責任者は、環境を避けずに、その環境を消化しなければなりません。環境を消化できる能動的な人になれずに、どのようにして天のみ旨を成し遂げられますか。神様は、誰にも倒されることのない確固たる位置に立たせるために、作戦上、監獄に入れて試練に遭わせるのです。過去に苦労した基準があるので、現在の生活において苦労があっても、そのときの立場を思いながら耐えていけるのです。先生も興南監獄に入ったとき、そこで毎年、模範労働者賞を受けました。神様がそのような過程を経て先生を訓練させたことを思いながら、皆さんを訓練するのです。子女が困難な立場で父母に何かが欲しいと言うとき、それを与えられない父母の心情はいかばかりでしょうか。先生は、苦労の路程を踏み締めてきたので、どのようなことでも喜んで受け入れます。価値なく苦労したことは役に立ちませんが、非常に大きなみ旨を抱いて苦労した経歴は、億千万金とも取り替えることができないほど貴重なのです。これが先生の財産です。先生は、説教のために準備したことがありません。生きた体験によって事実を話すときは、みな感動せざるを得ないのです。
第4節 教会長と説教
説教を準備するときの心構え
責任者は、伝道の地で自分の骨と肉が溶けていくような感性をもたなければなりません。「父よ!私はこんなに足りません。それでも私が行かなければならないというので、もどかしく思います」と祈る心情で、壇上に出て説教をしなさいというのです。自分を中心とせず、真の父母と天地を身代わりし、神様の通牒文を手にして進み出た神様の精兵だと思いなさいというのです。先生は、説教する前に、説教のために祈る時間よりも食口のために祈る時間を多くもちます。「父よ!この者たちを引き上げなければならないのですが、どうすればよいでしょうか。これですか、あれですか」と精誠を尽くしてから、心の命ずるままに説教するのです。心情を離れては生命がないというのです。心情の谷間の道は苦痛で凄惨な道です。師を求めるにしても、知識の師を求めるのではなく、心情の師を求めなければなりません。心情の谷間は、中に深く入れば入るほど涙であり、自分がなくなるのです。目的地に近づけば近づくほど、目的とみ旨が大きくなり、「私」は小さくなります。小さくなる私と大きくなるみ旨に相対する心情さえあれば、万事は解決するのです。
父母の心情をもち、僕の体で祭物の過程を経ることによって、祭司長であると自称できなければなりません。祭司長になるためには、祭物となる子女がいなければなりません。直系の子女がいなければ、信仰の子女でもいなければならないというのです。礼拝を捧げる時間は、祭祀を捧げる時間です。自分の過去を神様に報告し、贖罪しなければなりません。ですから、礼拝時間は自由のない時間なのです。
一年十二ヶ月、ただ適当にやって壇に上がり、「皆さん、聖歌を歌いましょう」と言っては、「お父様、何がどうでこうで……」と祈る、それではいけません。そのようにしていては、天の国が成就されず、生命が復活しません。母が子女を生むのを見てください。肉身の赤ん坊を一人生むのも、五臓がちぎれるほどの苦痛に耐え、顔にはありとあらゆる表情をするではないですか。それ以上に無我夢中にならなければなりません。必ず汗を流し、涙を流して現れなければならないのです。
霊的指導者は、体恤する何かがなければ、仕事ができません。本を見て説教の準備をするのではありません。本を見て神様が見えますか。その本の中に神様がいますか。そうではありません。神様は神霊の中にいらっしゃるので、神霊に通じなくてはならないのです。体恤信仰は最も貴いものです。ですから、統一教会に入ってきた食口であれば大概、体恤するようになります。皆さんの現実的生活圏内にすべて起こることを、必ず体験するのです。本当にみ旨のために、もてる精誠をすべて尽くせば、天が共にいてくださるのです。
