天聖経訓読室

第1節 祝福家庭の生活法度

この節の音声は準備中です。
1

互いの良い面を備えて、父母に侍る生活をしなければなりません。父母に侍りたいという懇切な思いをもって毎日のように待つのですが、父母がお越しになれないことをよく知っているので、愛する天の兄弟や天の息子、娘が自分の家に来ることを待ち望みながら、朝から夕方までお客さんを接待するために準備する人が、天の福を受ける人です。昔、韓国の礼節のある人たちは、通りすがりの旅人が泊まっていけるよう、サランバン(客間を兼ねた書斎)をきれいに飾って、お客さんを接待する部屋として使いました。このようなものは、韓国だけがもつ由緒ある歴史です。この法度は、天の法度をあらかじめサタン世界の歴史過程において、象徴的に見せてくれたものなのです。

心得ていくべき家庭の法度

2

今まで私たちは、いい加減に生きてきて、言葉もいい加減に使ってきました。しかし、これからは、私たちの家庭にも規律を立てなければなりません。父母が、腹が立つといって子女を好き勝手にたたき、「このどうしようもないやつめ!」という世俗的な言葉を使ってはいけません。今からは、すべてが一新されなければなりません。神様を中心として言葉から、態度から、生活から一新された立場に立たなければならないのです。

3

宗家が栄えるためには、先祖から下ってきた家法や礼法をきちんと受け入れ、実践しなければなりません。そのようにせずに、「そんなもの、もうなるようになれ、それが私と何の関係があるか!」という人は、宗家の子孫になれません。そのような人は、宗家の長孫(長子の長子:跡継ぎ)として生まれたとしても、長孫になれないのです。今までの先祖よりも優れていなければならず、いかなる先祖もできなかった無数の責任を果たせる子孫にならなければなりません。統一教会の教会員は、そのような子孫にならなければならないのです。

4

昔、忠臣の家庭では、良い物ができたらまず国王に捧げました。これが韓国の忠臣の生活法です。そのような観点で、韓国の礼法は、いかなる国にもない天国の中心内容です。儒教では、孔子の教えに従いますが、その孔子の教えを中心とした礼法を見れば、天法に近いものがたくさんあります。これから皆さんの子孫が、皆さんに対して祭祀を行うようにしなければなりません。今はまだ、生活規範や葬儀を執り行う手順などが「統一原理」を中心として定められていませんが、これからその礼法が出てくれば、そのときからは適当にしてはいけないのです。これから皆さんは、どのような内容であっても、神様が共にいてくださるという心を中心として、自分の環境を克服し、根を深く下ろして、どのような風霜でも育つ生命力をもたなければなりません。

5

孝の道を行く人は、自分の生活の中で良いことがあれば、まず父母を思います。先に自分の夫や妻を思うのは、堕落した世の中ですることです。自分の父母にまず貴い物を買ってさしあげなければ、自分の妻に与えることはできないのです。自分の妻に服を買って着させようと思えば、まず父母にしてさしあげなければなりません。妻も、自分の夫が父母にしてあげられないのに、「これが気に入ったので、あなたが私を愛しているなら、一つ買ってください」とは言えません。食べる物もそうです。男性も同じように、自分が服を買って着ようと思えば、まず父母に買ってさしあげてから自分が着て、妻にも着させてあげなければなりません。御飯を食べるときも、父母に侍って食べなければならないのです。

6

習慣的で世俗的な家庭であってはいけません。「今はこうだが、いつかは良くなるだろう」と考えてはいけません。完全でなければなりません。現在が問題です。過去と現在が完全であってこそ、未来も完全であり得るのです。エデンの園でも、このような一日をもてなかったことが堕落の証拠です。過去、現在、未来が一致する位置が、理想的な位置です。現在を捧げることができなければなりません。地上の永遠の足場になり得るかというのが、神様の願いです。これが歴史的な総合点です。

7

今後、法の中でも、愛を侵犯することを罰する法以上に恐ろしい法はないと理解する時が来るでしょう。今まで皆さんが、ありとあらゆることをした過去があれば、ここで潔く悔い改めなければなりません。原理を聞くたびに本当に言葉を失い、悔しく口惜しい思いを感じなければなりません。「堕落の子孫として生まれたのも悔しいのに、私自身がまたそのようなことをしていたとは!」と、拭うことのできない悲痛さを感じながら、神様のみ前にこれを赦される道があれば、それ以上に感謝することはないという立場に立たなければなりません。皆さんがこの罪に引っ掛かれば、皆さんの先祖まで希望がないのです。

