天聖経訓読室

第4節 心情と心情文化世界

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「心情」は、「心の情」と書きます。心の情がある所は、どこでも心情圏に属するのです。神様が人間を造ったので、神様の心情の流れが既にそこに内的に連結されているのです。神様の愛の電気が通じるのが心情圏です。心情圏に対する体恤とは、その電気を「ああ!」と感じることです。心情体恤はどれほど強いかを感じることなのです。良いかどうかを感じるのです。心情圏というのは、すべてのものが通じる内容をもっています。この心情圏に属さないものはないというのは、どこであろうと心情的電気が通じるということです。

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母親が自分の赤ん坊を生んだとしても、隣村の乞食、もしくは貧民の息子、娘がお乳を飲めずにいれば、彼らに自分の息子、娘のようにお乳を飲ませてあげてこそ、心情が生じるのです。心情とは、そのようなものです。自分の息子、娘のように愛することができ、世界を越えてでもその愛を実践してこそ、心情の世界が訪れます。情の世界が訪れるのです。村に数多くの息子、娘が生まれれば、彼らを自分の息子、娘よりもっと愛することができ、自分の息子、娘を愛したのと同じ心情をもってこそ、心情の世界、解放の世界、神様が訪ねてくることのできる世界になるというのです。彼らを同じ体のように愛さなければなりません。

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心情は、生活観念など、あらゆるものを通過できる内容と力をもっています。生命の根源の位置にあるのが心情なので、生命を否定したとしても、心情を否定することはできません。存在を否定したとしても、心情を否定することはできません。心情は存在以前のものです。ですから、神様は愛だという結論が出てくるのです。私たちは、心情を見たことがありません。心情は長いのか、丸いのか、高いのかと問い掛けてみても、答えることができません。しかし、愛する人が離れていけば、慕わしさがいっぱいにあふれてくるというのです。神経の最高の触感までいっぱいに満ちてくるのです。心情は五官で測ることができません。人間の心情でもこのようなものだとすれば、絶対的心情の主体であられる神様と関係をもってその心情に接した人はどうでしょうか。これは、表面には現れませんが、存在するのは間違いありません。そのような心情主義、心情理念を中心として、新しい世界に向かって進もうというのが統一勇士です。

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統一教会で言う心情とは、人類が共に願う希望の心情であり、万民が関係を結ばなければならない心情であり、神様が今まで探してこられた心情です。その領域においては天地を包括することもでき、全体を包んで余りある心情のことを意味しているのです。そのため、天の勇士になろうとすれば、第一に、この心情に通じなければなりません。その次に、愛が問題です。ところが、アダムとエバは、堕落することによって、神様の心情が分からなくなりました。アダムとエバが人格を完成して神様のみ前に近づいていたならば、神様は、彼らを祝福してくださり、彼らに御自身の心情を相続させてくださったでしょう。神様は、愛と心情が通じる天的な夫婦を通して、血統的な家庭をつくろうとされたのです。本来、アダムとエバは、このような途方もない神様の心情を相続し、心情の基盤の上に人類の真の始祖にならなければなりませんでした。そのような心情の土台を失ってしまったのが堕落です。そうして、神様の心情を相続できなくなったのです。神様の心情を失ってしまい、神様の心情に似ることのできる人格を失ってしまい、人格の上に立てられるべきみ言の目的を失ってしまったというのです。

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人間が堕落することによって、この世界に国境が生じました。根が変わり、文化背景が変わりました。神様が思いどおりに出掛けられる文化圏になれなかったのです。サタンの文化圏です。アダム文化圏ではありません。一つの根、一つの血統を中心として、一つの心情的基盤を築き、東西南北の立体的な球形までも管轄できる愛の理想圏に私たち人間が生きることができず、反対の位置にとどまるようになったのです。そのため、今日、私たちは、本然の理想圏に帰らなければなりません。