皆さんが神様と直接的で密接な関係にあるとすれば、説教の準備をしなかったといって心配してはいけないというのです。そのような訓練も必要です。先生が有名な人に会えば、一日に十回、話をするときもあります。そのときは、場所によって内容の異なる話をしなければならないでしょう。それをすべて準備してするのでしょうか。そのようなときの心は、完全に祭物としての自覚をもつのです。「私」という存在意識がありません。所有観念もありません。完全に捧げられる立場です。そこは厳粛な場です。祭物の前に立った人々は、頭を下げなければならないのが天法です。その祭壇には、神様が臨在されて干渉するのです。心情的にきょう、私はこの祭壇に情熱とすべての力とすべての努力を捧げるというとき、自分の一生にない誠心誠意を尽くして口を開くとき、神様は助けてくださいます。祭物は、深刻な立場で捧げられるのです。
説教は聖日にだけするものだと考えてはいけません。聖日にさえなれば、「聖書はどこを読もうか。賛美歌、出てこい。聖歌、出てこい」、これではいけません。人々に対する情報を中心として、生きた材料を中心として、聖書からそのような歴史を抜き取り、その人のことと聖書の内容を照らし含わせていきながら、おもしろく説教をするのです。そうすれば、聞く人は自分のことを話しているので、すっかり夢中になるのです。喜びます。本を見てしようと考えるなというのです。人から本も出てくるのです。人自体が本の原本です。
先生にも、今までに印象に残っていることがあります。強盗と一緒に手錠をはめられて興南監獄に移送されていくとき、山の谷間に差し掛かり、小川の道に沿って歩いたそのときが、本当に新鮮に感じられます。くねくねした山の谷間の道を歩いたそのときが、今も忘れられません。印象的でした。それは、新しい世界に向かって出発した歩みでした。「これから日ごとに行くべき私の道は、どこだろうか。刑を終えて出たら、どのようにすべきだろうか」、このことがとても気になりました。困難な監獄生活ですが、「私は行く」というのです。そのときが新しい自我を覚醒できる良い機会となりました。先生に残されたのは、そのようなものしかありません。
先生は、かつて咸興(ハムン)で穴を掘る仕事をしました。おなかがとてもすく中で仕事をするので、つるはしを握り締めた手が上がらず、精魂が尽きて意識まで遠のくのです。そこで「昼食の時間だ!」という声を聞けば、その声がどれほどうれしいか分かりません。そのとき、御飯を食べるためにつるはしを地面に打ち込み、振り返るその瞬間の気分、先生には、そのような生きた歴史の材料が測り知れないほど多いのです。いかなる苦労も、そのようなものに比べることはできません。このような悲惨だった事情が先生を滅ぼすのではなく、歴史に永遠に輝くものになることを知らなければなりません。それで、神様がしまっておいた宝物をかき集められるその日まで、行かなければならないというのです。そのような受難の事実を世界万民に打ち明けて話をすれば、どうなるでしょうか。他の内容で一時間説教をするより、この内容で十分だけ話をすれば、痛哭が起こるというのです。それほど良い説教内容がどこにあるかというのです。それで皆さんに、心配することなく三十歳前までは苦労しなさいというのです。
説教をするときは、絶対に皆さんが題名を定めて出ていってはいけません。本来は、祈りの中で題名が与えられなければならないのです。準備した題名では、絶対に感動させられません。他の人を泣かそうとすれば、「私」が説教を準備し、祈る中で涙を流さなければなりません。このような人、あのような人、千態万象の人を思いながら、今日の韓国の実情から思いを巡らせ、「きょう訪ねてくる人はこのような人だろう」と定めるのです。それを前にして涙を流しながら壇上に立ってこそ、涙を流させる恩恵を与えることができるのです。手紙も、涙を流しながら書いた手紙であってこそ、相手を泣かせることができるのと同じように、自分が主体的な動機にならなければなりません。そのようにせずに、相手がそのようになるというのはうそです。そのため、皆さんが壇上に立つときは、その壇が審判廷だということを知らなければなりません。前よりもっとうまくやることを願ったのに、できなかったときは、悔い改めなければなりません。恩恵を与えられずに説教を一時間したならば、三時間悔い改めなければなりません。説教をうまくできず、恩恵を与えられないというときは、三倍以上悔い改めなければなりません。
