神様の愛をたくさん受ければ受けるほど、大きくなっていくので、自動的に中心的な個人になり、団体になるのです。また、国民を通して愛を受けられる基盤を築いたならば、世界を動かせる国家になるのです。このような原則があるので、皆さんは、侍る生活をしなければなりません。侍る生活をするのは、神様の愛を受けるためです。神様にまず侍らなければなりません。神様の愛を受けるためには、どのようにしなければならないのでしょうか。神様は、私たち人間に完全な愛をもってこられるので、私たちは、完全な何かを投入しなければなりません。「至誠感天(至誠、天に通ず)」という韓国の格言があるのですが、それは天理に通じた言葉です。精誠をすべて捧げるというのは、内外のすべてを尽くすということです。また言行一致、すべての実践、内外のすべての生活圏までも合わせて捧げるということです。それが精誠です。
第2節 神様に侍る生活
朝、寝床から起きて最初の言葉を天のみ前に捧げ、家を出る時も右足で第一歩を踏み出し、天のみ前に捧げなければなりません。普段の習慣がこのようになれば、侍義生活になるのです。このような観点で、皆さんは、原則的な基準で生活態度を取っていかなければなりません。
侍る生活の姿勢と法度
皆さんは、現在、どこにいますか。昼も夜も、いつ、どこに行っても、先生と共に歩調を合わせなければなりません。今まで先生は、神様が行く方向に歩調を合わせつつ、すべての生命を投入しながら生きてきたのです。今や三者合一です。神様と真の父母と皆さんが一致しなければなりません。歩調を合わせなければならないのです。生死を決定する内容がかかっているので、三者が一致する点で一つにならなければなりません。そこに生命の復活圏があります。その点が、父と先生が一つになり、先生と皆さんが一つになって一致できる連結点です。そこで一心統一が起こるのです。ですから、皆さんは、み旨と一致した生活をしなければなりません。そのためには、み旨とはどのようなものかを知らなければなりません。皆さんは、これを知らないのですから、祈りなさいというのです。祈れば、必ず先生が現れて教えてくれるのです。
わずかな土地でも、「私の財産だ」と言うことはできません。すべて神様から頂いたのです。神様から頂いたので、再び返してさしあげなければなりません。いくら少ないものでも、神様から頂いたので、神様に返してさしあげなければなりません。そのようにするとき、歴史が実っていくのです。そのように受けたので、そのように与える人にならなければなりません。そのような人々の世界にならなければ、この地は天国になりません。一日二十四時間の生活圏内で、「私」が見聞きしたすべてのことは、何のためでしょうか。神様のためです。神様のために見聞きしなければならず、感じるのも神様のために感じなければなりません。私たちは、地上で生活していますが、天上世界の生活と連結させて生活しなければなりません。
皆さんが僻地の山里に入って生活するようになれば、「統一教会の食口が訪ねてくれれば」と懇切に願うようになり、また「食口の中で誰か病気なのではないか」と心配するようになるのです。そして、「自分と一番親しい食口を迎えられたらいい」、また「先生を迎えられたらいい、牧会者を迎えられたらいい」という慕わしさがなければなりません。毎日のように神様を慕うことができない人は、神様に侍ることができません。皆さんは、誰を慕うにしても、常に慕わしさに満ちあふれていなければなりません。ところが、夜十二時になると、「さあ、寝よう!」という人は、神様に心配をかけてしまう人です。天国は夜と昼がありません。心情の関係を抱いていくときは、夜が問題ではないのです。
皆さんは、おなかがすけば、「ああ、おなかがすいた!御飯、御飯、御飯!」と言いますが、誰のために食べようとするのですか。神様のために食べようとするのですか、自分のために食べようとするのですか。神様のために食べなければなりません。そのようにして、神様の完全な聖殿を造らなければなりません。「私の中にいる神様がおなかをすかせて、御飯を食べようとおっしゃっている」と考えなさいというのです。そのように御飯を食べれば、その御飯は聖なる御飯になるのです。トイレに行くのもそうであり、息をするのもそうであり、すべて同じです。聞くのも、「私一人で聞く」と考えてはいけないというのです。見るのも、触るのもそうです。「私一人でする」と考えてはいけないのです。人と会うのも、サタン世界と向き合うのも、神様が向き合うと考えなさいというのです。話をするにしても、神様が話すと考えなさいというのです。そのように神様と完全に一つになったあとには、私を中心として生き、私を中心として考え、私を中心として愛するのが原則です。そのときは、自分を中心として考え、自分を中心として愛しても、それは神様を中心として考えることになり、神様を中心として愛することになるのです。それが原則です。
