天聖経訓読室

第1節 平和世界実現の段階

この節の音声は準備中です。
1

個人の平和、家庭の平和、氏族の平和、民族の平和、国家の平和、世界の平和、宇宙の平和を成し遂げて、解放したあとに自由天地は形成されます。そのような自由世界の基盤の上で幸福はあり得るのです。今まで誰も、そのような平和の世界を探し出せませんでした。だとすれば、誰からそのような平和の基盤を見いだせるのでしょうか。今、神様とサタンが闘っています。理想の神様と悪のサタンが闘っているのです。そのように闘っている神様とサタンが、どうして平和の基盤をつくれるでしょうか。その闘いを、誰が止められるでしょうか。皆さんの心と体も闘っています。それが問題です。神様とサタンが闘っているだけでなく、「私」にも闘いが続いていることが問題なのです。

個人、家庭、社会、国家、世界、天宙の平和

2

「私」が行く道、すなわち私たちが行く道は、歴史に代わる道であり、私たちが見つめて進んでいく方向は、歴史の流れと一致した方向であり、同時にそれを収拾していく道です。私たちは、この目的に向かって、私たちの全生涯路程をかけて歩んでいます。私から出発して、その目的点まで行く道は、個人はもちろん、家庭、氏族、民族、国家、世界、さらには神様と全体が動員されて行くべき道です。このような方向に向かっていく途上には、平坦な所はほとんどありません。それは、人間が堕落したからです。個人がこの方向に合わせて目的点まで進む所には、闘争があります。個人的な闘争、家庭的な闘争、国家的な闘争、世界的な闘争、天宙的な闘争が横たわっているというのです。

3

「私」が平和の世界を訪ねていかなければならないといっても、平和の世界はできていません。外部にはないのです。いくらアメリカに行ってみても、ロシアに行ってみても、世界のどこに行ってみてもありません。平和の世界は、私から始めなければなりません。世界と取り替えることのできない平和の心にならなければなりません。人間の欲望は、天地のあらゆるものを自分のものにしたいのです。あらゆる中心的価値の位置に立ちたいのです。そのようにしようとすれば、原則的基準で統一的公式路程を経ていってこそ、その公式路程に計算されたすべての道が合致して、最後まで統一の目的地に到達できるのであって、公式と違っていては、いくら欲望をもっていても駄目だというのです。今日、宇宙全体が公式法度の上で動いています。今日、科学技術も公式の発展基台の上で成り立つのです。

4

個人から家庭、氏族、民族、国家、世界に行くときに、引っ掛かるものがあってはいけません。個人から家庭が勝利点を受け継ぎ、家庭から民族が勝利点を受け継がなければなりません。そのようなパターンで家庭の勝利点を氏族が受け継ぎ、氏族の勝利点を民族が、民族の勝利点を国家が、国家の勝利点を世界が受け継いで、越えていかなければなりません。そのようなバターンが出発と同時に、変わりなく個人から世界まで受け継ぐことができる、一貫した関係を整えた基盤が地上に展開しなければ、神様が願われる摂理的最後の勝利点は、この地上に顕現することができません。そのようなものがなければ、この地上に平和の世界は、やって来ることができないのです。

5

今日、この世界は平和を願っています。万民は、一つの統一された理想世界を夢見ています。その理想世界というものは、私たち一人一人を通さなければ成し遂げることができないのです。私たち一人一人がそのような理想の基盤を確保し、その環境を広める過程を経なければ、その世界にまで到達できません。一つの社会について見てみれば、社会でも互いに競争しています。互いに紛争しているのです。家庭を見ても、相反した立場にあります。私たち個人においても心と体が闘争しているのを見る時、平和の道、統一の道は、他の所から求めるものではありません。私たち個人から模索する道以外にはないのです。

6

世界のすべての人たちが「正しい」と言える基準、公認されたその基準は、「誰も変更することができない」と言える基準でなければなりません。その基準を中心として世界の平和が芽生えるのです。ここから善の個人と善の家庭、善の氏族、善の民族、善の国家、善の世界が出発できるのです。しかし、国家がいくら善だとしても、世界的な基準と方向を合わせられなくなるときは、その国家は崩れていきます。ですから、私たちに問題になることは、主義と思想です。宇宙観と世界観、そして人生観と生活観、新しい世界の人格観などが問題になるのです。