責任者は、誰であっても、食口が自分の事情を話すときはよく聞き、内容を記録して、全体の見本となる教材として使うことができなければなりません。そこに感動すれば、日曜日の説教の題名として定め、精誠を尽くして食口にその感動を伝えなければなりません。いつも天をお迎えして生きなければならないのです。天をお迎えせずに、自分中心に説教をしてはいけません。本を参照して説教すれば、天が役事しません。流れていってしまうのです。生命の種は天から来たのです。人間からではなく、知識からではありません。そのため、説教をする前には必ず涙を流していかなければなりません。涙を流してこそ、父母となる立場でその子女たちのすべてのものを悔い改めさせることができるのです。涙を流すためには、まず涙の門を開かなければなりません。子女の涙の門は、父母の涙によって開くべきです。涙の門を開いてこそ、涙が出てくるのです。痛悔の涙を流してこそ、痛悔の門が開かれるのです。
いつでも、負債を負った人の立場にならなければなりません。そのような人が公人です。自分が責任を果たせなければ、他の人が身代わりするのです。周辺を見て、「このような面は私ができないことだから、食口がしてくれているのだなあ!」と考えなければなりません。今まで統一教会全体が打たれるべきことを、先生が代わりに打たれてきましたが、これからは、個人と家庭、氏族、民族を越え、世界的なすべての事件が、食口に一つずつやってくるでしょう。先生ももちろん打たれましたが、全世界の食口が打たれながら、峠を越えていく過程です。このような面から見るとき、私たちは同じ運命にあります。公的な面で、霊界が直接指導する人々の言葉を聞くというのは深刻です。これをくすくす笑いながら聞いてはいけません。それは先生も同じです。良いことがあれば、話すより、笑うより先に、天を思わなければなりません。悲しみがあっても、天を先に考えなさいというのです。私に悲しみが襲っても、「私が天の代わりに受ける」というとき、その悲しみを毅然として越えていけるのです。
悲しみにぶつかったあとには、必ず代価があります。地上で蕩減する過程の中で、本当に善の立場で悲しい涙を流せば、必ず善の喜びが来るのです。ですから、悲しみを十ほど受ければ、喜びが千ほど訪れるというのです。そのような生活を感じるので、信仰生活を続けるのです。十ほどの悲しみを越えても、一ほどの喜びしか訪れないとすれば、そのような喜びは何日かすれば下がっていくようになっています。本当に天に従っていく道は、真の悲しみを受ければ真の喜びが、「私」が想像できないほどの喜びがやって来るのです。私が受けられず、私が感じられなければ、自分の妻や自分の子女、自分の先祖にそのような喜びが訪れるというのです。ですから、すべての出来事を軽率に扱うことができないのです。いつでも神様に侍り、相談する姿勢で生活しなければなりません。心が重苦しければ、座って祈りなさいというのです。寝るのが問題ではなく、働くのが問題ではありません。祈りが生活化されなければなりません。
精誠が込められた説教
先生は、できることなら、原稿を書こうとしません。それで、原稿をもたずに話すのです。原稿をもってすれば、天の役事が起きません。ですから、皆さんは、原稿を書いたとしても、自分が書いた文章を覚えてはいけません。原稿を書いたとしても、自分が原稿を書いたときの記憶が残っていてはいけません。原稿を読むとしても、その行を見ながら読んでいると考えてはいけないのです。それは、共鳴圏に入っていくためです。自分の心と体が、その恩恵の雰囲気や天が介在する環境に和合するのです。そこには自己主張があり得ません。あるときは、「私」が対象の位置に立ったり、あるときは主体の位置に立ったりするのです。対象の位置に立つべきはずなのに主体の位置に立てば、雰囲気が壊れていきます。ですから、祈りが必要です。涙を流すことのできる心情で出ていけば、心情の基準が既に一番下に下りていて、すぐに分かるのです。きょうはどのような話をすべきだということが分かるのです。
