天聖経訓読室

第3節 信仰の修練

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ヨハネによる福音第三章十六節に、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」とあります。アメリカを愛し、教派を愛して、ひとり子を賜ったのではありません。世界のために賜ったのです。バプテスト教会や長老派教会のために賜ったのではありません。それで、先生は、はっきりと教えるのです。統一教会は、世界のために存在し、神様のために存在するのであって、先生のために存在するのではありません。ですから、先生は滅びません。統一教会は滅びません。神様が保護するからです。すべての完成は、真の愛から始まります。全世界が真の愛を中心として、このような公式を適用して訓練しなければなりません。そのようにしなければ生きていけないというほど、習慣化しなければなりません。世界のどこに行っても、そのように生きなければならないのです。年老いた人を見れば、自分の祖父と祖母のように、父と母の年齢なら自分の父と母のように、自分の相対の年齢なら自分の妻や夫のように、息子、娘の年齢なら自分の子女のように、自分の年齢なら兄弟のように愛さなければなりません。それが習慣化しなければなりません。楽しくなければならないのです。

真の愛で

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川の水は、海に向かいます。地上は川の水と同じであり、霊界は海水と同じです。人間は誰でも霊界に行くようになりますが、淡水魚は、海水では死んでしまいます。突然入れば、窒息するのです。ですから、慣れなければなりません。統一教会は、その世界の内容を地上で訓練する所です。真の愛、ために生きる愛の活用訓練をさせる修練所が統一教会です。ために生きる愛の実体を形成するための修練所です。神様がために生きる愛で生きているので、ために生きる愛をもった場合、どこに行っても歓迎されます。どこに行っても反発がないのです。

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真の愛の統治圏として征服することは、容易なことではありません。重なり合った防衛線を経て、受難を克服して立ち上がってこそ可能です。また、その受難を甘受できる自らの立場が決定された現在の基盤をもたなければ、達成することはできません。このような点から統一教会の現在の立場を見てみるとき、統一教会がこの世界の歴史過程で未来の主人として君臨できる立場とは、どのような立場でしょうか。個人のための立場ではありません。個人の立場より良い立場です。世界人類の個々人より少し良ければ、個人的な未来の主人になるかもしれませんが、個人的な主人では駄目です。また、家庭を中心として見てみるとき、少し良ければ家庭的主人になるのですが、私たちが望むのはそれではありません。家庭を越えて氏族、氏族を越えて国家、国家を越えて世界的主人として君臨しなければなりません。これは、簡単な問題ではありません。誰よりも悲惨な歴史過程を経て、現実的勝利の基盤を準備しなければ、未来の主人になることはできないのです。

4

愛のふろしきは、神様とこの宇宙を入れても余ります。神様まで入れても、そうです。もし神様が一秒の間に三十万キロメートルも進む電気をつくったとすれば、神様はそれよりも速く進むはずですが、その愛のふろしきで、もてる力を出し切って走っても事故が起きないほど、愛のふろしきは大きいというのです。いくら宇宙が大きくても、その愛を中心として回るようになっているのであって、直線では行きません。真の愛をもった人は宇宙をもち、宇宙をもった人は、宇宙を治めるのです。今日の地上生活は、このような愛を訓練する所です。そのような所で暮らしているのが人生なのです。

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真の愛でために生きれば上がり、自分を愛すれば下っていきます。地獄と天国が自分を中心としてできています。体を中心として喜ぶときは、サタンの舞踏場になり、心を中心として絶対的に喜べば、神様の舞踏場になります。神様が喜べる絶対的な心になれなかったというのです。体を中心として絶対的に喜べば、地獄に落ちて滅び、なくなってしまうのです。

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真の愛で怨讐のために生きてあげれば、怨讐の世界を治めることができるようになり、その怨讐の世界がむしろ皆さんを尊敬し、侍るようになるのです。皆さんの子女や父母よりも、周辺のすべての人のために生きてあげ、これ以上ない真の愛を施せば、サタンは自動的に逃げていくようになり、代わりに神様がその場に訪ねてこられて、千倍、万倍に返してくださるのです。サタンをして逃亡せざるを得なくさせる秘法とは何でしょうか。真の愛でために生き、ために死に、ために愛そうとする真の人の前では、いくら悪辣なサタンでも、国境線を放棄して逃げていかざるを得なくなるのです。逃亡するとしても、国境線を崩してから行くようになっているのであって、そのまま行くことはできないのです。そのようになれば、どんなことが起こるでしょうか。悪魔、サタンが離れていくことによって、地獄の死亡圏に直行していた無数の生命が、一八〇度旋回して天の国に上昇できる永生の道理が広がるのです。このように永生の祝福が下されるのです。