8

一心、一体、一念、一和です!その次に、真の愛、真の生命、真の血統、真の家庭です。一和までは、相対がありません。神様の二性性相が男性、女性に分立され、彼らが子女を生んだのちに、四位基台完成となります。これは鉄則です。先生が適当に持ってきてくっつけたのではありません。天の法度、霊界の組織がそのようになっていることを知らなければなりません。ここに一致しないときは、問題が発生します。愛の法度は、何億千万年が過ぎても、絶対、唯一、不変、永遠でなければなりません。愛の相対的理想圏において、宇宙がそのように存続しているという事実を考えるとき、自分たちの愛は、絶対、唯一、不変、永遠だというのです。それでこそ、万宇宙の前に恥ずかしくないのです。万宇宙が主人として侍るとき、「堂々とした私自身の家庭である」と言える観念をもたなければなりません。

9

皆さんには食口がいるので、兄弟同士、愛を与え合い、互いが互いのために与えられる人にならなければなりません。そのような模範食口になるべきです。統一教会であれば、教会の食口全体が敬える男性、女性にならなければなりません。これからは、切るものは切り、解体するものは解体しなければなりません。皆さんの思いのままにしてはいけません。統一教会は、天国を成し遂げなければならない教会なので、個人ではなく家庭を探し求めなければなりません。家庭生活で手本になれない人は、世界的に指弾され、全天宙的に指弾されるでしょう。

10

祝福とは、責任を果たしてこそ貴いものなのです。この世的な悪口を言ってはいけません。世の中の人たちとは、何かが違わなければなりません。家庭は小さな教会です。神様の代行機関として、神様が訪ねていきたい家庭にならなければなりません。最低限、三家庭が一緒に暮らす以上に結束しなければなりません。特別に伝えてあげたいことは、第一に、多くの人々が往来できる家庭になりなさいということです。人が和合することが最も重要です。そして、第二は天の家庭同士、団結しなければならないということです。最低限、三位基台になった祝福家庭同士だけでも、完全に一つになるべきです。

11

私たちは、個人中心ではなく、家庭中心です。だからと言って、家庭だけを中心としてすべてのものを清算するのではなく、すべて連結しなければなりません。ですから、昔、独りで修道の生活をしていたときの努力ではいけません。「昔、努力したときの何倍以上も努力しよう」という決意と覚悟を加えなければなりません。悪に対して挑戦していく生活は、ややもすると疲れて後退しやすいのです。家庭をもったときは、独りのときの何倍も努力しなければなりません。家庭は中心をつかむ場です。私たちは、現実を避けることはできません。前後、左右、上下の関係を家庭で築かなければならないのです。ですから、過去の信仰形態ではいけません。過去の一方的な信仰態度でも駄目なのです。祝福は、死ぬか生きるかの決定点です。

12

個人の信仰は、いい指導者に出会いさえすればいいのです。しかし、家庭では、互いに指導者とならなければなりません。家庭は、誰のため、何のために生きるかが問題です。独りのときは、祈ればすべてのことがうまくいきました。しかし、家庭では、反対する人がいれば、その十字架を背負って本然の基準まで貫いていかなければなりません。個人は客車と同じであり、家庭は機関車と同じです。個人が失敗したものを復帰するのは簡単です。しかし、家庭的に失敗すれば破綻なのです。

13

父母の愛を受けるには、何をすべきでしょうか。父母様が愛するすべてのものを愛さなければなりません。そのようにしてこそ、愛を受けるのです。自分の父母に愛されることを願うならば、父母の愛を受けようとする息子は、父母がもっているすべてのものを愛したのちに、愛を受けなければなりません。これをしないで愛を受けようとしてはいけません。父母が貴く思うものを自分が勝手に引き継いでは、愛を受けられないというのです。

14

神様の立場と父母の立場は、まず先に考えてあげる立場です。神様は、「私」よりも先に考えてくださるのです。父母も「私」より先に考えてくださるのです。だから良いというのです。それで主体なのです。二人で暮らすというとき、「あの食口がすべきことを、私がしてあげなければならない」と言うべきです。神様がそのような方です。そのような人が中心です。ために尽くしてあげる人が中心になるのです。