皆さんは、説教をしたあとも、耐え難い恥ずかしさに身もだえしなければなりません。そうしてこそ発展するのです。十年前も十年後も、ただ壇上に立って習慣的に説教をしたとすれば、次第に枯れていくのです。自分の話をしてはいけません。整理したノートをもって十年、二十年使い回せば、そこに生命があるはずがありません。いつも自分の言葉を語るのではなく、新しい言葉、天の言葉を語らなければなりません。知っている言葉でも、いつでも天の言葉を語らなければならないのです。ですから、原稿を書くときも、自分が書いた原稿を忘れてしまわなければなりません。このような霊的活動というものは深刻です。ですから、先生は、十二時ではなく、三時、四時でもそのような霊的な刺激がくれば、眠気などどこにあるでしょうか。霊的世界の感応や触感、刺激というのは、眠りを超越します。眠りの世界を越えるのです。
統一教会の責任者は、説教をするとき、体と心を尽くして天地を感動させ、聴衆を感動させ、過去、現在、未来の感動圏を動かせる動機が必要です。その動機がなくなるときは、大衆化されるのです。そのため、それはだんだんと世俗化されるのです。ですから、天に代わってしなければなりません。また聖日のみ言は、本を見て研究してはいけません。深い祈りの中で題名を悟らなければなりません。題名をつかむために祈り、生命の感動を受けた立場で、自分が最後の宣言、国が滅んだり栄えたりするすべての問題をかけて、宣言する気持ちでなければなりません。言い換えれば、刑場に出ていって宣布する気持ちでなければならないのです。その書葉が成就されるか、成就されないかという境界線で宣布すべきです。祈りも同じです。絞首台に出ていく死刑囚のように深刻なのです。歌詞や音声はすべて同じ歌でも、人々が歌う歌が感動を与えようとすれば、そのすべての内容を知らなければなりません。声帯から出てくる言葉が深い内容をもって共鳴するようにしなければなりません。共鳴です。山びこのように行っては来て、自分の胸を締めつけ、「私」が感動して姿勢を動かすことのできる位置に、どのようにして入っていくかというのです。そのような歌を歌ってこそ、大衆に感動を与えるのです。
説教をするときや講義をするとき、新しいものを提示しなければなりません。どのようにしてでも、刺激を与えなければなりません。祈りをしてでも、補充しなければなりません。それでも駄目なら、命を懸けてでも補充しなければなりません。皆さんは、道を歩きながら、新しいものを探す気持ちをもって行かなければなりません。また教会に行くとしても、何となく行ってはいけないというのです。新しい立場と環境に接するという気持ちをもって行ってこそ、新しいものが生じるのです。教会に行く道も、直線コースだけで行くのではなく、回っていくこともしなければなりません。南に行くところを、北にも行ってみなさいというのです。なぜなら、新しこを探すためです。また、そのような実感が湧かなければ、家の暮らしを変えてみなさいというのです。数ヶ月たってもただそのまま置いておくのではなく、逆さまに取り換えてみなさいというのです。そうすれば考えが変わります。このようにすることが必要です。祈るときも、壇の前で祈る場合と一番後ろ側で祈る場合では、その感じ方がそれぞれ違います。聴衆の中で祈る場合は、また感じが違うのです。そのため、環境的な変化をどのように模索するか、これが必要です。
皆さんが説教をするとき、昔にしたものを再びすれば、食口はそれが分かって気分が悪くなるというのです。原理講義をするときも、昔のような形ですれば、気分が悪いというのです。それは、人が春夏秋冬、四季に従って変化を感じるのと同じだからです。朝だからといって、いつも気分が良いのではありません。何の心配もないのに、とりわけ憂鬱な日があるというのです。朝日も明るく、爽快な天気なのにもかかわらず、自分自ら憂鬱なときがあるというのです。そのようなときは、どのようにして解洩するのでしょうか。これを変動させる刺激的なものがなければ、もっと憂欝な場に訪ねていきなさいというのです。このように反対の新しい刺激を与えたり、もしくはそれを克服できる直接的な新しい刺激を起こすなどして、補充していかなければなりません。皆さんが解決方案を立てて、一日一日の生活を調節していくことができなければ、これから多くの人の心霊を指導できないのです。
