天聖経訓読室

第6節 心と体の統一のための生活

この節の音声は準備中です。
1

私たちの目は、天を見つめていなければなりません。もし、人間が堕落しないで根本的にうまくいったとすれば、九○度以下を見つめながら暮らせるのですが、堕落したので、目は天を見つめなければならないというのです。信仰者たちには、九〇度以下を見つめることは容認されません。天を見つめなければなりません。地を見つめていっては滅びます。「私」を中心としていけば滅びるのです。今や、私たちは、あらゆるものを収拾しなければなりません。生活から体、心、心情に至るまで、すべて収拾しなければなりません。それでは、その心情の基盤はどこに置くべきなのでしょうか。心情の基盤は、歴史路程に置くのではなく、堕落する前のアダムとエバの心情に置かなければなりません。ですから、その心情を通して、天と共にきょうの生活感情と、時代的なすべての思潮を消化させ、天と共に解決する生活をしなければなりません。そのような息子、娘たちがこの地上に現れなければならないのです。

2

心と体を統一させるにも、愛がなければできません。父母が子女を愛するときは、自分のおなかをすかせることも、苦労することも、ぼろの服を着ることも自ら行い、あるいは願わない所も自ら行きます。このような愛の道には、心も体も統一的な方向を備えていくので、この道だけが統一の要因であり、統一の方案です。これを自分の生活路程の基準とし、生涯の標準として定めていけば、皆さんは滅びません。それは先生が保証します。

伝道生活

3

神様は、復帰の道をたどって個人と家庭を訪ねてこられましたが、その個人と家庭から排斥されました。そのような神様が、再び世界に向かっていくその歩みをやめないので、「私」も行かなければなりません。その道が険しいからといって、その道に死があるからといって、悲しい曲折があるからといって嫌がってはいけません。私の父が行かれる道を私も行かなければならないので、父が大変であれば私も大変であることを望み、父が悲しめば私も悲しむことを望まなければなりません。これが統一の理念です。このみ旨が、間違いなく父の立てられたみ旨であることを知るようになれば、いくら難しいことでも克服しなければなりません。また、いくら難しい事情があるとしても、そのお方は私の父であり、その事情は私の事情になるので、その父が立てられた伝統を相続し、その父の歴史と心情に接ぎ木されるためには、その父が苦痛を受ければ、私も苦痛を受けなければなりません。それは当然の道理です。ですから、統一教会の教会員は、休まずにその道を行かなければなりません。ゴルゴタの丘でイエス様が死の場においても祈りながら伝道したように、統一教会の皆さんは、死亡の暗闇が襲うこの天地の中でも伝道をしなければなりません。地獄に行っても、その中で一番かわいそうな人を伝道しなさいというのです。

4

信仰生活は副業ではありません。本業の中の本業です。人に会っても、「私」が会うその人に今、み言を伝えなければ、その人が帰る途中でどうなるか分からないのです。その人がほかの人でなく、自分の父母や兄や姉だと考えなければなりません。機会を逃したときは、「み言を伝えなければならないのに、私が忙しくて申し訳ない。いつかもう一度会いましょう」と挨拶だけでもして、条件を残していかなければならないのです。

5

伝道は、生命を接ぎ木することなので、簡単ではありません。それで、一人についても精誠を尽くすのです。皆さんは、一生をかけて、何人に精誠を尽くしてみましたか。自分のために精誠を尽くしてくれる人が多いといって誇ってはいけません。精誠を尽くす人は福を受けますが、精誠を尽くしたものを受ける人は、福を受けられません。ですから、私が精誠を尽くしてあげなければなりません。精誠を尽くしてあげたのに、彼が言うことを聞かないと寂しく思ったり、悲しいと考えたりしてはいけません。天理の原則がそのようになっていると思いなさいというのです。そのようにできる人は絶対に悲しんだり、寂しく思うことがありません。