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歴史の流れとともに、すべての文化は発展してきています。今日の文明は、賑やかで華やかな世界をつくっています。しかし、これが私たちの体と心の問題、心情問題を解決するには、何の助けにもなっていません。外的には複雑な環境と複雑な組織形態が現れましたが、その全体と「私」の心情が通じずに、すべてのものと和合できないのが実情です。天地が共に楽しみ、天地が共に声を上げてくれる基準をもつことができていない世の中だというのです。今日のこの時代は、心の指向する方向と心情が求めている方向が、全く違う形で流れていっています。人間は、いつでも心と理念に通じる心情を求めるので、そのような心情に対して外的な生活に通じる体を調整する、ある基準が立っていなければ、人類はいつの時代であっても、あえぎ苦しむ立場から抜け出すことはできないのです。神様が目標とする世界は、現世の文化世界と文明世界ではありません。心の基準と心情の基準を立てて文明を治める世界が、神様の願われた世界であり、私たちの先祖たちが後代の万民に残さなければならない世界なのです。

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今日の世界は、神様が訪ねてこられる外的な世界形態は備えられていますが、心情の世界は備えられていません。この世界は、事情の通じる環境にはなっていますが、心情が通じる環境にはなっていないというのです。これから神様が訪ねてこられるとすれば、心情をもって訪ねてこられるでしょう。この世界を代表し、世界人類を治めることができる民族がいるとすれば、神様の心情を伝統として立てていく民族です。また、人の心と人の心情を通して出てくる文化が世界を治めるのではなく、神様の心情を通して出てくる文化が世界を治めるでしょう。最後の問題は、そこにあるというのです。心情が通じる世界、心情の世界を完成した最終目的の世界を探し出すまでは、皆さんがここで荷物を解き、永遠の安息の生活をすることはできないのです。

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神様が目標とする世界は、どのような世界でしょうか。現在、私たちが目にするこのような文化の世界ではなく、文明の世界ではありません。文明を正しい方向に指導できる心の基準、心情の基準を立てるのが、天が願う中心のみ旨であり、私たちの先祖が後代の万民に立てようとした基準の世界です。

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万民が平和の世界を望んでいます。その世界は、今日の世界の先進国が追求していく文化を通して成し遂げられるのではありません。真の父母を通して成し遂げられるのです。真の父母がいくらむしろをかぶり、占びたふろしきを背負って、色あせて擦り切れた服を着ていたとしても、また千丈、万丈のくぼみから疲労困憊しながら出てきたとしても、堕落した人間は、その真の父母を中心として、神様の心情を学ばなければなりません。統一教会は、心情の道理を教える所です。皆さんは、神様の心情に接ぎ木しなければなりません。

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慕わしさは、愛を抜かしては生まれてきません。その愛は、人間的な愛ではなく、永遠の安息と、永遠の生命の源泉である神様の愛でなければなりません。そのため、他の宗教よりもキリスト教は、愛の宗教としてその使命を果たそうとするのです。宗教の目的は、心情世界の法度を遵守し、生活感情に相対する宇宙万象のあらゆる道理を管轄する権限をもって人格者を培うことです。木石のような人たちであっても、神様は、六千年間、人間を慕う心情の基準を立てて摂理してこられました。歴史は千態万象に展開してきましたが、神様は、アルファでありオメガの立場で、終始一貫して慕わしく思い、その心情を失われなかったのです。そのような神様の心情と違いがあるとすれば、その人間は敗北者であり、歴史路程における落伍者なのです。

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多くの人々が、復帰過程において、サタンの讒訴を受ける圏内で天国を味わったかもしれませんが、サタンを取り除いた中で、本当に永遠の平和の祖国、天国の味を体恤した人はいないのです。本当の天国の味を感じ、神様の愛を感じた人は、サタンと闘わなければならないという刺激を受けます。そして、本当の天国の味を感じ、神様の愛を一度受ければ、神様から再び離れることはしないのです。このように神様の愛を体恤した人が、この地に現れなければなりません。神様の所有が決定されるべき限界線は、どこまででしょうか。それは、一株の草から、一坪の土地から、一つの世界から、最も末端から出発して天国まで、さらには神様の心情世界までです。

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私たちが願う本郷は、皆さんの故郷のような所ではありません。本郷は、心が楽しめる「私」の心情の安息所であり、心情世界の住み家です。天が私を訪ねてくれるというとき、私は神様に、「事情的な条件よりも、心情的な条件として私を訪ねてください」と言うでしょう。それは、事情が千態万象になり得る反面、心情はただ一つの条件しかないからです。

