明け方に起きれば、「私の一日の生活が、お父様の前に感謝の実体になるようにしてください」と祈りながら、花咲く春の園のように自由な園で、お父様が私を立てて摂理できる希望の結実体になろうと考えなければなりません。昼になって職場に出れば、希望の結実体が育つ夏の季節のようにもう一歩発展し、神様が共にある価値ある存在にならなければなりません。また夕方になれば、すべてを集約させ、一つの結実を父の前に捧げる秋の季節のようなときなので、祭物になれる立場に立とうと考え、冬の季節に該当する夜には、生命力をもって神様と内在的な父子の起源を結び、すべての気を受け入れられる自分になろうと考えなければなりません。そのように、一年三百六十五日を勝利の日としながら感謝する生活をする人ならば、その人は父と関係を結んで暮らすのが価値ある生活だということを感じられるでしょう。
第3節 祝福家庭の日常礼節
伝道と衣食住の生活
昼間も働かなければなりませんが、宗教的なことは夜にしなければなりません。夜が効果的です。そして、明け方に教えてあげても効果的です。そうして、一度来た人が居ても立ってもいられず、家から逃げてくるほどにならなければならないのです。皆さん自身がそのようにならなければなりません。動機がないのに結果があるでしょうか。今までできなかったならば、今よりもっと一生懸命にやり、もっとうまくやりなさいというのです。他の方法を研究しなければなりません。そして、ある所に祈る場所、聖地をつくっておき、明け方に行っては声を出して祈るのです。通り過ぎる人がその祈りの声を聞くとき、本当に神秘的に感じられるようにしなければなりません。皆さんがそれを続ければ、その村に志ある人がひそかに来て、その祈りの声を聞くのです。祈りの声が良くて、何か分からないけれども、心に響いてくるというのです。
夜十二時を越えて、一番鶏が鳴く声が聞こえるまで、み言を伝えてみなさいというのです。どれほど神秘的か分かりません。しんと静まり返った夜に、近所の犬がほえる声を聞きながら、み言を伝えてみなさいというのです。あたかも光明な陽の光を求めて、新たな人生の道を打開していくようでもあり、灯台の光を求めて新たな航海に出る船長のような気分を感じるのです。周囲がすべて、神秘でいっぱいに満ちた世界を一人で進むような勇敢な姿、凛々しい姿、荘厳な姿を感じるでしょう。このような心情的絆をもつためには、夜の時間を中心として指導しなさいというのです。夜や早朝に、このような活動を展開する必要があります。
部屋をきれいに整頓し、服を掛けるのも原理的に掛けなければなりません。男性の服は右側、女性の服は左側に掛けなければなりません。服を入れるのも、男性の服は上に入れ、女性の服は下に入れるのが原理的です。そのような訓練が必要です。そのようにしなければなりません。男性の服を下に入れ、女性の服だけを上に入れれば、原理に背くことになるのです。
服を脱ぐときも、ズボンをまず脱ぎ、上着をその上に置かなければなりません。そのような原理的生活をして、環境を整理できなければなりません。男性の靴は右側、女性の靴は左側、また男性の靴は上、女牲の靴は下に置かなければなりません。そのように、すべて原理的に整理できなければならないのです。
「笑うこと」は、本当に不思議です。にこっとするのも「笑うこと」です。笑えばどのようになるかといえば、すべてのものが丸くなっていきます。祖父が大きく笑うときは「ほほほ!」と笑うのですが、上がり続けるのではなく、最後は「かっかっかっ」と曲がるのです。なぜ曲がるのでしょうか。上がり続けながら笑えばいいのに、なぜ曲がるのかというのです。丸くならなければならないからです。にっこりと笑うときは、口元が上がるのですが、「ははは!」と笑うときは口が丸くなるというのです。そのため、口を丸くして笑う人には悪い人がいないのです。
男性も女性のように、髪の手入れをしっかりしなければなりません。身だしなみを整えるのもそうであり、髪も自分で見て、分け目を左側にするのか、右側にするのか、把握しなければなりません。西洋も東洋もそうですが、すべて左側を分けます。これは、西洋風ですが、大概、左側を分けるのです。これを女性はよく考えなければなりません。
