天聖経訓読室

第3節 父母の愛と責任

この節の音声は準備中です。
1

子女を育てるときは、自分を愛する以上の愛と心情をもって育てなければなりません。そのように父母の責任を全うするようになれば、その子女が父母の事情を知り、彼がまた、自分の子女をもつようになれば、そのように育てることができるのです。そのようになるときに、初めて彼は父母の悲しみが自分の悲しみであり、父母の喜びが自分の喜びであり、父母のすべき仕事が自分のすべき仕事であり、父母の責任遂行が自分の責任遂行だという子女になります。そうして父母が命令しなくても、その父母の怨讐を自分の怨讐として対し、父母の仕事を自分の仕事として、父母の責任を自分の責任として、父母の事情を自分の事情として成し遂げていこうと立ち上がるのです。そのような子女を立てることが、創造の原則だったのです。

2

愛の力はあらゆることを洞察するのです。それは、愛の力だけが可能です。父母の愛の心は、距離を超越します。距離を超越して連絡するのです。皆さんが映画を見ていて、子女に事故が起こると、父母が夢の中で事故が起こるのを見て「ああ!」と驚いて目を覚ます。そのような映画を見たことがあるでしょう。愛の綱を通して反応するのです。愛の綱を通して実像がただそのまま移されるのです。実像だけでなく実体が交流します。ですから、地上で愛の綱に乗って神様の実体に接することができるというのです。

3

愛する子女と向き合う父母は、子女に欠点があっても、その欠点を先に探ることはしません。自分の良い点だけに似ることを願います。子女の悪い面を見て、頬をたたいたとしても、それに同情して後悔するのが父母の心情です。それはその時の悪の面を基準としてたたいたのではないからです。自分の良い面に似た小さな部分でもあれば、それを悪い面より大きく見ようとする基準を中心として理解しようとするのが、子女に対する父母の心情なのです。

4

父母が子女に、親孝行しなさいと教えてあげて孝子にするのではありません。自ら親孝行しようという心が湧き出るようにしなければなりません。このようなことは一日でできるものではありません。長い期間を置いて影響を及ぼさなければならないのです。影響を及ぼすというのは、父がするとおりに、子女が従ってくることができるように、生活で子女に手本を示してあげるということです。このようなことを実践する、み旨に対する専門家にならなければなりません。

5

父母たちは、み旨の生活において模範とならなければなりません。家庭における祈祷生活や家庭礼拝、信仰生活を子女たちに見せてあげなければなりません。また、敬拝時間がどれほど重要かということを認識させてあげなければなりません。その時間には、敬礼式だけで終わるのではなく、み旨を中心として、父母として子女たちを教育しなければなりません。子女を教育するためには、父母がまず実践しなければなりません。父母が模範となって、み旨の前に忠誠を尽くさなければならないのです。そうして、父母がどのようなことを言っても、子女たちが一言半句も口答えせず、父母を畏敬できる立場に立たなければなりません。そのようにしなければ、子女たちは従いません。子女たちが自分の知っているみ旨と原理を中心として見るとき、教会生活をするに当たって、父母たちが本部で指示する原則を軽視して、その指示に従って生活していないのに、子女たちにだけ原理原則どおりに生活しなさいと言えば、鼻で笑うというのです。

6

子女たちが昔見ていた父母と、現在見ている父母に何の違いもないとすれば、その父母は子女たちを教育することができません。ですから、過去とは格段に違わなければなりません。家庭生活や近所での対人関係において、このようなことが問題とならざるを得ません。子女は、自分なりに、「み旨を中心として行く人はこうでなければならない」という観をもって父母を見つめ、マークしているというのです。

7

子女たちは、自分たちの父母が悪いのか良いのかを、すぐ分かります。み旨のために動く態度を粘り強く押し進めれば、その環境で認められる日が来ます。夫婦は死んでも、天道は残していかなければなりません。家庭は自分の子女のためにあるとしても、まず神様のために生き、国のために生きなければなりません。これが結局は、自分の子女のために生きる道です。そうしてこそ、子女たちが神様の運と世界の運と国の運と共に存在できるからです。