15

よりために生きなければなりません。よりために生きる人が責任者になります。十人の中で誰が中心になるかというと、その十人のために愛し、ために生きる人です。その人には、十人がみな、訪ねていくのです。今までは、ために生きるのは悪いことだと思ってきました。しかし、主人、中心者になるというのです。天理がそうです。ために生きるのは損なことだと考えてきましたが、これが中心になるためのものであり、責任者になるためのものであり、すべてのものを相続するためのものなのです。ですから、ために生きなさいというのです。悪いことではありません。損することではありません。商いの中でも、このような商いはないのです。

16

時代が変化することを知り、言葉や生活や態度が変わらなければなりません。霊界でそれを願っています。向こうの国は既に統一され、一つの目標に向かって走っているのに、地上はざわざわとして、目標も定められないまま混乱の中にあります。ですから、精誠をよく尽くしてこそ位置が定まるのであって、そのようにしなければ落ちていくのです。今の時は、そのような時です。ですから、いい加減に生きられません。先生を中心として、どこであっても思いのままについて回り、何かの大会をしても、自分の大会のようにするのですが、それはいけません。一切、そのような行動をしてはいけません。自分の家庭を中心として、天のみ旨を家庭から立てる活動をしなければなりません。そのためには、父と母から変わらなければなりません。これから伝統を立てるにおいては、まず統一教会に長くいる人が、息子、娘の前に伝統を立てなければなりません。伝統を相続させるに当たって、信じられる父母にならなければならず、信じられる兄弟、信じられる夫、妻、信じられる息子、娘にならなければなりません。家庭から整理しなければならないのです。

男女間の愛の礼節

17

西欧文明圏では、小学校のときから性教育をしますが、それは良くありません。それは、自然に分かるようにしなければなりません。アダムとエバに対して神様が性教育をしましたか。かえって、知らないのが良いのです。分かるような年齢になれば、それが恐ろしいことを教えてあげなければなりません。そして、どれほど貴いものかを教えてあげなければなりません。先生の時代は、男女共学時代ではありませんでした。ところが、近頃の子女たちは、体を接触させながら踊りを踊ります。ですから、私たちは、そのような教育機関をつくらなければなりません。これは、恐ろしいものの中で最も恐ろしいものです。殺人罪よりもっと恐ろしいのです。殺人は一人を殺すことですが、これは、数千代の子孫を滅ぼすのです。何人、何百人、何千人が犠牲になるのです。今後、この問題は殺人よりもっと恐ろしい罪であることを教えなければなりません。これからは、このようなことを考えることもできないように教育しなければならないのです。

18

今日、青少年が父母に反対して家庭を破綻させるのは、愛の秩序を破綻させることなので悪です。それによって家庭が破壊され、社会が破壊され、国家が破壊され、人間が破壊されるので、これは明らかに悪なのです。思春期のときは、映画に出てくるスリルある場面を見れば、実践してみたいと思うのです。「それのどこが悪いのか」と言うかもしれませんが、そのような放縦が広がって環境を破綻させることが起きるので、制裁を加えなければなりません。皆さんの知性がより明るくなり、社会の体験と環境的なすべてのものを調整できるようになる、そのときには良くても、今は駄目だというのです。

19

皆さんは、今正に咲こうとしているつぼみが良いですか、いっぱいに咲いた花が良いですか。先生は、いっぱいに咲いた花が良いのです。咲くときは自分の思いどおりに、思い切り咲きなさいというのです。他人の力によって咲くのではなく、自分の思いのままに大きく咲きなさいというのです。それは、皆さんが自然に育ち、自然に思春期を過ぎ、自然な環境でいっぱいに咲いて、愛したい夫を迎えなければならないという意味です。咲くこともできないまましなびてはいけません。葉が落ち、時を逸してから咲く花になってはいけないというのです。男性も同じです。男性もいっぱいに咲かなければなりません。