歩くのも、端正に歩かなければなりません。歩く姿がバランスが取れていなければなりません。歩く姿がバランスが取れているかというのです。安全に歩かなければなりません。ある人は少しかがんで歩くのですが、歩くのもバランスが収れていなければなりません。そのようなことが必要です。
女性がどこかに行って座るとき、東洋の場合は絶対にもたれて座ることができないようにします。男性はそのように座るのを許すのです。なぜなら、女性はお尻が大きいので、座れば自動的に楽になるというのです。男性はお尻が小さくて上体が大きいのです。女性がもたれて座れば、赤ん坊に支障があります。妊娠すれば、大変なことになるというのです。
健康が第一です。いくら具合が悪くても、他の人が何も分からないような表情が必要です。風邪を引いただけでも具合の悪い表情をし、少し大変なだけでも苦しそうな表情をするのですが、そのようにしてはいけないというのです。夫が心配そうなそぶりを見せても、「何か心配なことがありますか」と言いながら、慰労できなければなりません。いつも健やかな表惰が必要です。
人倫は、情を通して形成されます。家族関係や道徳観念、社会制度、秩序というものは、すべて情緒的なものです。先に感じた惰が長く続いたり、次元が高かったりすれば、人々はそこに頭を下げるのです。人倫形成の動機は情からです。父母が子女を愛するところから人倫は始まります。子女が父母を愛するところから、真の人間関係が成立するのです。
皆さんは、父母が好きであり、必要としています。いつも父母に会いたいと思い、一緒にいたいと思います。それは、年齢で見ても差があり、秩序的段階を見ても上下の関係があるからです。ですから、そこには礼を備えて尊敬し、孝行しなければなりません。このようなすべての社会生活の人倫道徳的な内容を備え、上下関係において、一つは主体であり、一つは対象の位置に立たなければなりません。ここで孝子になろうとすれば、従順や服従という内容を介在させて、自分が会いたいと思わなければなりません。これが父子関係です。
人間が貴いのは、人倫道徳があるからです。人倫は、人と人の関係を意味します。一人の人を指して「人倫」という言葉は使いません。「人倫」という言葉は、二人以上になってこそ成立するのです。男性と女性が結婚した家庭から、社会の倫理という言葉が成立します。倫理は人間関係の道理であり、法則です。
私たちは、超民族的、超国家的な新しい伝統を立てていかなければなりません。その伝統を私たちの思いのままにするのではなく、神様が願うとおりに、伝統の相対的基盤を築いていかなければなりません。皆さんの習慣性や過去の風習、現在盛んになっている流行に歩調を合わせるのではありません。完全に違うというのです。
聖塩と聖燭による聖別生活
聖塩は麹と同じです。物を買ったときに聖別し、外で過ごして家に戻ったときも、門の所で聖別するのが原則です。聖別した物をサタン世界に差し出してはいけません。避けられないときは、左手であげなさいというのです。聖塩は十字(北南東西の順)にまくのです。
私たち食口は、すべての物を聖別しなければなりません。聖塩をまいて聖別するのは特に問題がありませんが、御飯を食べ、麺を食べ、水を飲むというときに、いつ聖塩をもってそのようにできますか。それでは、どのようにするのでしょうか。イエス様が復活したあと、「フッ」と吹きながら「聖霊を受けなさい」と言ったのと同じように、そのようにすればよいのです。アダムを造って、鼻に命の息を吹き入れて実体の新しい生命を誕生させたのと同じように、これからは皆さんも生命の実体を身代わりし、水を飲むとか、御飯を食べるときは、三回息を吹いて食べなければならないというのです。韓国の風習は不思議です。水を飲むときも、必ず息を吹きかけてから飲みなさいというのです。また座るときは、息を吹きかけて座ります。それは、天がこの民族の前に実践できる自然な良心を動かして、私たちに一つの風習として残してくれたのです。これは、すべて偶然にできたものではありません。そのため、心でいつでもそのような聖別をしなければなりません。蘇生、長成、完成、六千年の非常に長い時代を三時代として経てきながら汚したものを聖別するために、私たちは、三回息を吹きかけて食べなければならないというのです。
