新郎新婦が結婚して、初夜の部屋を設けて入っていくとき、どのようにして愛し合うのか、父母が呼んで教えてあげる必要はありません。昆虫も教えてあげなくても上手にしています。まして万物の霊長なのに、何を教えるのでしょうか。神秘的なベールに覆われているものを、主人になって開かなければなりません。しかし、そのような道理の原本、教育の原本が出てこなかったので、統一教会で教えるのです。ですから、夫婦になるためには、子女の愛と兄弟の愛をみな備えて、万人を愛する男性の代表と女性の代表が出会わなければなりません。宇宙的な男性と女性、左弦と右弦の代表になって一つに束ねられるのです。縦的な神様の愛と対等な価値として束ねられるのです。
第2節 理想的な夫婦と父子関係
理想的な夫婦の愛
真の愛は直短距離を行きます。縦的な愛は九〇度の一点しかありません。九一度も八九度も直短ではありません。唯一、最短距離は九〇度しかありません。垂直は九〇度を通らなければならないのです。男女の真の愛も垂直に行かなければなりません。最短距離を通るためには、九〇度以外にはありません。兄弟の愛も九〇度です。これを切り取って、どこにもっていって合わせても、みな合致するのです。ここには損失がありません。「天地」が「地天」になっても、「父母」が「母父」になっても、「兄弟」が「弟兄」になってもかまいません。反対になっても大丈夫であり、混ぜ合わせてもみな合うというのです。そこから理想郷が広がります。ですから、祖父母の愛は「私」のための愛であり、「私」が兄弟を愛するのは、その祖父母の愛を証するためです。また、「私」は、父母の愛を実証する人です。夫婦になって父母を迎え、息子、娘と一緒に暮らしたい、そこが家庭です。そのような家庭をもてない人は、天国の家庭をもつことはできないのです。
統一教会の家庭は、家庭天国を完成しなければなりません。家庭天国を完成すれば、間違いなく地上天国が形成されます。未来の天国に対する実感を現在の立場で刺激させようとするので、不可避的に相対が必要なのですが、それは、家庭で相対によってその刺激を受けることによって、未来の天国理念をきょうの生活感情で体得できるからです。それを体得するために夫婦が必要なのです。その刺激によって夫婦が永生することができます。発展は刺激がなければできません。夫婦の愛は、理想天国を建設できる刺激を与えるのです。言い換えれば、未来の喜びを現在圏内に引っ張ってきて、刺激を与えて推進力を補給させ、その場まで行かせるのが夫婦の愛です。その愛の中には国の愛も入っていて、世界の愛も入っていて、神様の愛も入っています。したがって、その愛はどこでも無事通過なのです。
女性は一人の男性を愛しますが、世界の男性を代表した男性として愛さなければなりません。その男性は、父を代表し、兄を代表し、弟を代表したものです。夫を父のように考え、祖父のように考え、兄のように考え、弟のように考えなければなりません。このような関係を通して、父を愛し、祖父を愛し、兄を愛し、弟を愛することのできる女性であってこそ、相対を得ることができます。全世界の男性をすべて愛することができる心をもち、その結実のような男性を自分が抱き、愛するのは、世界の男性を代表して愛するのだ、という観をもたなければなりません。それが人類愛です。「私」の父のように、「私」の兄や弟のように、万国を超越して、心をもつようになれば、国境を超越して愛することができるその人は神様の娘だと言うことができるのです。
真の夫とは、どのような夫でしょうか。「私が生まれたのはあなたのために生まれたので、あなたのために生き、死ぬのもあなたのために死ぬだろう」と言う人です。真の妻も同じです。「私が生まれたのもあなたのために、私が生きるのもあなたのために、また私が死ぬのもあなたのために!」と互いに通じ合いながら、自らを越えて相手のために生きる原則をもった家庭ならば、この家庭は理想的な家庭であり、愛の家庭であり、幸福の家庭であり、平和の家庭に間違いありません。
男性がいくら優れているといっても、男性が生まれるようになった動機は、男性自身にあるのではありません。女性のために生まれたというのです。その反対に、女性が女優のように美人だと自慢してみても、女性のために生まれたのではありません。ですから、真の愛、真の理想、真の幸福の妻と夫はどこにいるのでしょうか。妻のために生まれ、妻のために生き、妻のために死のうとし、妻もやはりそのようにするとき、理想的な夫婦が現れるのです。この原則に立って考えてみるとき、理想的な人、幸せな人、愛の人、善の人は、どこで探し出すことができるのでしょうか。自分のために生きる人からは探し出すことはできず、人のために生きようとする人から探し出すことができるのです。
