まぐろ釣りは、普通の釣りではありません。海のハンティングです。海のハンティングという言葉は、初めて聞くでしょう。それを捕まえるのは、大きな牛を一頭捕まえるよりも難しいのです。一匹で千ポンド以上になります。五百、六百、七百キロになるものもいます。それは雄牛よりも大きいのです。そのようなものを捕まえれば、わくわくします。捕まえて長い間置いておくと肉が腐ってしまうので、血を抜くのですが、血を抜けば、海が一瞬にして血の海になります。そのときは先生も、「本当にすまない」という思いが湧きます。先生はそのようなとき、いつも「私たちを人類解放のための祭物と考える神様の心情はいかばかりか」と考えます。また、「自然界で捕まえた物は、自分が精誠を込めたものではないので、私が育てて祭物を捧げます」と心に誓うと、気分が晴れたのです。それで養殖事業をし、水産業をするのです。
第4節 海釣りの深い意味
精神的な健康のための海釣り
海の魚を見れば、本当におもしろいのです。一番端、一番浅い所には小さな魚がいます。深い所に入れば、次第に大きな魚になっていきます。小さな魚は、もう少し大きな魚に食べられ、また、それはさらにもっと大きな魚に食べられるのです。おもしろいことに、鯨やまぐろを見ても、子も全く同じだというのです。すけとうだらも、まぐろであっても、小さな子は同じです。そのように食べられる過程を越えなければなりません。ですから、不平を言えないというのです。大きな魚の子だからといって、最初から大きく産んでおいて小さな魚を食べるようにはなっていません。同じ立場で出発するのです。このように公平な神様です。
海に行けば、水が深ければ深いほど温度の差が大きいのです。一度、二度の温度差によって魚の種類がすべて変わります。人間には分かりませんが、魚の世界では、一度の差による階層と、その面に沿って五大洋を訪ね回るのです。本当に神秘的です。きのうまで魚が無尽蔵にいて、魚が半分、水が半分の状態だったのですが、きょう行ってみると一匹もいません。それはなぜかというと、温度差のためなのです。五度、一度変われば、完全にいなくなるのです。人は一度、二度の遠いなど問題ありませんが、魚たちはそうだというのです。人は寒帯地方に行っても暮らすことができ、熱帯地方に行っても暮らすことができ、温帯地方に行っても暮らすことができますが、動物はそうではありません。
海釣りに行っても、ただ水平線だけがある海に行くのではありません。必ず、底に石がある所に行かなければなりません。石があって隠れることができ、虫がくっついて棲む所に魚がいるというのです。水が流れるのを見れば、魚がいる所は必ず波が立ちます。三メートル、五メートルの波が立つというのです。そのような所に行けば、魚がいるのです。そのような所に近づいて魚を釣らなければなりません。
先生は、温度に合わせて釣りをします。どれくらいの温度の場所には、どのような魚がいるか分かるのです。釣り糸を何度か垂らせば、魚がもう餌をつつくのです。釣り竿を早く巻けば上に上がり、ゆっくり巻けば沈むのです。ゆっくり巻きながら、今、水面の何分の一の所に針が流れているか、すべて分からなければなりません。今このような気温なら、大きなさけはどのくらいで来る、ということが先生には分かるのです。さけは普通、海底にいます。底に餌がたくさんあるからです。虫やかにのようなものがそこにいるので、海底に集まるのです。
釣りをするために海へ行くのではありません。アラスカ精神とは何かというと、さけの精神です。さけは、子供を産むために四千マイル、五千マイルの大海を渡り、昔旅立った自分の故郷に訪ねてきます。人間の復帰路程もこれと同じです。何千万里離れたとしても、再び訪ねていくことができなければなりません。釣りをするにおいても、これ以上興奮する釣りはありません。それがどれほど強いか分かりません。他の魚が食いついたときは、何度か巻けば出てくるのですが、これは数十回巻かなければならないのです。