喜べる万物にならなければ、喜べる人が生まれません。堕落した圏内で悲しみの万物になったので、喜ぶことのできる万物にしてあげようというのです。このようにするためのものが聖塩です。聖塩によって聖別するのです。何によって万物がそのように汚されたのでしょうか。父母によって汚されたのです。聖塩は、真の父母が現れるときから、真の父母様の聖婚式場から始まりました。堕落した父母の愛から、すべての物が汚され始めました。それで、聖塩は真の父母様の愛を中心として、聖婚式場から出てきたのです。聖塩は、新しい愛の関係が縦横を中心として出発した土台の上で始まったので、堕落した悲しみのすべての嘆息圏を取り除き、新しい希望の世界に越えていける絶対的な条件物です。ですから、サタンも聖塩をまけば逃げていくというのです。
今まで理想世界が引っ掛かっていたのですが、それを私たちが代わりに贖罪し、責任をもとうという意味で、「愛天日」を宣布しました。興進君が霊界に行くことによって霊界の地獄の門が開き、地上で地上地獄の門が開きました。そうして、天の圏に通じることができるようになりました。霊界地獄世界や地上地獄世界、監獄の世界まで通じることができるのです。イエス様が亡くなったのち、三日間地獄に行って門を開いたのと同じように、先生が三日間で地上地獄の門を開いたというのです。イエス様が十字架ですべて失ってしまったのを、このことによってすべて取り戻すというのです。愛天のろうそくの火は、イースト・ガーデンでつけてきました。一九八四年五月十六日に宣布したのですが、そこでこのろうそくをつけてきたのです。愛天のろうそくは、家庭をもった人だけがともすことができます。独りのときはできません。結婚してこそ、できるのです。これは、愛の父母様を中心として天と一つになることにより、愛の主管権が広がるのです。その主管権のための一つの象徴的なろうそくなので、結婚した家庭がともすのです。
愛天のろうそくは、国と世界に重要な問題があり、自分の家庭に重要な問題があり、自分の一族に重要な問題があるときに使用するものです。家庭の祖父、祖母や、父母や自分の家庭すべてが一つになり、このろうそくを中心として愛の主管圏が形成されるように祈るのです。そうすれば、そこにはサタンが侵犯できません。このように分別されたろうそくです。この光が届くところには、神様と父母様が共にいると思い、愛の主管圏が形成されると思わなければなりません。聖別されるというのです。父母様を中心としてこれを始めたのですが、皆さんがこれをもつことによって、皆さんの家庭まで連結させるのです。これからろうそくをもてば、恥ずかしいことがあってはいけません。そうでなければ、このろうそくをもつ資格がないのです。ろうそくを見れば、芯を中心として自分が犠牲になるという意味があります。天を中心として人類が一つになり、一つの光を発するためには、犠牲にならなければならないということの象徴にもなります。火がつくのは、ろうそくでもなければ、芯でもありません。ろうそくと芯が合わさって火がつくのです。皆さん夫婦も、主体と対象が犠牲になりながら光を発しなければならないということの象徽にもなるのです。そこにはサタンが存在できません。そうして、父母様が「愛天日」を定めた基盤を中心として、世界的にすべての祝福家庭を連結するのです。この愛天のろうそくには、天が主管するという意味があるのです。
祝福中心家庭の報告祈祷
二〇〇一年正月の一日から、祈祷が変わります。「祝福中心家庭、誰々の名によって祈ります」と言うのです。すべて蕩減し、長子権復帰、父母権復帰、王権復帰をしたのです。アダムとエバが、堕落の因縁がなかった解放的時代に入っていく立場で、主体的な自分の家庭を築かなければ脱落します。アダムとエバが堕落したとき、即刻、処断しました。皆さんも、夫が誤れば即刻、妻が誤れば即刻、自分と関係を切れる時代に入るのです。