7

私が頼っている世界、私が頼っている国、私が頼っている社会、私が頼っている家庭、私が頼っている父母、私が頼っている妻子、このように考えてみたときに、私自体には頼れる何ものもない、ということを発見するようになります。自分自身も頼ることができないほど心と体が分立しています。ここで問題になるのは何でしょうか。私が生きている世界が問題になるのではありません。世界は遠い所にあります。国も問題にならず、社会も問題にならず、家庭も問題になりません。夫あるいは妻も問題になりません。結局は、私自身がいかなる統一的な基盤を築くのか、ということが何よりも重要な問題です。このように見るとき、平和と統一の世界を願うとすれば、自分から統一して、自分から一つになる位置を探さなければなりません。そのようにしないで、統一的な世界と関係を結ぼうというのは理論的な矛盾なのです。

8

第二次世界大戦や、今のロシアとアメリカが問題ではありません。自分の中で永遠に続くこの戦争を、いかに平和へとひっくり返してしまうかが問題です。これは、この上なく重要だということを知らなければなりません。これができなければ、世の中が平和世界になっても、地獄になります。先生がこの道を出発する時、第一の標語が、「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」というものでした。自分自身を主管できない人は、世界を主管することはできないのです。

9

堕落した運命圏の子孫として生まれた私たちには、個人を犠牲にしなければ家庭を連結させる道はありません。個人を投入しなければ、家庭に平和の基地をつくる道はありません。家庭のために犠牲になろうという精神基盤がなければ、その家庭が民族と世界に前進できる基地になることはできません。安息の基盤になれないのです。ですから、家庭全体が民族を経ていく基地にならなければなりません。民族を経ていこうとするので、一族を導いていかなければなりません。

10

イエス様は「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ一七・二一)と言いました。天国は自分の心にあります。心自体を中心として見るとき、天国は統一された世界なので、心と体が統一された基盤になっていなければ、臨在することはできないのです。ですから、統一教会は、世界統一を主張するのではありません。世界統一の前に国家統一がなければならず、国家統一の前に民族統一がなければならず、民族統一の前に氏族統一がなければならず、氏族統一の前に家庭統一がなければならず、家庭統一の前に個人統一がなければならないのです。最も根本になる心を中心として、個人統一をしなさいというのです。

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統一の内容は簡単です。自分の心と体が一つになればできるのです。そのように一つになったものが家庭と一つになれば、平和な家庭になるのです。そのように一つになった家庭が社会と一つになるとき、その家庭は社会において、誰にも恥ずかしくない幸福な家庭になるでしょう。そのように一つになった社会が国と一つになるとき、それは国において、誰も否定できず、尊敬せざるを得ない統一圏が展開するでしょう。さらには、世界人類と間違いなく一つになったというとき、そのような人たちを通して地上に天国が成し遂げられるのです。

個人から出発する平和の八段階

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今後、全体的な摂理を担当する宗教があるとすれば、その宗教は、霊界までも解怨成就し、蕩減してあげなければなりません。この地上にいる人類、世界の問題だけではありません。霊界の問題までも解決してあげてこそ、世界に平和の時代が来ます。霊界の問題を解決し、その次には神様までもお迎えして玉座に座らせてさしあげてこそ、永遠無窮な地上・天上世界になります。個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、神様まで八段階なのです。

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天を第一とする中心的な存在が歩む道において、その個人は、何のための歩みをするのでしょうか。個人のための歩みではないでしょう。その個人は、家庭を経ていかなければならず、世界に向かう道を行かなければなりません。その個人が、世界だけでなく、天地を統一し、神様と永遠の愛で一つになる勝利のひと時を迎えるようになる時、初めて人間の願う愛の世界、平和の世界が展開するのです。

14

人間は、紛争に連結されている歴史の結果体です。それで、全体をひっくり返して新しい結果をつくることが難しいというのです。自分を中心として、そのような紛争の世界が延長されるので、平和を求める人としては悩まざるを得ません。個人を基準として悪を考え、善を考えるのです。個人を中心として善悪の闘いが起こります。さらには家庭を中心とした紛争、氏族を中心とした紛争、民族を中心とした紛争が起こるようになります。それがもう少し大きくなれば、民族を越えて、国家同士で闘うのです。そのようにぶつかることによって、世界の平和はさらに難しくなります。個人から見れば、個人の平和圏が世界まで連結されるので、家庭の紛争圏、氏族の紛争圏、民族の紛争圏を越えなければなりません。統一教会で言う、八段階の境界線の壁を越えなければならないのです。

15

神様も独りでは絶対に愛の理想を成し遂げることはできません。神様は、腹中期、幼児期、少年期、青年期、夫婦、父母、祖父母、王という八段階の主人にならなければなりません。しかし、そのすべてのものを堕落のために失ってしまいました。神様がその八段階の愛のモデルを立てなければならなかったのですが、堕落のためにすべてのものを失ってしまったのです。それを私たちがつくってさしあげなければなりません。それで、私たちが神様の愛のモデルになって、息子、娘をもつようになっているのです。