界の利益に、天と地の利益に戻っていかず、自分の利益に戻っていくというのです。そのようになれば必ず消えうせていくのです。自分を中心として個人的な利益に、自分の家庭を中心とした利益に戻っていってはいけません。それも消えうせていくというのです。あくまでも神様の摂理は、出発は同じ姿でしても、必ず世界を標準にしなければなりません。神様の解放と人類の解放を目標にしない教会は、終わりの日まで続きません。自分の欲のままに行っては、自然に崩壊します。その指導者を連れていくのです。連れていくようになれば、その時代の環境を整えて連結させることができません。自分が置かれている位置を知らないからです。
今日、人間世界に生きている皆さんは、人間世界を中心として霊的現象を見ることができます。どの時代も、いかなる時も、宗教人はもちろん、それ以外の人々も、霊界との関係によって、霊界と混合した生活圏で生きていることは歴史的事実です。歴史過程を通じてそのように生活してきたという事実は、私たちが宗教を信じなかったとしても、夢を通じるなどして様々な神秘的な体験を通じて知っています。それで、霊界を見れば、善神と悪神がいて、地上ではその影響を受けて善人と悪人に分けられるようになります。それは理論的な結果です。ですから、良い人、悪い人という、この概念は何でしょうか。良い神の協助を受ける人と悪い神の協助を受ける人がいるのですが、その二つの種類の内容に基づいて、良い人、または悪い人と結論を下すのです。
これからは、霊的現象まで見られるものを発明する時代が来ると思います。そのようになれば、霊界がないということを言えなくなります。霊眼が開かれれば、霊界を見ることができます。すべての現象を、その世界に存在するすべてのものを、感覚的に感じるのです。天気予報のようにそれを見ることができるようになれば、神様がいないという言葉は言えなくなります。そのようになれば、宗教のようなものはなくなってもかまいません。堕落していなければ、そのような世界になっていたはずです。堕落世界となり、このようになってしまいました。復帰過程では、私たちにとってこの地上が、その世界と相対的に一致させていく訓練所になっています。
奇跡はその代価を払う
神様の協助は、原理原則が形成されるところから起こります。無謀な信仰は、神様が好まれません。奇跡を願い、「絶対に信じるとおりになるだろう」と言った人はどうなりましたか。奇跡を行った人は、その人自身と、その一族がどうなりましたか。韓国で有名だった復興師、過去に名が知られた人々自身と、その子孫が良くなりましたか。良くなりませんでした。なぜでしょうか。盲目的に要求したあとには、必ず盲目的に要求したその代価を、その人自身が要求されるのです。自分がそのような能力を使ったとき、自分自身がそれを動かせる自分になることができず、神様の力によって行ったとすれば、その人自身が受けた福によって侵害されるのです。基盤がなければ一度に崩れるのと同じです。
モーセが奇跡を行っていなければ滅びませんでした。イエス様が奇跡を行っていなければ十字架にかからなかったというのです。奇跡が良いのではありません。それは多くの犠牲の代価を払っても一度にこっと笑うだけで、終わってしまうのです。今日、それを妄信して、そのような奇跡で天地を収拾し、人間世界のすべてのものを清算しようという荒唐無稽な者たちになってはいけません。
復帰の路程を歩んでいったイエス様が奇跡を行ったのは、喜んで行ったわけではありません。喜んで、楽に奇跡を行ったと思ったら大きな誤解です。この地にはよりどころがなく、この宇宙の中には頼るところがないので、天に対して訴えざるを得ない事情があったのです。このように悲壮な境地にいた、イエス様の懇切な姿を見つめなければなりません。イエス様が同情せざるを得ない哀れな事情に置かれ、手を挙げて「父よ!」と呼び求めたとき、ここで奇跡が起こったのです。この上なく悲しい、骨肉が溶けるほど悲しい場面で叫ぶ、その事情を通じて現れたのが奇跡でした。
先生が祈れば、奇跡をいくらでもします。しかし、ありとあらゆることが起こったとしても、先生はしません。それを治して何をするのですか。治してあげたところで、天国で役に立ちますか。何の必要もありません。何人かの人が韓国でそのようなことをたくさんしましたが、先生はそのようなことをしませんでした。悪口を言われてもじっとしています。一人で歩みながら、先生が行く道を先生が準備しなければなりません。準備ができなかった人は流れていくと考えるのです。完全に準備をしておいて、大舞台であるアメリカに行って激しく悔い改めさせるのです。キリスト教が誤ったので、悔い改めなさいというのです。
先生に知恵がなければ、すべて台無しにしていたはずです。先生が病気を治す祈りをすれば、千人、万人が一度に治るでしょう。しかし、それを断りました。教育をしなければなりません。神霊の役事は一時ですが、真理は万年続きます。自分たちに今、そのような時が来ました。病気を治すことも、どのようなことも、すべてできるというのです。黙って見ているだけで、ハンセン病が治ることがあり、ありとあらゆる病気も治るというのです。火がついて統一教会の先生を慕い、食事をすることを忘れ、寝ることも忘れれば、どのような病気もすべて治ります。病気にかかったことも忘れてしまいます。忘れて一年も過ごせば、病気がなくなるのです。聖書の奇跡は何でもありません。そのようなことを、先生がすべてしました。