み言、実体、霊によって出来ている人間なので、まずみ言を立て、人格を立て、神霊の役事をしなければなりません。それでこそ正常です。もし、まず神霊を先立たせれば、段階を飛び越えたことになるので、蕩減が大きいのです。説教はまず、自分が感動しなければなりません。自分の祈りが自分を感動させなければなりません。説教は、同情を受ける立場でしなければならないのです。「私」を通して、生命の縁を結ぶべき人々の哀れさを神様に訴え、同情を受ける立場に立たなければなりません。皆さんがそのような同情を受ける立場に立つためには、自分が苦労をしながら天の道を探し求めていた立場に帰らなければなりません。そのようにするためには、怨讐がいてはならないのです。
精誠とは、一度に捧げるものではありません。説教をするときも、大衆を前にして説教をすると考えずに、一人を前にして説教をすると考えなさいというのです。一人が恩恵を受けて涙を流せば、それが全体に広がっていくのです。今まで教会を発展させられなかった理由は、根もなく空中に浮いている説教をしたからです。吸収される土台がないので、伝道できるはずがないのです。教会長自身も、自分の足場は自分が固めなければなりません。先生が何かの指示をしたとき、教会長が命を懸けて動く手本を見せてこそ、一般食口も動くのです。
世の中の万事が、すべて説教の資料にならなければなりません。自分が苦労したものがあれば、「私はあるとき、このようにした」ということを説教で語るのです。そのため、教会長は苦労をたくさんしなければなりません。人生修練をたくさんしなければなりません。かわいそうな労働者から乞食、もしくは高級官吏、もしくは権勢圏内にある位置まで、一時経験するのも必要だというのです。そのような状況を中心として、そのようなときに公的立場において、ある一時悲しかった事実、そのようなものに対して自分が体験した話は、実感が湧くのです。
皆さんが説教をし、講義をするとき、原理の本をただ見るのではなく、原理の本に対してある程度まで基準ができていれば、原理の本の内容を中心として、皆さん自身がそのみ言の中に入り込んでいかなければなりません。このみ言がどれほど恐るべきみ言だろうか、これはどれほどの犠牲の過程を通して発見されたのだろうか、ということを体験しなければなりません。それを感じれば、必ず痛哭するようになっているのです。神様の復帰の心情圏内に入っていけば、そこには言葉にできない事情が根となっているので、我知らず霧の中に吸い込まれ、一人で身もだえするようなことが起こるのです。そこで神様を身代わりした主体性を確定しなければなりません。そこから自分が主体となって役事が起こるのです。霊的な協助基盤がなければなりません。そのような境地に入れなければ、祈りをしなければなりません。精識を尽くさなければならないのです。
原理講義をするとき、原理を完全に知らなければ、相対的な影響を及ぼすことのできる心的基盤を備えられません。そのためには、祈らなければなりません。「父よ、きょうはこのような題名でもって講義いたします」と祈ってからしなければなりません。祈りの中で講義をしながら、神様がこのような心情をもったということを感じなければなりません。神様と対話しながら講義するのです。「あなたがこのみ言を中心として、あなたが必要とする対象として、きょう復活させる人は誰でしょうか。あなたが願い、待ち望まれる人がいれば、私のもてる力を尽くして、その人を逃しません」と言わなければなりません。「私のやり方で、いつものように講義すればいいだろう」というのは、伝達はされますが、人の生命を復活させることはできません。絶対に生命を蘇生させることはできないのです。
皆さんが公的な壇上に立つとき、その心は刑場に出ていく心情と全く同じです。それは、公判廷で判事の峻厳な判決を仰ぐ瞬間に立った男性と同じ心情でしょう。すなわち、祭物だということです。この時間、「私」が数多くの生命に責任をもっているというのです。一言うまくやれば命を与えることもでき、一言誤れば命を奪うこともできるのです。医者が注射を誤って打てば、その命を犠牲にするのと同じです。一番恐ろしい場です。その場には天が共にあるのです。