神様に侍った者として、皆さんは、うれしいとき、神様をどれほど喜ばせてさしあげましたか。皆さんは、おなかがすいたとき、御飯を食べながら感じる有り難み以上に、神様に侍ってさしあげなければなりません。皆さんは、良い物を食べるときや着るとき、そして、悲しいときや困難なときにも、常に神様に侍らなければなりません。そうして、神様の心に記憶される事情を残しておかなければなりません。
天は、その心情と通じる人の手によって万物が触れられることを願っていらっしゃいます。心情が通じる子女によってすべての息子、娘が抱かれることを願っていらっしゃいます。心情が通じる新婦によって、神様の主権が成し遂げられることを待ち望んでいらっしゃいます。心情が通じる息子、娘に、この世界が主管されることを待ちわびていらっしゃるというのです。これを皆さんは、考えてみましたか。考えれば考えるほど、途方もないことだというのです。このような神様の願いが「私」の一身だけでなく、世界と天宙にまで連結されていることを考えるとき、「私」は父のものであることを否定できません。ですから、私の心も父のものであり、私の心情も父のものであり、私の意識と直観と感覚器官のすべてが父のものであり、私が感じ、意識する全体が父のものだという思想が確立されていなければなりません。全力を尽くして天の願いを成し遂げてさしあげなければならず、死の道がいくら恐ろしいとしても、高笑いしながら越えられる強烈な心情と信念をもち、それを克服していける自分自体にならなければなりません。
神様に侍るには法度があります。その法度に背けば、神様は、非常に立腹されます。子女を愛する父母が、子女の一言の言葉で胸に釘を打たれたり、抜かれたりするのと同じように、神様も人間を愛していらっしゃるがゆえに、憤りが多いのです。そのため、まかり間違えば神様から怒りを買うことになります。それで先生も、いつも神様を喜ばせてさしあげようとするのです。
六千年の歴史を縦的に見れば、旧約時代には天の民を集め、新約時代には天の子女を集めました。このように、歴史は逆さまに流れてきたというのです。今日、世の中には、天国同胞の理念を中心として天国を建設しようとする人がいます。また、天国子女、天国兄弟、天国夫婦の理念によって天国を建設しようとする人もいます。皆さんは、生活の中で天国の法度を守らなければなりません。天国を建設するためには、天が求める天の法度を守り、また天国の法度を守ると同時に、天国生活ができなければなりません。そして、天国生活ができると同時に、天国の愛によって一つにならなければなりません。み言はすなわち天国の法度なので、み言を中心として生きなければなりません。ここに皆さんの道があるのです。
祈りを通して、神霊の役事(働き)を通して恩恵の基準に行けるかもしれませんが、それは霊界から霊人たちが協助してくれるためにできることです。しかし、本来人間は、生命体や生霊体をもつようになっています。「私」自体に霊があるというのです。霊界の協助を受けていない霊力を中心として霊の作用を啓発しておけば、霊人たちが指導してくれなくても、私自体の生霊体に感知できる能力が生じるのです。このようになって、ある基準にさえ上がっていけば、神様が悲しまれるとき、私にも形容できない悲しみが訪れるのです。ある人に会ってから別れて見送るとき、言葉にできない悲しみが感じられれば、その人の行く道は祭物の道、もしくは神様が哀れむ道です。二つのうちの一つです。そのようなことを実際に感じ、生活圏内で刺激を受けられる立場に立った人が、体恤した人なのです。