アダムとエバが立てることのできなかった基準を立てなければならない祝福家庭なので、神様の愛を中心として連結されなければなりません。ところが、皆さんは神様の心情を中心として、互いにどれほど絶対視しましたか。互いに絶対視して絶対的な愛で愛さなければなりません。このような愛を中心として一つになって、和動の中心体にならなければなりません。夫婦同士は、前方の山を跳めながらも、あの山が生まれたのは誰のためかを尋ね、全宇宙を考えながらも、この宇宙が生まれたのは誰のためかを尋ねます。すると、「私」のためであると同時に、あなたのために生まれたものだと答えるのです。夫婦とは正にそのようなものです。この宇宙が生まれた目的を成就させ、主体的な目的を重要視することが、夫婦が一つになる道です。夫婦は心を中心として、人格を中心として、愛を中心として会話するのです。夫婦は同じ道に行くのです。田舎育ちの娘でも、大臣と結婚すれば同じ道に行きます。その田舎育ちの女性が小学校も卒業していないとしても、すべての人が「大臣の奥様だ」と言いながら頭を下げなければなりません。このように夫婦は一緒に行くのです。夫婦であるのに、あなたの愛が別にあり、「私」の愛が別にありますか。あなたの愛であり、「私」の愛です。君の愛であり、「私」の愛なのです。
夫婦が互いに愛し合うときに、いつまで愛するのかと尋ねるとき、若かった時まで愛すると言えば気分が良いでしょうか。死ぬ時まで愛するように願うのです。その次には、永遠に愛することを願うというのです。永遠は未来を中心として全体を身代わりするのです。死ぬ時まで愛するということは、自らのすべてのものを与えて愛するということです。「永遠に」は、全体的であり、「死ぬ時」までは、すべてを愛するということです。それでこそ喜ぶのです。娘たちが嫁入りすれば、間違いなく夫に「あなたは私を愛しますか」と尋ねてみるでしょう。愛すると言えば「私のすべてを愛しますか、一部を愛しますか」と尋ねたとき、すべてを愛すると答えてこそ、気分を良くするというのです。男性もそうです。神様の調和がそうなっているというのです。
互いがみ旨を忘却して自分たちだけで愛し合いながら生きたとすれば、天の前に恥ずかしさを感じなければなりません。これが祝福家庭の夫婦生活です。み旨を前におき、自分たち同士で闘係を結び、自分たちだけの幸福を求めて家庭をやりくりしていく立場に立てば、発展できないのです。絶対に発展できないというのです。したがって、家庭に良いことがあれば、それは国と、世界と、天と関係を結ばなければなりません。その家庭の喜びは、国の誇りであり、世界の誇りであり、天の誇りでなければなりません。
互いが愛し合い、互いがために生きるようになれば、被造世界が互いにために生きようとするので、天運の福が自動車よりも速くついてくるというのです。行く道までも闘拓して飛んでいくというのです。ために生きて天理の道理に従ってために生きる夫婦は、天地が保護するので、滅びずに栄え、繁盛するのが天理の道理です。真の愛の夫婦になり、その次には真の血統の種を生まなければなりません。真の愛を中心として夫婦が一つになり、父母の伝統を相続した子女を生むようになれば、家庭の定着です。神様の一心、一体、一念、一和の本性と永遠の主流である愛の絶対性と一つになり、同じ信仰を中心として、その拡大のために絶対信仰、絶対愛、絶対服従で投入して忘れながら暮らせる人は、天理大道のモデルとして生きているので、滅びても栄えるのであり、栄えても栄えるのです。サタンは存在することができません。
理想的な父子関係
子女を生み育ててみた父母たちは分かるでしょう。大切にかわいがっているその息子、娘を通して福を受けたいと思い、幸福を感じたいと思うでしょう。また喜び、福を受けることができる基準があれば、その息子、娘に永遠に残してあげたいと思うでしょう。そのような希望の心をもって息子、娘が美しく育ち、万国から尊敬され、万世にわたって称賛される息子、娘になることを、堕落した人間でも願っています。夜も昼もその息子、娘が傷つかないかと保護し、切ない心情で気をもむのが父母の思いです。堕落した父母の心もそうだというのです。子女が大小便をして臭いがしても、愛でその環境を忘れられるのが父母の心です。皆さんが赤ん坊を抱いて育てるときに、寝床で歌を歌ってあげ、話もしてあげ、すくすくと育つことを願うその心は、父母なら誰もがもっているでしょう。いくら愚かで不足な子女でも、その子女に足らないところがあれば、父母の心は、その胸がいっぱいになるほど最高の苦痛を感じるのであり、これが解決すれば、その苦痛に反比例して喜びが同伴するのです。