20

まだ咲いてもいないつぼみなのに、手紙を言いて恋愛する愚かな若者になってはいけません。自然に大きく咲かなければなりません。神様が御覧になるとき、「やあ!純粋に、清らかに咲いたな。香りを嗅いでみると、初々しいな」と言えなければなりません。ですから、神様も希望が多いというのです。そのような神様が手つかずのものを願われるでしょうか、しなびたものを願われるでしょうか。それでは、皆さんは、手つかずのものを願いますか、しなびたものを願いますか。堕落した皆さんも手つかずのものを願うのに、神様は、それをもっと願うのではないでしょうか。そのため、純情をもっていっぱいに咲き、今日の堕落した世界において悲しみの峠に引っ掛からず、それを越えていける、価値ある皆さんにならなければなりません。

21

アダムとエバの一度の失敗を復帰するのに何万年かかったか、考えてみてください。数多くの人が犠牲の代価を払いながら、この場に訪ねてくるまで苦労したのに、ここでまたそのようなことをするのですか。知らないときであれば分かりませんが、知ったのちには、そのようなまねはできないのです。自分に損害があり、被害が莫大であることが分かり、自分に被害が出てどのような結果が訪れるということがあまりにもよく分かるので、これに勝つのは問題ありません。何千倍以上の被害がもたらされることがはっきりと分かるので、それを「やりなさい」と言ってもできないのです。アダムとエバの一日の失敗によって、どれほど被害を受けたかが分かり、自分自身にどれほど致命的な損害が訪れるかが分かれば、そのような行動はできないのです。それが分からないので、「それにどうして勝てるのか」という言葉が出てくるのです。

22

女性には男性が、男性には女性が一番恐ろしいのです。ですから、近くに行ってはいけないというのです。前から女性が来れば、避けていきなさいというのです。最近は、未婚の女性や男性たちが木の下に座って話をしているのを目にしますが、そのようにしてはいけません。話をするなら必ず三人以上で集まってしなさいというのです。三人なら大丈夫です。天使長とエバ、二人で会ったから堕落したのです。アダムを呼んでおいて話をしたら、堕落したでしょうか。そして、アダムとエバも二人で会って話をしたから堕落したのであって、神様を迎えておいて話をしていたなら、堕落したでしょうか。会おうとするなら、三人以上で一緒に会いなさいというのです。これは、強引に従わせようとしているのではありません。そのように誤ることがいくらでもあるので、それを防ごうというのです。そのためには、アダムとエバが堕落できない立場を取るのが原理的です。間違うことを防ぎ、それを清算するためのものが、私たちのみ旨です。そのため、三人以上で会いなさいというのです。

23

伝道するときも、女性は一人でしてはいけません。年を取った祖父や祖母でも、杖を引きずって歩く祖母、祖父でもよいので、一緒に回りなさいというのです。あるいは、小学生でもよいので、一人を連れて回りなさいというのです。伝道してはいけないというのではありません。危険なのでそのように言うのです。堕落する可能性があるので、それを防ごうというのです。三人いれば大丈夫です。私たちが互いに愛するのは、これを防ごうということです。それが愛です。いくら責任者だとしても、そのようにしなければなりません。

24

男性と女性だけがいれば、堕落する可能性があります、なぜガソリンがあるところにマッチを持って入っていったり、ガソリン缶の横でたばこを吸ったりするのかというのです。一度誤れば、すべて壊れていくのです。永遠に逃れる道理がありません。原理を知れば、逃れる道理がないのです。「原理はこうなっている」ということが分かれば、それはきちんと組織的にできているので、一度引っ掛かれば、それを抜け出したり、否認したりする何の根拠もないのです。

純潔、純血、純愛の生活

25

父母は、子女に真の愛を実践することを教育しなければなりません。これは、すべて家庭に関する話です。夫婦が貞節を守らなければならず、一心が定着しなければならず、その次に子女に対して真の愛の実践教育をしなければなりません。父親が酒を飲んで入ってきて、母親を殴りながら「私の話を聞け」と言えば、聞くでしょうか。母親が父親をだまし、うそを言いながら、子女たちには「私の話を聞きなさい!」と言えば、聞くでしょうか。ですから、子女に対する真の愛の実践教育です。教育ではなく、実践教育です。実践し、教えてあげなさいというのです。これを標語として、きちんと言いて掛けておかなければなりません。皆さんが精誠を尽くして書かなければなりません。

26

純潔、純血、純愛、その次に純情です。情を離れては、血統が生じません。千年、万年、情を基盤として血統が連結されるのです。息子、娘を千年、万年、継承させることのできる道は本妻しかいません。離婚できないというのです。そのようになっていなければ、二倍以上、蕩減しなさいというのです。