み言に従って

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先生が神様のみ言で生きたので、皆さんも神様のみ言で生きなければなりません。皆さんは、先生より何倍も熟達できるように、み言を読んで、また覚えて行わなければなりません。そうしながら、「私はこのような道を行かなければならない。父母様が願うことがこのような道なので、このように行かなければならない」と考えなければなりません。そのようにすれば、皆さんがある村に入っていったとき、その村の先祖たちまで来て自分に侍ってくれ、「歓喜の同参者になりたい」と思うというのです。

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父母様が残しておいたみ言をたどる後世になってこそ、その万国の万民全体が永遠の天上に近こに接近していくというのです。先祖を尊重し、先祖が残した遣物と、先祖が訓示として残したみ言を、世の中で自分が生きることよりも、表象的でない実象的な主体として、暗い世界の灯台のように見つめてこそ、暗い海の暗礁が幾重にも囲んだ世界を分別していくことができ、自ら解放の道を行くことができます。その灯台を見て、自分の方向を尋ね求めていく道しかありません。その灯台になれる話を先生がするのです。今まで天地を中心として、先生のみ言以上のみ言を語った人はいませんでした。ですから、この上なく高い心情の世界から芽生えて出てくる、天上のみ言として受け入れることができなければならないのです。

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終わりの日には、心情と人格とみ言で審判するのです。どれくらいよく信じたか、ということで審判するのではありません。神様には心情の中心があります。天地を中心として、神様が立てるべき、ただ一つの心情の中心があります。そして、この神様の心情と一体になれる人格の中心があります。また、この人格と心情と一体になれる人として、神様の代わりに語れるみ言の中心があります。これが審判の三大要件です。その中でも、み言の審判が最初に始まります。堕落した人間の世の中では、み言の審判が先に展開されるというのです。

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今日、堕落した世界の思潮は、真理の世界を求めていきます。そして、文化と共に発展していく歴史は、一つの文化世界に向かう理念を求めています。今まで、世界の思潮は、思想と主義を通して現れましたが、万民が一つになることができ、万民が和合できる一つのみ言の基準を立てられないまま、袋小路でもがいています。これが今の現実です。ですから、共産主義者たちも溶かし、民主主義者たちも溶かして、一つにできるみ言が出てこなければなりません。真理を追究するこの世界に一つのみ言が現れて、今までの真理を審判しなければならないのです。

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皆さんが恩恵に満ちて、命懸けで立ち上がれば、神様が代わりにマイクを持って立ち上がるというのです。天使世界も同じです。先生もそうです。ですから、このみ言に夢中になって、御飯を食べるのも忘れ、寝るのも忘れ、生活するのも忘れるほどに高揚すれば、皆さんは、誰でも、先生がしていたことを身代わりすることができます。この作用が偉大なのです。

蕩減の峠を越えて

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神様は、アダムとエバの堕落によって、人類を一度に滅ぼしても収まらないほど悔しくて無念なのに、その父の世話になって良い暮らしをしようと、自分が幸せになろうと考えてはいけません。神様が捨てるしかない世界を再び収拾し、第二の理想郷に向かって、本郷の故郷の山河と父母たちに侍っていた孝子、忠臣、聖人たちが歩んだその後ろ姿についていき、一歩でも間違いなくその道を踏んで、この蕩減の峠を越えなければなりません。父母様が歩んだ道は、皆さんが一緒に行かなければなりません。ついていかなければなりません。千里万里、千里遠征です。千里遠征が残っているのです。