力では一つになりません。力の強さで一つになるとすれば、その世界はいつも力が強い人が主管するようになります。しかし、愛をもってするときには、大きな愛をもった人が与えなければなりません。愛の大きな人がために生きなければならないのです。上にいる人が下のために生きなければなりません。主管するのではなく、ために生きて一つにするのです。ですから、母がじっとしていれば、子女たちが来て、母の懐にただ駆け寄るようになります。それは愛でのみ可能です。父母がいくら困難で苦痛を感じていても、愛する子女が愛の懐に抱かれれば抱かれるほど、力が生じるようになります。もっと困難で苦痛を感じなければならないのに、反対に力が生じます。そこからは喜びが出てくるようになります。疲れ果てていても、愛にぶつかることによって、力が出るのです。
父母の心情について見てみるとき、母親の顔がきれいだったとしても、その母親が抱いている赤ん坊を見て、通っていく人が「その子は、奥さんより何千万倍もきれいだ」と言えば、その母親は喜び、うれしく思います。それは、母親がその赤ん坊より何千万倍も醜いという話です。しかし、そのような話を聞いて、「なんですって。私より何千万倍もきれいなら、私は何千万倍も醜いという話ではないか」と言いながら、食ってかかる母親はいません。ただうれしくて、どうしていいか分からないのです。これが母親の気持ちです。そのような心は誰に似たのでしょうか。母親は結果的存在であって、動機的存在ではありません。息子が父親より劣ることを願う家があれば、その家は滅びるのです。父親は大統領なのに、息子がそれより劣るときは、何代か過ぎていくうちにその家はだんだんと衰退していくのです。最後には、恥ずかしくて穴があれば入りたくなるような身の上になります。
父母が子女を愛する、その愛の起源と動機はどこから始まったのでしょうか。男性と女性を中心とする愛は変わる愛ですが、そこから生まれた息子、娘を中心とする愛はなぜ変わらないのでしょうか。これは、その男性と女性を中心とする愛を起源とするものではなく、横的な夫婦の関係によって出てきたものではなく、縦的なある流れの起源を通して出てきたからです。そのような縦的な愛の主体とは誰でしょうか。そのような主体を、私たちは神様といいます。変わらない愛の主体として、縁をもち得る関係において、連続的に相対を追求する本然の位置に立っている、ある絶対的な主体を必要とするのです。その愛は、夫婦が自分勝手にできる愛ではありません。その愛の前に「私」がしたければして、したくなければしない、そのような愛ではありません。それは切ろうとしても切ることができません。横的な人間としては、どうにも手をつけることができないのです。ですから、父母が子女を愛するその愛は万古不変です。
父母は、子女のへその緒が離れる瞬間、子女を愛する心が自然に発生するのです。すべての生物は、いかなる上下も問わず、自分の子を愛さざるを得なくなっています。愛するときに、生命を投入して、生命を踏み石にしてでも愛したいと思う作用があるのを見るとき、万古不変に近いものが父母の愛です。それは絶対性を求めていくときに、絶対それ自体にはなれませんが、人間に一番近い踏み石にはなることができます。たった一つの足場になり得るのです。これが人間の世の中において、それでも永遠の足場になっています。そのような父母の愛は、どこから来たのでしょうか。それは、父から何か勧告を受けて学んだものでもなく、自分の相対から忠告を受けて学んだものでもなく、自分自身がそうしなければならないと考えて出てきたものでもありません。自然にそうなったのです。愛というものは、自然にそうなるところで成立するのです。
先生が幼かった時、鳥の巣を本当にたくさん観察しました。すると、小さな鳥たちは、体の大きな人が上って巣を観察する所にもやって来て、やたらにつつきます。そのようなときは、命懸けなのです。追い払えば、飛んでいったあと、またやって来てつつきます。そのようなものを見るとき、自分の生命を越えて愛する子を保護しようとする、動物世界の力があるのを否定することはできません。人も同じです。愛のために生命を投入することができなければなりません。そのような人が真の人です。本当に善の人とは、どのような人でしょうか。愛を根として自分の生命を投じていきながら、愛する人を保護しようとする人です。