講義をするときは、必ず原理のみ言自体を語るとは考えずに、先生の歴史を語り、神様の歴史を語ると考えなければなりません。結局は、「私」がその歴史を相続し、その歴史と一致するために語るという意味なのです。十回すれば十回することによって深くなるので、深くなった分、私が心情的に近くなるために語るというのです。他の人を救うよりも、自分が近くなるために語るというのです。十回すれば十回した分だけ近くなり、十回すれば十回した分だけ深くなるのです。そのために祈れば祈った分、それが深く、広くなります。高くなるのです。高まるので、心情基準において自分が発展し、心情一体を中心とした発展の度数を強化できる機会が生じるのです。そのような時間がみ言を伝える時間であり、食口を教育する時間です。
先生は、祈るとき、膝にたこができるほど祈りました。祈れば、一日に十二時間以上するのです。問題を解決するための談判祈祷をするのです。そのような経験を通して習慣化された境地に入れば、何かの問題に対するとき、それがどのようになるか、すぐに結果が分かるのです。感じられるのです。説教も、本を見てしてはいけません。霊界というそれ自体が、本然の状態が、本を中心として動くようになっていないのです。愛を中心とした世界に入っていって主管を受けるのが原則です。そして、復帰は愛を中心とした人格完成を意味します。愛を中心として感動し、愛を中心として人格を天の側に接ぎ木するのです。知識ではありません。本を見てするのでは駄目なのです。それでは、生命の復活になりません。
説教の題名を定めるためには、闘わなければなりません。一大戦争です。題名を一週間前に本を見て決めれば、天が役事しません。それは「私」と関係ないのです。それでは絶対にいけません。ですから、説教の題名を決めるまでは、死ぬか、生きるかの闘いをしなければなりません。きょう、私が壇上に立つとき、聴衆の中から死ぬか、生きるかという問題をもって天が分別させることのできる人を探さなければなりません。そのためには、どのような人が来るのか、既にすべて分かっていなければなりません。それが合えば、霊界が開かれるのです。先生は、いつも説教の題名を何日も前に準備しません。大概、出る十分前以内に説教の題名を定めます。その説教内容に、私が復活しなければなりません。そのように体験できる立場に立ってこそ、堂々としているというのです。しっかりと立てば、姿勢が定まります。そして、相対基準が定まり始めます。一度にすべて定まるのではありません。最初は一人、二人です。その相対基準を中心として、その人が感動して回っていけば、広がっていくのです。
感動を与える説教
数十万の聴衆を感動させようとすれば、原稿を書いてはいけません。霊感が必要です。そのため、霊的指導者は、いつも涙が途絶えてはいけません。深い心情の言葉を語れば、我知らず胸の中で涙が爆発できなければならないのです。そのような心情を失ってはいけません。それを失ってしまえば、生命を復活させられません。これは深刻な問題です。皆さん自身が一つの生命を生かすために、どれほど深刻になってみたかというのです。皆さんを医者と比べてみるのです。メスをもった医者が手術台に行くときは、メスの先一つに生命が行ったり来たりするのです。そのように深刻な医者の立場と、多くの生命に責任をもった責任者としての自分を比較してみれば、「私」が一人の生命を扱う医者より、もっと深刻になる時が来るというのです。これは普通の言葉ではありません。そうでなければ詐欺師になるというのです。
聴衆に感動を与えようと考えず、自分が説教の中でまず感動しなければなりません。語るそれ自体の内容を中心として、「私」自身が恩恵を受けなければなりません。私に説教するのです。私が感動し、霊的基準が高い人が感動できれば、聴衆は恩恵のるつぼに入っていくのです。自己啓発です。説教は相対を啓発してあげるためのものではありません。自分を啓発するのです。できるだけ、先生のみ言をたくさん引用しなさいというのです。皆さんが祈るよりも、先生の説教集を見なければなりません。恩恵を受けるものを一回、二回、三回読んで、骨子を中心に話をすれば、それが、皆さんが何週間勉強するよりも良いというのです。膨大な内容があります。その祈りの中には、皆さんが及ぶこともできない高い境地の内容があるのです。