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蕩減の道は、必ず時間が消耗されなければなりません。また、単に時間の消耗だけでなく、自分自らの消耗が起こらなければなりません。このような信仰の道を切り開いていくべき、各自の責任が残っています。それでは、皆さんがここにどれほど時間を消耗し、どれほど自分自身を消耗したでしょうか。これが蕩減の要因を除去させるか、させられないかを左右します。このように見てみるとき、信仰の道は、犠牲の道です。自分の生涯の犠牲です。言い換えれば、自分が幸福になるすべての要因を投入する道です。それだけでなく、自分の肉身もここに巻き込まれなければなりません。全体を中心とした犠牲と、自分自体を中心とした犠牲の代価を支払わなければならないのです。その時間が長く、自分自体の犠牲の量が多ければ多いほど、それに比例して、自分一代で清算できる蕩滅の量が多くなるというのは、正当な道理です。

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豊かに暮らす人より、苦労をたくさんする人が福を受けます。一番高い基準は、一番苦労することです。それで、先生は皆さんを苦労する場に追いやるのです。「その分野においては私でなければならない」と言うことができなければなりません。それでこそ、責任を遂行することになります。僕の中の僕になり、養子の中の養子になり、息子の中の息子になって、子孫までも公認する永遠の祝福の立場まで進んでこそ、責任を全うした皆さんになるのです。行くときは、僕として行き、養子として行き、息子として行き、聖霊とイエス様の資格で行き、最後には父として行かなければなりません。息子、娘の立場までは自分のための蕩減分野であり、聖霊とイエス様の立場は父のための蕩減分野です。父の責任まで果たしてこそ、自らの責任を全うすることになり、過去、現在、未来に対して不足のない自らになるのです。

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神様の息子であるイエス様は、世界と天宙を連結して親孝行をする男性になることが目的ではありません。親孝行をする家庭をつくるのです。家庭で血統を誤った基準から、個人的家庭、家庭的、氏族的、民族的、国家的、世界的家庭をつくるのです。先生独りでその十字架を背負って蕩減の峠を越え、境界線、国境線を越えてきています。先生は、世界的な基準で勝利することによって、神様とサタンの戦争までやめさせ、平和な地上天国、天上天国をつくるのです。

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神様の悲しみを蕩減してさしあげなければなりません。神様が「私」のために涙を流した代わりに、私たちは、兄弟のために、国家のために涙を流し、世界のために涙を流そうというのです。このような責任を遂行する群れが世の中に現れるようになれば、その群れは滅びません。その子孫は、間違いなく発展するでしょう。皆さんの当代には、もちろん悲惨な、歴史的な何かがあるかもしれませんが、今、終わりの日が来たので、当代に二つの世界を審判し、一つの世界を建国できる時代が来ることを知り、この時こそ歴史的な時であり、神様のみ前に孝子になることができ、忠臣になることができる時であることを知り、神様を慰める皆さんにならなければなりません。

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もし、どんな悲惨な環境の中でも、自信と勇気をもって困難を克服して再出発できる群れがいるとすれば、新しい世界は彼らから始まります。しかし、何かをもっている群れは、動くに当たって勇気がなく、もっていない群れは、動こうとしても動ける力がないのです。ですから、私たちは、このような境遇にある人たちにつき従うことができ、また与えることのできる、その何かをもっていなければなりません。この境地を越えるには、そのままではできません。そこには、多くの蕩減条件と犠牲を経なければなりません。自分の利益のための犠牲ではなく、全体の利益になる犠牲を払い、全体の勝利、全体の価値のために、自分の一身を犠牲にすることに満足する群れが必要です。

関係回復の原理

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神様の愛を中心として、すべての万物が和動する中で、万物の主人の資格を備えて神様に、「我が父よ。栄光をお受けください!」と言うことができたアダムが堕落することによって、そのような価値を喪失してしまいました。ですから神様は、創世以後、本然の息子、娘が現れて「父よ」と叫ぶ、その一言を聞きたいと思うのです。今日、私たちが呼び求めているその父は、罪悪の立場で呼び求める父ではありません。ですから、私たちは、罪悪の世の中から抜け出して、善の理想の園に入っていかなければなりません。その理想の園とは、人間が神様の栄光を現す世界であると同時に、喜びに陶酔して生きることのできる世界です。言い換えれば、人間が動ずれば万物が動じ、人間が静ずれば万物が静ずるようになり、人間と万物が動じ静ずると同時に、創造主の神様も動じ静ずることのできる世界です。それだけでなく、神様と人間の相対的な関係を超越して、一体となる理想の園なのです。