父母が天倫の原則とともに生活した縁がこの地上に立てられる日、人間本性の人倫道徳が天地に創建される歴史が始まるでしょう。今日、家庭を抜け出す不幸な青年男女が多くいる原因はどこにありますか。天倫の法度に一致した愛が喪失したためです。それで、家庭を中心に神様をその家庭に迎えて座っていただけるようにする天地父母が顕現しなければなりません。イエス様一人が来られただけでは、救世主の使命を果たせません。堕落した人間を、どのように救ってあげなければなりませんか。父母の立場で救ってあげなければなりません。神様は、真の愛の父なので、父自身がこの地上に来て、父母の立場で人間を直接、救ってくれるのです。子女が死亡世界で苦しみながら救いを求めるとき、救ってあげたいのが父母の心情なのです。
主体のための対象の立場は、不平があり得ません。不平を言うのは無分別な行いです。破錠です。そのため、信仰の道は不平を許しません。感謝だけがなければなりません。天はいつでも主体としていらっしゃるため、主体と関わり合った運命をもちながら、それを離脱する生活法度、生活形態はあり得ないのです。
天理は、順序を正しく守るところから成立します。そのため、主体と対象の関係で、天は絶対的な主体の立場に立たなければなりません。その主体を無視する人は、対象になれません。絶対的な主体の前に絶対的な対象になろうとするので、絶対的に一つでなければなりません。ですから、見て、聞いて、感じるすべてのこと、家庭に入って愛することまでも、すべて対象と主体の立場に立って、天のためにするのです。一切がそうなのです。そのような家庭は滅びません。
最後に残されるものとは何でしょうか。神様と人間、すなわち神人の生きる道、神人の生活観です。人生観も同じように、神人の人生観、神人の世界観、このようにならなければなりません。それは、漠然と神様に接して人間が理解できる程度の位置ではなく、人が永遠に離れようにも離れられない位置です。神様と人は、本来、離れられない位置で離れたので、その離れられなかった位置以上の位置に到達しなければならないからです。そのような位置で神人が一つとなった生活的な舞台、世界的な舞台を求めていかなければならないのです。
これからは、蕩減の量が愛によって変わり、皆さん自体に連結されます。そのような意味で、侍る生活の法度を備えなければならない時が来ました。祝福を受けたのであれば、夫が必要です。夫が必要だという言葉は、夫を愛する心を中心として、尺度が生じるということです。愛をもって測るのです。愛がどれほど必要でしょうか。絶対的に必要だとすれば、絶対的な愛を中心として、「私」が対象的な立場で必要だというのです。神様がそのような立場にいます。神様のすべてのものは絶対的です。始まりと終わり、過程も絶対的です。
至誠感天と孝の道
心を尽くし、思いを尽くし、精誠を尽くしなさいという言葉は、どういう意味でしょうか。生命を捧げなさいということです。それ以上のものはありません。「私」の心の果てがどこにあるでしょうか。心を尽くしなさいというのは、生命を差し出しなさいという意味です。思いを尽くしなさいというのも、精誠を尽くしなさいというのも、生命を差し出しなさいという意味です。「至誠感天」という言葉で、至誠の限界点は、生命を懸けて精誠を尽くすことです。首を差し出し、死ぬ覚悟をして精誠を尽くす人は、神様が「知らない」とは言えないのです。
復帰摂理の道において、その核心思想は何でしょうか。祭物に従っていく道です。祭物とはどのようなものでしょうか。「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ二二・三七)とあります。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしなさいということの結論は、簡単です。生命を差し出して神様を愛しなさいということです。生命を差し出すのですが、無理やりに差し出すのではなく、狂ったように喜んで差し出しなさいというのです。
先生が床に伏して祈るときは、涙が乾きませんでした。膝にたこができるほどでした。「誠を尽くして建てた塔は崩れない」という言葉があります。神様のために誠を尽くさなければなりません。神様が慕わしくて胸が痛むほどの境地にまで入っていかなければなりません。神様がいらっしゃる所が地上であれば、一日に千回でも行ったり来たりしたい思いがありますが、地上ではないので、先生を送ったのです。そのような何かがあるので、皆さんが先生を愛さずにはいられないようになっているのです。理由もなく情が行くのではありません。冬に涙を流しながら祈れば、綿入りのパジチョゴリを涙でぬらすことが多くありました。どれほど深刻だったか、考えてみてください。ナイフを立てておいて談判祈祷をしたことが、一度や二度ではありませんでした。