先生は、かなり上手に釣りをします。四十日以上、夜も昼もやってみました。先生が釣ろうとする魚は、すぐに食いつくようなものではありません。「それに食いつけ、めだかのような群れよ、集まれ」と言いながら、最後に大物が食いつくように待っているのです。今皆さんがやっている伝道を、同じように考えてみなさいというのです。今、ひもが垂れているのかどうかも分からないまま、出ていって伝道しています。しかし、それを引っ張る時が来るのです。ですから、いくらでも待ちなさいというのです。大きく決心しなければなりません。今、そのような標準をもって進んでいるので、皆さんは一気に伝道しようという、せっかちな思いをもってはいけないというのです。
船に乗り、釣り竿から糸を垂らして座っているときの退屈さは、到底言葉にできません。そこで散歩ができますか。狭苦しい所で動き、そこで科理をしなければなりません。そこから映画を見に行けますか。友人の所に遊びに行けますか。静かにしなければならないので、音楽も聞けないのです。ですから、海を見つめながら、海や空と対話するのです。海と空が一つになる、そこに先生が一人いれば、本当に気分が良いのです。そこでは、神様もお一人、先生も一人なので、その気分が通じるのです。魚を釣りに来たのに、そのようなことを考える人は、歴史上、先生一人しかいないでしょう。先生はなぜ、頻繁に海に出るのでしょうか。霊的に、すべての面において利益が多いというのです。一日中家にいれば、精神が散漫になり、世界宣教や教会問題など、全体を考えなければならないのに、その何分の一しか考えられません。しかし、海に出れば、全体的に考えることができるのです。そのような面において、海はとても良いのです。「だから『釣り道』という言葉が出てきたのだなあ」と感じるのです。
先生は、釣りに行くにしても、どこに行くにしても、多くのことを考えます。長い間釣りをした人は、釣り竿を十回垂らせば十回考え、百回垂らせば百回考えるのです。ですから、十回垂らしながら百回考えるようになれば、先頭に立つことができるのです。
ハンティングは肉体運動として、肉体の健康のためのものであり、釣りは、精神の健康のためのものです。座って釣りをするときは、自分の一生を回想し、本当にたくさんのことを考えるのです。そのような時間をもてるのは驚くべきことです。自らの過去を分析し、未来の生活を設計できます。私たちにとって最も重要な時間となるのです。威厳を備え、自分自身を静かに省みることができます。それが絶対に必要です。これを東洋では「釣り道」といいます。ですから、何年か釣りをすれば、魚を釣っても放してあげたいと思うのであって、釣った魚を食べたいという思いは全くなくなります。それが本当の「道」です。食べたい思いがなくなるというのです。ですから、どれほど道徳的、精神的な発展になるか分かりません。そのようなことを学べば、残忍性をなくしてしまえるのです。何かの部署の長になれば、その部署の人々に紳士的に対せるようになります。このすべての人間を和合できる、一つの道場になっているのです。
歴史は新しい世界をつくっています。ですから、先生を指さして「間違っている」と言うことはできません。先生は恥ずかしくないというのです。魚の顔を見て話すのです。日中座って釣りをしながら、「お前たちは私のような男に初めて会うだろう。お前たちを捕まえるのが目的ではない。お前たちを連結させ、漁場を中心として人類の飢餓を解決するためだ。それが、お前たちの創造された本然の目的ではないか。そのようになれば、お前たちの肉を食べた者は悪いことをしなくなるだろう」と言うのです。
先生が釣りをするとき、「私が主人だ。来なさい!」というと、魚が集まってきます。そうすれば餌をあげるのです。ですから、釣りをすれば、いつも周りの人々よりもたくさん釣ります。おかしいというのです。どうしてそうなるのか、理解できません。縦的な神様を中心とすれば、そうなります。そこから特別な光が出るのです。皆さんから普通の光が出るとすれば、先生からは特別な光が出るというのです。その光を魚が見るのです。それで、いくら「来るな」と言っても魚が押し寄せてくるのです。