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神様は、人間が御自身と一つになることを願われたのであり、一つになった中で驚くべき愛を中心として喜びに酔う、その一場面を思い描きながら、そのような世界を創造してこられたのです。ところが、人間が堕落することによって、これが自分たちの怨恨になったと同時に天倫の怨恨となり、堕落以後今日まで、その怨恨に怨恨を加重させる悲しい歴史を連ねてきたのです。それでは、神様が今日、この地に対して摂理される最大の希望とは何でしょうか。それは、堕落の父母をもつ人類を再び神側に立て、「私は、あなた方の永遠の父であり、あなた方は、私の永遠の息子、娘だ」と叫ぶことです。そのようにできる日を迎えることが、堕落した人間の歴史的な希望であり、天倫に対する天的な希望なのです。

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平和の世界は、国家と国家の間に良い関係を結ばなければなりません。闘争の概念があってはいけません。関係を結んで相対的立場にならなければなりません。縁があって来たので、相対的な関係になってこそ関係が結ばれるのです。関係というのは、悪いものを中心として語る言葉ではありません。良い意味の言葉です。

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関係は、縁のないところでは結ばれません。仏教では因縁を語りますが、統一教会では関係を語ります。一段階先を行っています。関係は必ず二つ以上で結ばれますが、因縁は一人でも結ばれます。心と体は相対関係になっているので、統一された醐係を結びます。男性と女性も相対関係になっているので、「夫婦一体」と言うことができます。このように見れば、関係を結べるその中心がなければならないのです。父子関係も相対的な関係なので、「父を中心として」、「息子を中心として」と言うように、絶対的な内容を満たせる「中」がなければなりません。真ん中を意味する「中」の字、これは四方の中心を意味するのです。

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主体と対象の関係というものは、時間と空間を包括しています。関係を結ぶようになるとき、相手は低い位置にいますが、大きな心をもって対すれば、その相手にも大きな栄光を与えるのです。父母の心が広ければ広いほど、その相手もそうなるのです。主体の前には、必ず対象存在が生じるようになっています。

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関係というものに型があれば、その型に縛られたすべての人間の歴史や個人の事情は、みな異なります。ですから、主流とどのような関係があるのかというのです。木で言えば、木の葉は千年前に出てきた葉も、千年後に出てきた葉も、その本質は同じです。その木の中心の根と連結されています。また、中心の幹と連結されていて、中心の芽が連結されています。枝も同じです。東西南北の四方にほかの枝があっても、その内容においてはみな同じだというのです。

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共鳴圏は、二人が一つになった境地です。父母も二人であり、夫婦も二人であり、兄弟も二人であり、子女もそうです。すべて二人です。カップルになるので、関係という話になります。「兄弟関係」というものも、二人を前提に語る言葉です。独りでは「関係」という言葉は使えません。「政治関係」も国と民であり、「主体と対象の関係」もやはり二人を前提に使う言葉であって、独りでは関係を結べないのです。

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人間に体恤させ、人間と父子の関係を結ぶために苦労していらっしゃる父であることを、心や生活で感じなければなりません。私たちの最後の希望として残されているもの、すなわち神様の恩賜の中で私たちが立てられるのも、何を基準として立てられるのでしょうか。それは、創造の理念である神様と人間の父子関係を回復するために、地上でどの程度実践したかということにかかっています。私たちの生活圏でどの程度実践したかによって、自分たちの価値を見いだすことができるのです。

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鳥や、海にいる魚のような万物、万有の存在にも、歌と、踊りと、会話できる言葉があります。言葉が少し発展すれば歌になり、歩き方が発展すれば踊りになるのです。このような表現で和合し、会話できる関係というものは、愛を中心として成り立っていることを知らなければなりません。愛の時間を分かち合い、愛の時間を互いに高揚させるための行動を、万有の存在が競争しているのです。人間は万有の主人です。ですから、人間がこの歌の話と、和合の話を一日に十倍、百倍加担させて、さえずり、喜べる世の中になれば、その世の中は、神様が酔いしれて暮らせる環境となる世の中なのです。