父の前に相対的な立場で、すべてのことを喜びで報告できる時代が来るので、「真の父母の勝利圏を祝福によって受け継いだ誰々の名によって」と祈る時は過ぎ去りました。これからは、「祝福中心家庭、誰々の名によって報告いたします」と言わなければなりません。祈祷ではありません。「報告いたします」と言うのです。報告する時が来ました。報告しようとすれば、善の結果がなければなりません。乞食のように、いつも「願います、願います」と言いますか。誇るために報告しなければなりません。実績がなければ報告もできないのです。
イエス様の名ではなく真の父母の名によって祈り、今は「祝福中心家庭、誰々の名によって」、このように祈るのですが、今は報告祈祷をするのです。報告祈祷をしなければ、これから第四次アダム時代において、天の所有権の分配を受けることができません。所有権の分配を受けるためには、天の国の代表家庭にならなければならないというのです。
祝福中心家庭は、堕落世界と何の関連もありません。アダムとエバが堕落する前、神様の心情世界と連結されていた立場だというのです。それが祝福中心家庭です。それは神様の創造理想が完成した家庭として、堕落していないアダムの家庭を身代わりするのです。そのような立場では、祈りの代わりに報告を捧げるのです。完成したアダムの家庭では、祈りをする必要がなく、報告を捧げればよいというのです。日ごとに報告を捧げながら理想世界を成し遂げていくことが、完成したアダム家庭の進むべき道です。そのような新しい何かがなければ、報告をすることができないというのです。そこではメシヤも必要なく、宗教も必要ありません。なぜなら、すべてのことを知っているからです。個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、そして神様の心情世界まで、すべて分かるのです。
これから統一教会は、キリスト教で言う「アーメン」を「아주」と変えます。「アーヂュ」とは、「私の家」という意味です。「アーヂュ」というのは、「我(ア)」の字と感服するすべてのことを意味します。驚く「ああ」や感服する「ああ」など、すべての恨の歴史を越えるのです。「とても(アーヂュ)良い!」と。言うのであって、「とても(アーヂュ)悪い」という言葉を使いますか。それは最高を意味します。「アーヂュ」の「ヂュ」というのは、「主」の字にもなり、「住」の字にもなります。人として主人になって暮らす最後の場です。「アーヂュ」がそうだというのです。入って住むというのです。「ああ、今や主人になったのだなあ!主人になったから、私の家に行って暮らさなければならないなあ!」というとき、「私の家」というのは神様の奥の間です。生まれるときは、神様の奥の間だけではありません。神様の妻の腹中、骨髄の中で暮らさなければならないのです。分けることはできません。「アーヂュ、私の家」と言えば、それ以上願うことはありません。神様の内的心情において、分かれることのできない永遠の一体圏を中心とする場所が「私の家」だというのです。「私の家」にもなりますが、一番深い家にもなるのです。二つの意味があるのです。
「祈った内容のとおりになりますように」というのが「アーメン」ですが、「なる」というのは何でしょうか。「私がなった」という立場に立ちなさいということです。「アーヂュ!私は、全体を祈る理想の主人になりました」という立場で祈りなさいというのです。祈る内容が私と関係なければ、「アーヂェ」と言うことができません。
「アーメン」の代わりに「アーヂュ」ですが、最高の主人という言葉です。「主(ヂュ)」です。主の上に行くということです。主は「アーメン」だけ言ったのであって、「アーヂュ」は言えませんでした。主の上に行くということではないですか。民が女王や王に出会えば、「とても(アーヂュ)良かった!」と言うのです。「アーヂュ」という言葉は、最高のものにつけるのです。「アーヂュ」というのは、三時代を頂上から突き通して主人になったということです。