子女に向かう父母の愛の限界点とはどこでしょうか。父母は、子女が幼い時にだけ愛そうとするのではなく、生涯を通して、さらには永遠を通して愛そうとするのです。愛することによって、希望を感じることができ、愛することによって、一層価値を感じることができる父子関係が結ばれるとすれば、無限の力と無限の刺激と無限に新しいその何かが、その関係圏内で発生するというのです。
愛はどこから出てくるのでしょうか。自分からではありません。それは父母から出てきます。愛の起源は自分ではなく、父母だからです。原因のない結果はありません。愛を中心としては、主人は自分ではないということが分かるので、自分を前に立ててはいけません。ですから、父母の前では「はい、お父様、お母様、そうです」と言うのです。父母が「お前にいくら名声があり、力が強くても、父母の前では果たすべき道理に外れることはいけない」と言えば、「はい、お父様、お母様、そうです」と言うのです。愛があるからです。父母は主体であり、子女は対象だからです。主体は対象のために生き、対象は主体に従わなければならないのが天理の原則です。これを破綻させる日には、その家は全くの無価値な結果に落ちてしまいます。この天理の原則というものは、いくら無知な人間だとしても、天性によって生まれたので分かるのです。ですから、いくら外的に力の強いチャンピオンだとしても、父母の前では頭を下げなければなりません。
何より父母の愛が最初です。その愛を動機として、その愛で円満に育った人ならば、愛がどのようなものかということが分かります。父と母の間にある愛がどのようなものかということを、父母を通して学ぶようになります。父が母を愛し、母が父を愛するその事実は、子女たちには二つとない喜びになります。ですから、個々人において縦的な立場、すなわち一対一の立場に立って愛を受けることができ、体恤することができるのは、父母をもつ立場でなければなりません。また父母たちは、一対一の立場だけでなく、一人の息子なら息子を中心として、一対二の愛を与えることができます。一対二の愛を受けることのできる立場が子女の立場です。
息子、娘たちが父母に対して、「うちの父母は世界で一番良い人だ。神様に代わる存在だ!」と言わなければなりません。二人の間の終始一貫した変わらない心と愛を見て、子女たちが「その愛を見習って子女である私たちも一つになろう!」と言うとき、理想的な家庭が形成されます。心と心情が一つになる相対を訪ねていくのですが、もし結婚を通してこれができなければ全体が破壊され、全体が全滅するのと同様なので、それを何よりも尊重し、それを立てるために何よりも努力するのが男性の行く道であり、女性の行く道です。ですから、父母も神様の心と神様の愛に一致し、子女たちも父母に似て神様の心と神様の愛に一致し得る家庭にならなければなりません。
先生は、神秘的な境地に入っていき、宇宙の根本とは何かと尋ねてみたことがありました。神様からの答えは、「父子の関係だ。父と息子だ」というものでした。一般の人であれば、自分を生んでくれた父と母と考えやすいのですが、父母と息子、娘が出会える最高の場所とはどこでしょうか。愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心で出会うのです。そのように見ると、愛と生命と理想が一つの場にあるというのです。その場に行けば、神様も愛であり、「私」も愛であり、神様も生命であり、「私」も生命であり、神様も理想であり、「私」も理想になるというのです。それを決定することのできる最初の関係と最初の統一の場所が、父子関係が形成される場です。皆さんが父母を通して生まれるためには、父母の愛が芽生えなければなりません。互いに相対的関係が成立しなければなりません。ですから、その愛の環境において生命の一致点で生命が連結されなければならないのです。夫と妻が互いに嫌いだというのではなく、互いが理想的でなければなりません。夫婦が愛を結んで一つになってこそ、夫婦の愛が形成されます。夫の愛は「私」の愛であり、夫の生命は「私」の生命であり、夫の理想は「私」の理想になるのです。
神様の種は、創造理想の種ですが、それが子女です。夫婦同士でいくら鳩のように仲良く暮らすとしても、それは一代で終わります。息子、娘がいなければ父母になれません。女性は男性がいないときは、男性を愛するということが分かりません。男性も女性も、愛が何か分かりません。愛が分かるためには、相対が絶対にいなければならないのです。神様が望んだ願いの標準的な結実体が、相対だというのです。それでは、その相対が自分より劣ることを願う男性と女性がいるでしょうか。父母は、息子、娘が自分より劣ることを願いますか。また息子、娘は、父母が自分より劣ることを願いますか。みな自分より立派であることを願うのです。