8

祝福家庭を見ると、自分の二世たちに「勉強しなさい」と言います。自分の息子、娘に勉強しなさいと言って、その息子、娘が孝子になり、忠臣になるのではありません。「統一教会で父母は苦労したが、私はそのような道は行かない!」と言いかねません。それを消化できる愛の道理を教えなければならないのです。ですから、父母が息子、娘を引っ張っていきながら、食べることに困っても近所を愛し、国のために祈って涙があふれなければなりません。そのようなことは物心のつかない時は悪いと思いましたが、物心がついた時には「うちの父母が一番だ」と言うようになるのです。父母は自分の子女のために涙を流すのではない、ということを知るようになります。自分の子女を捨ててでも国を愛そう、神様のみ旨を思い人類を救おうとした事実を、物心がつけばつくほど分かるというのです。自分勝手に生きてはいけません。皆さんが子女を心配したからといって、その子女たちが立派に育つわけではありません。愛の糧を食べさせて育てなければならないのです。

9

子女は、父と母が歩むとおりに歩みます。ですから、皆さんの家庭に神様をお迎えして侍らなければなりません。子女に、「父は祈る人だ」と教育しなければなりません。神様のために生きる父、他のために苦労する父であることを教えなければなりません。ですから、子女がそれとなく自分を尊敬し、自分を立派だと思うことができる基盤を築いて奉仕しなければならないのです。

10

「うちの父は、過去にこのような苦労をした。私を育て、教育するためにこのような受難の道を歩んできた」と、父の背後を探るようになるとき、悲惨で困難な事情が多ければ多いほど、それが子女を不幸にするのではなく、孝行の道へと方向を転換させ得る鍵の役割を果たすのです。このようなことを、私たちはたくさん感じることができます。自分のための涙が途切れない父母の背後を知っている子女は、父母の前に不孝をすることができないのです。

11

愛の世界では、生ぬるいのは嫌だといいます。熱いか冷たいか、二つのうち一方に行かなければなりません。時には冷たさが必要です。子女を育てるとき、愛を与えたのにそれを失ってしまったときには、厳しく叱らなければならないのであって、それでもいいと言ってはいけません。先生が責任者を集めておいて大声を張り上げたら、「ああ、あんな先生がどこにいるか」と言います。誰よりも恐ろしいのです。先生という人は、慕わしいことは慕わしいのですが、最も難しい人だというのです。悪に対しては無慈悲ですが、善に対しては何千度の溶鉱炉のように熱い先生です。

12

愛の本質は、人のために生きることです。自らの自主的な本質を中心として、他人に与えようとするのが愛の本質です。その愛は、どこからきたのでしょうか。神様から来たのです。神様は絶対的愛の主体なので、与えようとするのが愛の本質です。父母の愛がその本質に一番近いところにあるので、子女に対して常に与えようとします。子女が受けなくても、昔、与えたその愛よりももっと大きな愛をもって愛すれば、その強盗のような子女でも、悔い改めて改心することができるのです。

13

父母は、神様を身代わりした父母にならなければなりません。父母は子女たちに、「息子、娘よ! お前が私を愛する以上に、お前たちの兄弟を愛し、お前たちの隣近所と国と世界を愛そうとしなさい」と言わなければなりません。このように教育する人であってこそ、父母の中で真の父母の資格をもつことができます。そうしてこそ、息子、娘たちと自分の家がより大きな善の立場、善の中心に発展していくのです。

14

この世で、人間として一生の間生きながら残すべきことがあるとすれば、それは三つしかありません。一つは原理の道です。原理の道のとおりに、み旨のとおりに生きたという事実です。その次には、良い子孫を残していくことです。その次には、この地上で生きる時に、その子孫たちを世の中の立派な人材として育てること、教育することです。このような三大責任があるというのです。

15

皆さんは、息子、娘に、どのように生きるべきか、という伝統を残さなければなりません。皆さんが各国に行き、苦労の闘いをしながら生きるのは、これから皆さんが子孫に伝統を残すためです。「私たちはこのように困難な中で働いた」と子女たちに教育することができ、遺言を残すことのできる伝統的資料を収拾するためです。ですから、伝統が問題です。これは、変更することができません。永遠の伝統なのです。

16

家庭的な伝統を立てることができなければ、民族的な伝統を立てることができず、民族的な伝統を立てることができなければ、国民が形成されません。祝福家庭は、家法を作らなければなりません。そして、子女たちの教育基準と家庭の規範を作らなければなりません。そのようにすることなく、父母が間違って子女の追及を受ければ、弁解の余地がないのです。自分を愛する前に国を、世界を、神様を愛さなければなりません。妻は、「うちの夫は国を、世界を、神様を一層愛する人だ」と言って、尊敬できなければならないのです。