6

伝道は、出産するのと同じです。先生が経験してみると、一人の人を自分の息子以上に信じることができる人にするためには、息子を生むより三倍の努力が必要だというのです。伝道した以後にも責任をもたなければなりません。ほかの道に行った人が再び戻るには、衝撃的な感動を受けて涙を流すか、自分自ら悔しさや無念さを感じるか、今まで感じることができなかった心情が爆発する出来事が起こらなければならないのです。

7

伝道は誰のためにするのでしょうか。神様のためにし、人類のためにするのですが、「私」の息子、娘のために、そして私のためにするのです。私たちのためにするのです。ですから、誰も恨むことはありません。自分を恨まなければなりません。誰かに「しなさい」と言うのではなく、私がしなければなりません。そうしてこそ、私たちが願った生きる所が生じるのです。

8

伝道は、おなかのすいた人が御飯を求めるように実践しなければなりません。おなかがすいたときに御飯の貴重さが分かるように、そのような心をもってやってこそ、霊界からも協助して対象者ができるのです。本業としてしなければなりません。最も重要なものが信仰生活です。

9

アダムが完成の位置で結婚できなかったので、真の父母が復帰され、家庭を率いて世界をさすらいながら、天の側の家庭、天の側の氏族を編成し、サタン世界が奪っていった家庭、氏族、民族、国家、世界を一つにして取り戻してこなければなりません。それで伝道しなければならないのです。伝道とは何でしょうか。サタン世界の血統を中心として生まれたので、その生まれた血統に新しく神様の血統を接ぎ木するのです。それを中心として、野生のオリーブの木をすべてなくしてしまわなければなりません。それが伝道です。天の国に行くための財産なのです。

10

神様の愛を受ければ、その愛を与えなければならないので、伝道をせざるを得ません。神様をお迎えする中間の立場に立とうとすれば、自分の土台が必要なので伝道しなければなりません。「私」の罪にまでも責任をもてる信仰の子女がいなければなりません。ですから、伝道は教会のためのものではなく、自分自身のためのものです。神様の心情をもってみ言を伝えれば、伝道ができるのです。

11

伝道するために歩き回れば、神様が同行してくれるのです。「伝道」(전도)を逆にすると何ですか。「挑戦」(도전)です。私が行く道に敵がいれば、追い払ってくれる神様が共にいらっしゃるので、万事が思いどおりになるのです。挑戦です。伝道、挑戦です!それができない人は、どんどん気力を失っていきます。挑戦しない人は、父が嫌い、祖父が嫌い、祖父の子孫、父の子孫、自分の妻、息子、娘まで好みません。父は父として、母は母として挑戦しなければならないのです。

12

皆さんが愛の種を植えておいて、それが大きくなれば、どうなるでしょうか。霊界に行って、自分に伝道された子孫たちは他人ではありません。木の枝に連結された、また他の新しい枝と考えるのです。一つです。何千年たった木、何万年たった木から芽が出てくる時、今年も出てきて、来年も出てきます。何千年、何万年たったその木の要素が、「私」と共に途絶えることはあり得ません。そこに連結されて、もっと大きくなるのです。

13

皆さんが我知らず、神様が慕わしくてじっとしていることができず、道に出て誰かに会うようになれば、彼と縁をもって自然に伝道ができます。誰か相対する人がいなくて独りでいる時は、神様が直接来られて共にいらっしゃるのです。自分の手をつかむと光ります。そのようなことが感じられます。光が「私」を擁護し、抱いてくれるのを感じるようになります。そのような時、安らかな顔、平和に満ちた顔、幸福に満ちた顔をして、その心情をどのように体恤するかが問題です。心と体が膨らみ、細胞やすべてのものが満ち足りて、天の無限の愛に浸ることができなければなりません。手でリズムをとりながらメロディーを口ずさむとき、全宇宙が注目していることを感じる立場に立って、「お父様!」と呼び求めるその声、そのような心情圏が必要です。それを皆さんが体恤しなければなりません。そのようにすれば、伝道ができるようになっています。