御飯を食べても、水を飲んでも、座っても立っても、誰に接しようと、父母様の前に見せた幼子の心情を見せることができれば、それで満点です。知識が多いことで通じるのではありません。神様のみ前で、「私は何々博士です!」と言って暮らしますか。そのようなものは必要ありません。神様の愛を、どのように「私」が誘導できるのでしょうか。たった一つの道は「至誠感天」しかありません。
不平を言ってはいけません。不満を抱いてはいけません。自分を考えてはいけないのです。自分の所有、自分の愛の観念を立ててはいけません。神様を思いながら、「私が不平を言えば、神様がどんなに苦しまれるだろうか。その方の事情を私が知り、その方の伝統を相続できる瞬間が私の前に訪れたら、それを引き継いで、その方に従っていきながらその方を慰労しよう」という心をもたなければなりません。そのように思いながら涙を流すその場に、天が共にあるのです。自分を中心とした涙は、天が共にありません。神様のために泣き、父母様のために泣かなければなりません。これが統一教会の祭壇であり、統一教会の侍る生活です。
先生は、おなかがすき、疲れて倒れることがあっても、どのようにすれば神様が案じるその道を行くか、背負うことのできる十字架の道があれば、どのようにその道を行くかということを考えました。しかし、皆さんは、このような道を行こうという準備すらしていません。侍ることによって救われるということを知りながら、恥も外聞もなく眺めているだけです。そのような心でとどまっていてはいけません。私たちは、寝ても覚めても父のために、父の国のために進まなければなりません。千回、万回死ぬことがあっても、その恨を解いてさしあげなければなりません。そのような勇気がある人であれば、自分の十字架を担い、神様の十字架を代わりに背負うことができなければなりません。そのため、今日、私たちは、父と神の国のために働かなければならず、父が呼び求める孝子、孝女にならなければなりません。私たちは、神様のために生まれた民なので、孝子、孝女、忠臣、烈女にならなければなりません。これが私たちの果たすべき使命です。
皆さんは、体面や威信を考えたり、空腹感にとらわれたり、話をする余地があってはなりません。自分の子女が病んでいることに気を遣うよりも、み旨の動きに対してもっと神経をとがらせなければなりません。それができていなければ、絶対服従でもしなければなりません。先生が何をしているか分からなければ、夜も眠れず、真夜中でも飛んできて、尋ねていける生活をしなければなりません。それで、「侍ることによって救われる」と言ったのです。先生は、神様に対して、いつでもそのように生きるのです。寸分も気を抜きません。自分の体を打ってから、神様を慰労できる蕩減の路程を歩まなければなりません。
困難で苦痛を感じるなら、静かな密室に入って祈るのです。それでも答えが来なければ、より深く、より深刻に祈るのです。さらに時間を投入するのです。先生は、この道を行くために、十二時間以上祈るのが普通でした。大洋の何千フィートの深い所を訪ねて入っていくと考えなければなりません。ですから、どれほど克服し、どれほど耐えなければならないでしょうか。祈る人々は失敗しません。自分ですべて分かるのです。祈りの味を知れば、御飯の味よりもおいしく、どのような趣味よりもおもしろいのです。そのようになれば、すべての環境の良し悪しがすぐに分かるのです。
統一教会の教会員は、祈らなければなりません。衣食住を克服し、慢心を克服するために祈らなければなりません。人類と神様を解放しようとすれば、どれほどたくさん祈るべきでしょうか。人類歴史の誰よりも、最高に深刻な立場で祈らなければなりません。「いくら大変でも、私たちは、祈りの道を通してこの道を行ってみせる」という決意を固めなければならないのです。いつでも、二十四時間祈るのです。そうすれば、神様が共にいます。皆さんも、皆さんのことを考えてくれる人を訪ねていくのではないですか。神様も同じです。他の誰よりも神様を考え、神様のために奉献しようというその人を、神様は、訪ねていくのです。