先生は釣りに出て、最初に釣った魚は放してあげます。神様が造って解き放つという思いをもって、放してあげるのです。そして、今まで先生が釣った魚は、食べませんでした。二千万の神様の息子、娘が飢え死にしているのに、魚が自然死するのを許せないのです。「お前を釣って二千万の神様の息子、娘を生かしてあげなければならない」というのです。動物、あるいは植物が生まれた原則がそれなので、それに対しては有り難く考えなければなりません。そのような意味で、釣り大会に出れば、先生の釣り針には魚がよく掛かり、一般の人の針には掛かりません。精誠です。「神様が造った水の博物館に潜って入っていくことはできないので、一度水の中から飛び出してきて、神様が解き放つときの喜びを私に鑑賞させてほしい」というと、自分から訪ねてきて釣られるというのです。
真の愛をもてば、何でも統一が可能です。動物世界や植物世界、毒蛇までもすべて保護してくれるというのです。先生が釣りをするときは、「魚たちよ!私がお前を釣るのは、私のためではない。世界で飢えて死んでいくあのかわいそうな人々に、神様が涙を流しながら食べさせてあげたいと思う、その心情に代わって釣るのだ。私のためではなく、子孫と万民のために釣るのだから、お前たち、許してくれ!」と言うのです。それで、最初に釣ったものは食べずに、祭物として放してあげのです。愛を受ければ、その前に生命を捧げようとします。ですから、船に乗った十二人が釣った魚のうち、三分の一は先生が釣ったものです。周りで魚たちが見分けて、「先生の釣り針にだけひたすら食いつけ!」と考えるのです。
船に乗り、青い海で魚を釣ることは、神様の復帰摂理、救援摂理と同じです。堕落した人間が魚だとすれば、それと同じです。良い餌を用いなければならず、次に丈夫な糸を結ばなければならず、釣り竿も良いものでなければならず、すべての物をそろえて釣らなければならないのであって、糸も弱く、餌も悪く、釣り竿も悪く、釣る技術も悪ければ、釣れないというのです。世の中で生きるのも、魚を釣るのと同じです。
この世の中で成功しようと思えば、自分自身が釣り竿のような立場で釣り針を作り、良い糸、良い餌をかけて釣らなければなりません。ただそのままでは釣れません。それに相対的な条件が合ってこそ収穫ができるのであって、相対的条件を合わせなければ収穫をもたらすことはできないのです。ですから、一人で生きるのではありません。全体、すなわち万物と人類、天地、神様と共に生きるのです。万民が見つめる目、良い目、良い五官、良い体、それも神様が見つめる五官、そのような良い体として共に生きることを自覚しなければなりません。それを感じて暮らせば、その人には宗教が必要ないのです。
最高の釣り餌のようなものが愛です。万民を釣れる一つの餌が、愛です。歴史を釣り、神様を釣ることができる餌は何でしょうか。神様を釣れる餌があるなら、一度準備してみたいでしょう。それは愛の餌です。歴史を釣ることができ、天地を釣れる餌があるとすれば、それは愛です。
今や私たちの時が来ました。神様が願われてきた時を迎えたというのです。歴史時代の数多くの人類、もしくは数多くの烈士たちが血の道を選んでいきながら築いてきた願いの一時代が、私たちの目前に到達しました。それが私たちの時代にかかっています。大きな魚の前に餌となり、おいしそうな匂いを漂わせながら尾を振ってぐるぐる回っている気分です。その餌を先生が握って座り、魚ががぶりと食いつく時に引っ張り上げるのです。そのような点で、釣りという趣味は、本当に葉晴らしいというのです。夜の十二時を超え、午前三時、四時を過ぎて疲れてくれば、眠気に襲われ、遠くの村からは鶏の鳴く声が聞こえてきますが、魚が餌に食いついて鈴が鳴れば、精神がどこに行ってきたのか、はっきりと目が覚めるのです。本当に速いのです。雷もそこまで速くありません。そのような精神さえあれば、世界統一は間違いありません。目を閉じ、鼻でいびきをかいていても、いつの間にか正しい姿勢を取り、釣り竿を握っているのです。そのようなことが起きるのです。そのようなときの喜び、その味が修道です。これが本当の神様式修道だというのです。