14

「私」の心が動いて出発するとき、あるいは「伝道しよう」と思うとき、望んでする人がいて、仕方なくする人がいて、死ぬかと思って恐る恐るする人がいます。どのようにしなければならないのですか。歓迎してするのか、やむを得ずに、死ぬこともできずに仕方なくするのでしょうか、恐ろしくてするのでしょうか。どうなのですか。それは、みな落第です。それでは、どのようにしなければならないのですか。心と体が主体と対象の関係になっていて、その相対の位置と環境条件が一致しているときは、喜びで出発するのです。悲しみで出発するのではなく、喜びで出発するようになっています。喜びの内容が最初であって、悲しみの内容が最初ではありません。堕落とは何でしょうか。悲しみの内容が最初であり、喜びの内容はスタートもしなかったというのです。復帰の運命の道を求めていく私たちとしては、み旨を喜びの内容として出発し、喜びの過程として消化させてこなければなりません。

祝福家庭の生活

15

祝福家庭は、心が神様と一体にならなければなりません。また、体が神様と一体にならなければならず、志が神様と一体にならなければなりません。そうしてこそ、創造理念を代表していく家庭になるのです。家庭がなくては「私」という価値を決定することはできません。私たちの個体には、神様の心情と希望が宿っています。私たちは、神様の心情の実体であり、神様のみ旨を代表した立場なのです。

16

祝福家庭は、数多くの民族の前に手本となり、数多くの教会の前に手本にならなければなりません。ヨセフ家庭が責任を果たせなかったことを、皆さんの家庭がよく果たすことによって蕩減復帰し、ヨセフの氏族が責任を果たせず、ユダヤ教が責任を果たせなかったことを、私たちが教団的に蕩減復帰して乗り越えなければなりません。そうして、家庭的失敗、氏族的失敗を国家基準を中心として、一時に蕩減復帰して乗り越えようというのです。

17

祝福家庭は、何をすべきなのでしょうか。神様の国と、神様の世界を相続し、神様の愛を相続しなければなりません。国を相続できる権限と、神様の愛を相続できる権限を、祝福家庭はもっています。今後、神様の国と神様の愛を相続できる特権的権限を許諾するのが祝福です。統一教会は、神様と神様の国を連結させる神様の愛を主張してきたので、心情の世界を語るのであり、心情の歴史を語るのです。ですから、家庭が問題になります。

18

祝福を受けた家庭は、天国創建において愛国者の家庭にならなければなりません。一切の生活は、寝ても覚めても天の命令によって動かなければなりません。霊界から見れば、この地上にいる祝福家庭は、「天の国のスパイ家庭」です。サタン世界で迫害を受けながら、自由のない隷属の環境で暮らす人たちです。ですから、そこで展開される基盤を拡大させるためには、自分の生死をかけて活動しなければなりません。

19

先生は、祝福家庭を先頭に立たせます。しかし、祝福家庭が苦労モーセず、天地のために涙を流す生活もしなければ、意味がありません。涙なしに生きる人は偽者です。終わりの日には分かるでしょう。きょう、私たちもまた、涙を流さなければなりません。そうかといって、食べることのために泣いてはいけません。任された責任を全うするために泣かなければなりません。怨讐と対決している私たちは、怨讐の基盤を占領しなさいとの特別命令を受けた責任者として、その責任ゆえに夜寝ることができずに涙しなければならないのです。

20

祝福を受ければ、アダムとエバが堕落する直前の段階に復帰するようになります。それでは、何をすべきでしょうか。完成すべき段階が残っているので、神様の心情を理解していかなければなりません。この過程において、神様が堕落した人間を救うために苦労された内的な事情を体得しなければなりません。神様がこの地上に愛するひとり子を送られて、復帰歴史に責任をもっていくようにされたのと同様に、祝福家庭たちも自分の子女たちを祭物にして、サタンの世の中に出ていかなければなりません。自分の息子、娘を背負いながら、ヨセフとマリヤがイエス様を抱いてエジプトに避難したような生活をしなければなりません。そして、愛する息子、娘がおなかをすかせているのを見て、「このような生活をするのは、この人類のためなのだから、私たちを愛されるお父様は保護してくださるだろう」と考えなければなりません。そうすれば、神様は、この世の中に実体として来られる主のような立場に彼らを立てられるでしょう。ですから、最後まで残って責任を果たさなければなりません。「私は祝福家庭なのだから、接待しなさい」と言っていては、敗れ去っていくのです。