27

神様が一代、真の父母が二代、皆さんは三代です。そして神様が一代、皆さんが二代、皆さんの子女の三代圏ですが、四位基台理想を中心として白い玉のように純潔な女性、男性となり、純潔な愛、純潔な生命、純潔な血統を千年、万年残すことが、祝福の根本の伝統だったという事実を知らなければなりません。

28

二十代に近い青少年として汚されていない、染まっていない神聖な純情を、大事にしっかりと包んで、どこにもっていくのですか。天が一番喜べる祭壇の前に置いて、神様が喜び、その次に純情をもった男性と女性が出会って、喜ばなければなりません。神様が一緒に束ねられる神聖な土台が、新郎新婦の出会う場所なのです。

29

自分の体は貴いものです。これを汚さず、孝行をしなさいというのです。天に奉仕するその責任をもって、神様から認定を受けたその体をもって、サタンの死亡圏から脱出しなければなりません。これは、人間としての最高の目的であり、またそれが基準です。創造原理からすれば、そのようにならざるを得ないのです。

30

聖子は、天地を愛する人です。聖子は、霊界と肉界を中心として、神様を中心とした天上と地上の王権を中心として、国を愛する人です。天上の王宮法を知り、地上の国法も知って、天地の二つの世界のすべての法を守りながら愛そうとする人です。

31

神様は、アダムとエバを、誠を尽くして造られました。そこにおいて受けたのが真の愛の種、真の生命の種、真の血統の種です。そこに帰らなければなりません。蒔いてくれたのだから、帰らなければならないのです。がらくたは誰も願いません。しかし、霊界に行けば、自分で過ぎし日のことが、すべて分かります。死ぬときに、すべてのものを清算していかなければならないのですが、外的な面は清算していっても、内的には残っているというのです。それが問題です。内的なものまで完全に分からなければ良いのですが、内的な心では傷を受けた跡が残っているというのです。良心の呵責を受けた跡が残っているのです。

32

一心、一体、一念、その次に一核です。そこに必要なのが純潔、純血、純愛であり、純愛の前に純性です。性の問題です。性にも蘇生段階、長成段階、完成段階があるのですが、これは堕落したために生じたのです。「性」と言えば、すべて終わります。一度で終わらなければならないのですが、旧約時代、新約時代、成約時代、そこに合わせなければなりません。純潔、純血、純性です。男性は、心と体が完全に一つにならなければなりません。一つになって、純潔でなければなりません。結婚する前にそれを犯すことはできません。純潔、純血、その次に純性です。性を守って結婚する時になり、核を成し遂げて二人が一つになってこそ、男性と女性が完成した、神様の対象的存在が出発するのです。

33

一心、一体、一念、一性の完成は、体と心が完全に一つにならなければなりません。体と心が完全に一つになるのは、いつでしょうか。堕落した人間においては、永遠に体と心が一つになれないのですが、結婚するとき、初めて核が形成されるのです。一心、一体、一念、一核、その上に何が来るのでしょうか。純潔、純血、純性、純愛が一つになるのです。そうして、和合しなければなりません。一和にならなければなりません。こうしてもああしても、それは永遠に一つです。

34

一心、神様の心、心の根本を中心として、定着しなければなりません。宇宙完成をするとき、定着しなければならないのではないでしょうか。その心の中で一心というのは、統一した心、平和統一した心を意味するのです。それで一心です。ここに一体とならなければなりません。その次に、一念にならなければなりません。一体になって、一つの考えにならなければなりません。その次に、純潔を中心とした性にならなければなりません。このようにして、男性と女性が一心、一体、一念、一核を中心として性の関係を結ぶことにより、男性と女性が初めて一つになるのです。核が一つになるのです。プラスとマイナスを中心とした球形を見れば、上弦、下弦、右弦、左弦、前弦、後弦があるのと同じように、核にもそれがなければなりません。異なる男性の心と女性の心が一つになって、神様のみ前に対象的な体と心の位置で、夫婦の愛の根本とは何かを知り、神様をお迎えして一つになるのです。そのような家庭を中心として、全体に男性と女性の愛を中心とする一体圏が形成されるので、一和、すなわち和合して統一されるのです。永遠に変わらない統一になり、そうして安着するのです。