皆さんは、目が腫れ、鼻が塞がるほど泣きながら、神様を慕わなければなりません。人は、泣き過ぎると胸が痛くなります。そのように胸が痛むほど慕わなければなりません。「父よ!」と呼び求めるとき、死刑場に引かれていく息子の立場で父を呼び求める人もいて、遠い他国に旅立つ息子の立場で哀切に父を呼び求める人もいるでしょう。父なる神様を呼び求めるときは、それ以上の基準にならなければなりません。
神様が私個人のために困難に遭われ、私の家庭のために困難に遭われ、私たちの国のために困難に遭われ、世界のために困難に遭っていらっしゃるので、私自身も私個人のために困難に遭い、家庭のために困難に遭い、社会のため、国家のため、世界のために困難に遭おうというのです。神様を中心として、大韓民国と共に困難に遭おうというのです。正にそれが先生の主義であり、神様の主義です。「皆が困難に遭っているのだから、私ではなくてもほかにする人がいる」と考えて、こっそり人に押しつけて、機会だけうかがおうとする人は、神様を裏切る人です。一言で言えば、み旨に対する主体性がないというのです。この道を行くためには、愚直でなければなりません。忠臣というのは、ある意味では愚直な人々です。少し愚かに見えるのです。熊のような性格があるというのです。自分が腕を切られても、「ああ、ここはあまり切れていない。もっと切りなさい!」と言える、愚直なところがなければなりません。
先生は、今までみ旨のために苦労し、今も、寝ても覚めてもその道を歩んでいます。先生の近くで侍ったことのない人は、先生のことをよく知りません。先生は、寝ていても、目が覚めれば、うつ伏せになって祈ります。なぜ、そのような生活をしているのでしょうか。この夜中にも、世界中の愛する子女たちが先生を頼り、神様のために祈っているからです。一緒に精誠を尽くせなくても、それに劣らずに拍子を合わせてあげるべきではないでしょうか。先生が寝ているときは分からないので、神様も許してくださるのです。
先生は、どのような人でしょうか。一つの才能しかない人です。愚直に、ひたすらまっすぐにのみ行く人です。口を閉じ、じっとしながら適当にやって帰ればいいのに、なぜしきりに悪口を浴びるように働き掛けたりするのでしょうか。多くの人々の反対を受けてこそ、一つの峠を越えていくからです。しかし、皆さんは、帰ることを考えています。なぜ、世の中のすべてのものを切り捨てて行かなければならないのでしょうか。母や父の愛に引かれれば、まっすぐに行けないからです。神様が今までまっすぐな道を訪ねてこられたので、まっすぐに行かなければならないのです。
神様が寂しい方で、孤独な方で、先生のような方で、私の事情を分かってくれることを知ったので、死ぬ日まで、その方のみ旨と願いを一つでも解いてあげ、その分野を一つの土台でも拡大させて、神様のために生きる人を集めることが、私の使命だと思ってきました。悪口を言われても反論せず、むち打たれても復讐しないで、愛によって耐えてきたのは、神様の子女として生まれたからであり、その方のみ旨を立てるべき責任があったからです。この伝統をどのように立てるかを考えながら、ふらふらになって歩き、腰を曲げながら歩き、這いつくばってでも、これだけは残さなければならないと言いながら、闘ってきたのです。
真の父母がするのは、すべてのことに勝利して、神様の心の奥深いところまで訪ねていき、恨を解いてその勝利圏を地上に成し遂げることです。そのような真の父母が出現したことに、皆さんは、感謝しなければなりません。縦的真の父母である神様が、地上に再臨主を送って地上解放を成し遂げるまで、どれほど悲惨だったかを知らなければなりません。私たちは、今、偉大な時代を迎えました。なぜなら、真の父母を中心として孝子、孝女になることを誓えるからです。
皆さんは、み旨の道を歩みながら、どれほど深刻になってみましたか。先生は、一生の間、そのような道を歩んできたのです。これは、妻子も知らず、私だけが知り、神様だけが知っています。孤独単身、寂しい男が行く道を誰も知らない中で、神様が協助し、驚くべき実績をもって、今日この社会に問題を提示し、また疲弊していくこの民主世界の思想圏内に新しい波紋を提示する問題の人物になりました。このようになったのも、私が立派だからではなく、神様が共にいてくださったからです。