21

祝福家庭が神様を中心とした生活、み旨を中心とした生活をしたでしょうか。できませんでした。自分を中心とする生活をしました。あらゆる生活の動機も目的も、み旨と神様であってこそ、そこに愛の園がつくられるのです。そうして、神様を主体にし、私たちは相対となって、与え合うことができなければなりません。そのようになれば、そこに神様の愛が介入するのです。

22

皆さんは、どんな人にならなければならないのでしょうか。天の家庭として生きていく原理原則がなければなりません。祝福家庭は、自分が属した氏族のために、つらい生活をしなければならないというのです。自分の周囲にいる家庭が眠るとき、一緒に眠ってはいけません。また、彼らが何かを食べるといって、一緒に食べてもいけません。祝福家庭は、その氏族内の家庭を育てなければなりません。子女を育てる父母と同じ立場で、その家庭が困難であれば、自分が困難を抱えている以上の困難を感じなければなりません。自分の近所で誰それが御飯を食べられずにいると聞けば、「いっそ、自分が飢えるほうがましであって、その人を飢えさせることはできない。到底私だけが食べることはできない」という心情をもち、その人に持っていってあげられる人にならなければなりません。

23

今日、祝福家庭は、赤ん坊を抱いて愛することができるのですが、その赤ん坊は何のために生まれたのでしょうか。神様のために生まれ、神様との関係を通して生まれました。夫を貴く思い、妻を貴く思い、二人でひそひそ話をしたり、どんなことをしたとしても、その相対は、自分たち同士で出会ったのではありません。公的な天道を前にして出会った人たちです。神様を介在させて出会った人たちです。息子、娘が悲惨であればあるほど、そこに介在された神様が悲惨になるというのです。そうであればあるほど、精誠を尽くし、姿勢を整え、神様が信じ得る節操と志操をもっていけば、私たちの行く道は、絶対に塞がりません。必ず打開されるのです。それは、今まで先生が闘ってきた生涯路程を通して体験したことであり、否定することはできないのです。

24

先生が自分たち祝福家庭のために苦労したことを考えるとき、自分たちも家庭において、先生以上に苦労できる子孫をつくっておかなければなりません。それが原理観です。モーセに従うイスラエル民族が、モーセの道に従うためには、モーセのような苦労をしなければなりませんでした。モーセがその道に立ち上がるときまで、エジプトの風習の中で、イスラエルの人として守るべき伝統を失わず、選民圏を守らなければなりませんでした。ですから、モーセが指導者になるまでの生活は、イスラエル民族の誰よりも苦労する生活でした。イスラエル民族がモーセに仕えるとき、そのようなことを考えて、自分の生涯に困難があっても、モーセ以上に苦労はできなかったということを考えて荒野路程に出発したとすれば、三週間以内にカナンの福地に行くことができたというのです。問題はそこにあります。父母に侍る立場にあれば、父母より子女がもっと苦労しなければなりません。国においても忠臣がいれば、忠臣は国王よりもっと苦労しようとしなければなりません。それが天理なのです。

25

統一教会の祝福家庭は、自分の国を求めなければなりません。「私」の国を求めなければなりません。これを失ったのがアダムとエバです。アダムとエバが失ったので、これは必然的であり宿命的なことです。堕落したアダムとエバの宿命です。神様と真の父母が介在したので、宿命的な課題であり、お金でもできず、何かの手段ですることもできません。いつでも血を流して血の祭壇に立たなければならないのです。