聴衆の前に出る時は、まずどのような態度を取らなければならないかということを考えて、壇上に立たなければなりません。その次に、五分、十分以内に、聴衆に自分の印象を残せる準備をしなければなりません。この五分、十分以内に聴衆が自分に傾かなければ、難しいのです。ですから、最初にどのようにするかというのが問題ですが、全体が関心のある話から始め、もしそれができないときは、全く関係なく、聞いたことがない、知らない話で始めるのです。そうして、その話に対して「どういうことか」と引っ張られてくるように作戦を展開し、自分の作戦圏内に入れなければなりません。
その人が妥協する心のある人なのか、それとも融通の利かない人なのか、それを把握しなければなりません。その人が心理的にどのようなタイプの人なのかをつかんで、その人に合う話を研究しておかなければならないのです。「ああ、あの人は私の友達の中で、あのタイブの人のようだ。あの人は私が知っている百人の中で、あのタイプの人だな」ということを比較、研究しなければなりません。そうして、三つ、四つのタイプの人を選んで、試してみるのです。柔和な人なのか、驕慢な人なのか、強烈な人なのか、優柔不断な人なのかを見ながら、劇的な場面を用いて、涙を流すべきところでは涙を流す立場に立たなければならず、許してあげる立場では許してあげる表情と感情をもって、その人を動かすのです。ですから、見えない闘いをするのです。その次には、その人に詩的な感性があれば、詩を詠んでいくのです。話の途中で考え出し、自分が詩情に浸って一分くらい詠んでみるのです。文学的な感性があれば、優しくささやく感情で話してみるのです。
皆さんをどこに連れていって立てても、原理の前編を講義しようと、後編を講義しようと、すべて通じ、詰まることがないようにしなければなりません。それ自体が一つの公式になっていなければなりません。そうして、これをすべての現象世界に公式として活用できる人になれば、どれほど膨大な知識圏を備えられるでしょうか。皆さんは、原理がおもしろくて夜を徹して本を読み、そこに酔って内在的な面でも発展をもたらさなければならず、生活面でも発展をもたらさなければなりません。自信がなければ発展がないのです。
名講師になろうとすれば、どのようにすべきでしょうか。全国の有名な講師が講義したものを録音し、それを聞いて評価し、良いものだけを抜き取って、自分のノートを作っておかなければなりません。録音したテープがいつも積まれていなければなりません。本当に機知に富んだ内容、数十人、もしくは数百人が才知にあふれて講義した内容を抜き取り、自分が講義するときに活用するのです。そうすれば名講師になれます。毎日のように、八時間以上講義しなければなりません。新しい人を一人でも連れてきて、講義しなければならないのです。
皆さんが聴衆を感動させるためには、自分がまず原理の本をつかみ、涙を流さなければなりません。その原理の本をつかんで夜を徹して読みながら、時間がたつのを惜しみ、ぺージごとに神秘を体恤する人にならなければなりません。それを感じたあと、聴衆に感動の役事がどのように起きるか、原理に酔って説教してみなさいというのです。そうすれば間違いなく、新しい感動の役事が起こります。死んだもの、すなわち生命力を失ったものは退化し、生きたものは必ず発展します。発展すれば、新しいものが生じるというのです。原則がそうなのです。
講義をするときは、講義の時間に「私」が何を残すのか、また話をするときは、その話を通して何を残すのか、手が動くときは、私の手が動いて何を残すのか、私が行動するときは何を残すのか、このようなことを確かめなければなりません。ですから、大変な道を歩みながらも、何を残すのかを思い巡らせなければなりません。困難で疲れる道をひたすら歩きながらも、何を残すのかを考えなければならないのです。興味が絶えず湧き出てこなければなりません。疲れていてはいけないというのです。難しければ難しいほど、そのような思いに追い立てられていくのです。