人類の未来のためのビジョン
未来において、人類は海を占領しなければなりません。海にあるすべての金銀財宝をこれから開発するのです。そのようなことを考えていたとき、トンネルをたくさん掘らなければならないという結論が出たので、今、国際平和高速道路の計画も出てきたのです。海底にトンネルを掘って道を造り、そこに門を造っておけば、その門から出ていって魚を獲ることもできるので、どれほどおもしろいでしょうか。海にある油も、船にパイプで直接供給すれば、どれほど紫晴らしいでしょうか。海底に石油が、どれほど多くあるか分かりません。ボタンを一つ押すと、パイプが現れて油が出てくれば、どれほど素晴らしいかというのです。
人間は、どこでも自由です。国境もなく自由に、海に行こうと思えば海に行き、山に行こうと思えば山に行き、水中でも暮らすのです。潜水艇を造って海の中で深度を調節すれば、いくらでも暮らせる時代になります。そのようにしなければ、人類の生きる場所がありません。タンクに水を入れ、沈ませれば沈むのです。ボタンで操作し、水を入れたり抜いたりすれば、沈んだり浮いたりするので、水中で暮らせるのです。十メートル以下に行けば、天地にそれほど良い場所がありません。三十メートル下に降りていけば、非常に静かな世界が現れるのです。海底王国です。空中に上がれば風も強く、変化が多いので大騒ぎになります。気流が変わり、空気が変わり、雨が降って大変です。ですから、海に出て暮らすのが、理想的な生活だと考えるのです。
今後は、海の中に入って暮らすこともできます。それで、五人乗りの潜水艇について研究させています。風が吹かないときの穏やかな波がある所では、億万長者の主人になれるのです。どれほど神秘的で、気分が良いか分かりません。風が吹かないとき、ガラス玉のような海で、大海原に夢を託した夫婦が座り、皆のことや未来の夢を語り合いながら、愛の家庭をつくっていくと考えてみてください。それも問題ありません。もし台風が吹いても、三十メートル下に潜ればいいのです。水中で思いのままに暮らせる時が来ます。ですから、大韓民国の地が狭いといって心配しなくてもいいのです。
これから、陸地には食べる物がなくなります。食糧が不足します。ですから、海に行って暮らすようになるのです。そこで、陸地の肉の代わりに魚を取って食べ、野菜の代わりに海藻類を食べればよいのです。指導者であれば、皆さんが未来において、そのように海の中で暮らせるように計画すべきではないでしょうか。水の中に酸素がどれほど多くありますか。ですから、水の中で酸素をつくり、自動で供給するのです。海水の中の酸素の割合はどれくらいですか。それを、どのようにしてすべて使いきりますか。海の世界を占領できる時代が、遠くない将来に訪れるでしょう。
先生は、未来の世界に対して準備します。海に出掛けるのが好きで、そうしているわけではありません。海にいるのは大変です。最初は一週間行ってくれば、膝の裏がずきずき痛みます。しかし、心の中では、「すべきことが多いのだから、年のせいにせずに行かなければならない!」と考えました。ですから、休むことができません。十日ほどたつと、早朝に出て、夜の十二時に帰ってきてもびくともしなくなりました。しかし、一緒に行った人たちは、「疲れた」と言って釣り竿をつかみながら眠るのです。それでも、司令官となり、命令を下す立場では、まず魚を釣らなければならないという思いをもたざるを得ないのです。するとあるときは、魚が来て食いつくのが感じられるのです。精神は、そのように驚くべきものなのです。