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心情の世界は、いかなる制約も受けません。しかし、心の世界は制約を受けます。心は相対的な条件いかんによって制約を受けますが、心情の世界は制限する人がいないのです。父母が子女を愛する心を、いかなるものが制約できますか。いくら泰山のような障壁が前を遮っても、それをくじくことはできないというのです。心の世界は制約を受け得るのです。心の世界は相対的な立場であり、心情の世界は主体的な立場です。心は相対性をもっているがゆえに、制約を受けるのです。しかし、心情の世界はそうではないというのです。

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神様のみ旨の中において、心情の先祖は誰でしょうか。統一教会の教会員は、心情世界において神様の骨髄にしみ渡った悲しみを知っています。神様の口惜しさと悔しさを知り、またこの怨讐世界を一時に審判してしまえる気概をもっていらっしゃる神様を知っているというのです。そのような意味で、統一教会の教会員が心情の先祖だというのです。

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心情世界が別にあるのではありません。愛の基準は心情理想です。心情が重要なので、大宇宙の共通分母のような愛の勝利圏が、私たちの生活圏内に連結されるのです。愛の橋が連結されていくのです。そうして、世界にいるすべての万民に橋を架け、地上世界から地獄を通して天上世界にまで進んでいくのです。

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皆さんが心情世界に到達できるただ一つの道は、神様の歩んだ道と先生の歩んだ道の足跡についていこうという姿勢をもつことです。そこでのみ、心情世界を体得できるのであって、他のところでは体得できません。この場に来るまで、どれほど涙を多く流したか、皆さんは分からないでしょう。この道を歩むのが、どれほど苦痛で、どれほど悲痛だったかという事実を知らなければなりません。

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愛する人には、すべてのものを与えても、もっと与えたいのです。与えて、また与えて、また与えたいのが真の愛です。無限に与えても満足できなこを連結させたのが、真の愛の心情世界です。そのような本然的主人になり、根となる神様がいらっしゃるので、神様の理想的対象は神様よりも何億万倍、上になる位置にまで行かなければならない、このような人間の価値を考えた人がいないのです。

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今日、数多くの宗教が主張した世界的な思潮も、過ぎ去ってしまいます。最後に再臨主として来られる新郎を中心として、新婦たちが出会う新しい世界文化圏時代が来ます。その世界は、言語も統一され、生活も統一され、行動も統一され、願いも統一され、心情も統一された時代です。そのような統一文化世界を通して一つの世界に収拾されるので、その基準を見つめながら出発したのが統一教会です。

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心情文化世界を創建するために、私たちは、真の愛と真の父母思想の教育を通して人格を涵養し、神様の祝福のもとで真の愛の家庭を築く運動を、さらに広げていかなければなりません。生活信仰の鍛錬を通して、ために生きて投入し、また投入する真の愛の人格がつくられてこそ、理想的な夫婦、理想的な家庭が成し遂げられるのです。この道だけが極端な利己主義と個人主義、物質主義の惰性から抜け出し、人類に明るい未来を期待できるのです。

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今後、理想的な世界の主流、もしくはその基礎になる文化の源泉であり、原料になる文化として、誰もが必要とする文化は心情文化です。父母に子女がいなくても駄目であり、子女に父母がいなくてもいけません。兄弟がいなくてもいけません。「私の民族」がなくても駄目であり、「私の国」がなくてもいけません。「私の世界」がなくても駄目であり、「私の天地」がなくてもいけません。これが心情の文化世界です。ですから、東方に明ける輝く文化は、心情の文化です。これから私たちは、心情的な文化世界を創造するのです。

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到来する未来世界は、神様と人間と万物が調和を成し遂げる新しい心情文化、真の家庭による愛の文化の世界です。真の愛によって互いのために生きながら、和合、協力し、共に暮らす共生共栄共義の世界です。未来の歴史は、人類は、みな兄弟姉妹であることを念願する、人種を超越した真の愛による真の家庭、真の父母中心の真の家族理想によって「世界一家庭」の夢を実現する歴史でなければなりません。